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noise&randomness

仕事の学校

なぜそれをやらなくてはいけないのか。

答えを出すのではなく、問題を提起する。


仕事の先回り

別にお茶だしだの、机を綺麗にしておくだのという話ではなく、仕事の先回りということがあって、自分がまだ経験したことのない仕事を引き受けることになった場合、その時点で勉強を始めるのではなく、すぐに仕事に取りかかれるようにしておくには、本を読んだり、人に聞いたりしておく。

自分なりの努力で、理想の自分に近づける訳がない。
同じ結果を出すのにも、自分とあの子では同じ努力で済むわけではない。

 自分がどれほど努力すれば目標に到達するのか、それは自分でもわかりません。

やってみないとわからないのです。

その場合、自分に可能性のあるもののうち、どれをやっておくか。

例えば、広報をやりたいと思っている人がいて、その可能性がないわけではない場合、

広報、マーケティング、デザイン、どれからやればいいのか。


いちばんすきなことを今やる

これだと思います。
仕事は、受験勉強ではありませんし、なるべくなら好きなことをしていたい。

好きなことばかりやっているから人と違うことができる。

その好きなことをやるためには、やはり「先回り」が必要なのです。

 

まずはじめに、得意なものを作る。

昔、デザイナーさんに、illustratorやphotshopどれを先にやったらいいかと聴いたとき、とにかく得意なアプリケーションを一つ作ることと教えてもらったことがあります。

まずはじめに、得意なものを作る。

デザイナーさんにしても、得意分野があります。

広報一つにしても、自分が何が得意なのか、把握する。

その一番得意なものこそが、今後一生かけて育て上げる自由の翼なのです。

 

自分の持ち物を把握する

好きなことは、ある時期に明確にしておく必要があります。

自分は何が好きなのか。

漫然と考えようとすると、他人や流行に影響されてしまいます。

まずは、自分が今、何を持っているのかを把握してみましょう。

適当な紙に、書き出してみます。

技能や得意分野、やってきたことや、社会的に持っているもの。

これらすべてが自分の持っているものなのです。

すでに仕事を始めているのであれば、自分の持っていないものを欲しがるよりは、自分の持っているものを使い、また組み合わせたほうが、ずっと「効率的」なのです。

また、例えばイラストが好きということがあったとして、いわゆる萌え絵が好きなのか、ハイアートに近いものが好きなのか、もしくは、グラフィックデザインと組み合わせることが好きなのか、いろいろと探るほどにあるかと思います。

こういうことは、自分で気にしてあげないと、なかなか気がつきません。

それは自分を大切にするということに他なりません。

仕事は、決して自分の時間をお金と引き換えることではありません。

仕事は自分を大切にするためのものなのです。

 

やれることからやってみる

今、自分が仕事場に於いて、何を担って、何を期待されているのか。

とりあえず、認められていることを全力でやってみることです。

範囲いっぱいまでやってみると、不思議なことにその枠が揺らいできます。

その揺らぎが次の世界への道しるべとなります。

何かが見えてきたら、その感触を大事にして、それは、自分にとってどのような可能性があるのか、見つめてみましょう。

例えば、はじめ事務をやって、次に広報に抜擢されたのなら、もう事務には戻れないというくらいの意志をもって取り組んでみる。

その全力こそが自分の限界を揺るがし、自分を成長させるのです。

 仕事は、常に、今がチャンス

仕事は、自分だけで行うものではありません。

それであれば、自分を固定するのではなく、その場において、固定している物は何かを見抜いて、そこで今迄の経験や知識をどう生かしてよりより流れを作るのか。

自分を改革せずに固定したまま、組織に入ったところで、周りの人から見れば、「上の人が変わるたびに仕事のやり方が変わる」だけとなり、資源の浪費にしかなりません。

自分は有能だとの思い込みが自分を固定化させます。

例えば、文学が好きで、大学ではアートや民俗学を学んでいた人、こういう人は、相当どうにかしないと、仕事には役に立たないわけです。
なら、どのような仕事のやり方にしたら、そのいくぶん特殊な能力が生かせるのだろうか。
それで、本を読んだり人と話すと、コンテンツマーケティングというものがあることを知る。
さらには、自分が「日常に埋もれているものを見出す能力」があるのなら、そのアーティスト的視点で、組織を改革できないか。
それを考えていたら、実際、ウィーンにアートを作らないアーティスト集団がいるという話を聞いて、それだ、と思う。
それでも、いきなり実績もないのにそう言う事をやり始めても、周りが納得しないので、納得させるために、まずは、わかりやすい数字で示された結果を出す、ことが目標となります。

量をこなすことにより、質が高まる

脳は、楽をしたがります。

言い換えると、質を高めて労力の量を減らそうとします。

仕事をする際にも、なるべく量を減らそうとします。

しかし、量をこなしたことのない脳は、質を高める方法を学べません。

質というものは、量をこなして、脳にその分野の知識、技能、感覚ができて初めて、何を減らして、何に注力すれば良いのかがわかってきます。

例えば仕事Aをしているとします。

「質を高める」を履き違えると、この仕事Aの範囲内で質を高めようとします。

それでは、仕事Aが仕事A'にしかなりません。

その仕事A'という代物は、自分とって効率が良くなっただけで、人にはわかりづらく、引き継ぐのが難しい仕事になってしまいます。

「担当や上長が変わるたびに仕事のやり方が変わる」というのは、この、量を増やさずに一定の仕事の中だけで効率を上げようとする脳のサボり癖からくるものだと思います。

質が高まるのは、A+B+C+Dをこなしてみて、初めて可能になる現象です。

仕事Bをこなすことにより、仕事Aだけでは気がつかなかったやり方を見いだせるということがありますし、何よりA+B+C+Dをこなすことにより、いわゆる化学反応が生じ、融合し、新たな仕事を作り出せる可能性が出てくると思います。

 

それは、すでに自分の世界を作り出しつつあるということになります。

 

勘所をつくる

いわゆる「勘所ができる」とは、経験したことのない仕事でも、なんとなく、ここをこう押せば、できるだろうということがわかってくる状態です。

例えば、SEやヘルプデスクという仕事をやっていると、人からコンピューターのことを聞かれます。

自分が知らないことであれば、ネットで検索して、大抵のことは解決してしまいます。

ところが、「勘所ができていない」専門家以外の人は、自分が知りたいことをどのようなキーワードで検索したら良いのかもわからないのです。

この「勘所」ができてくると、ようやく一人前に近づいてきたということになります。

 

縦で収まらないのならなら横にする

棚に物を収めようとして、収まらない場合は、向きを変えて収めますね。

同じく、仕事をこなすうちに、教科書通りや教えてもらったやり方では、難しいことが出てくるでしょう。

通常のやり方では、締め切りに間に合わない場合、今までの方法では進行が滞る場合、そういった場合は、別の手を考えることになります。

別の言い方をしてみる。レイアウトを変えてみる。

別の手を考えつくのも仕事の勘所ができてくるからに他なりません。

二の手、三の手を用意しておく。

仕事を進めるコツです。

 

時間を相手のために使う

自分の時間は、自分のために使いたい。

自然な考えですが、人類は、ほぼすべてがこの考えで生きています。

「経済的な自由」などという矛盾した謂も自分の時間を自分が使いたいとの念から発した言い方かと思います。

ここで、自分の時間を人のために使う人がいたら、それだけで貴重な存在になります。

人のために使うということはどういうことでしょうか。

時間を守ることは、その最も効果がある方法です。

待ち合わせに遅れないことや締め切りを守ることは、それだけで相手の時間を削らないことになります。

さらに、締め切りより前に作ったり確認したりすれば、相手はそれだけ余裕を持てます。

5日締め切りのものがあったとして、5日に送ったら、相手は5日から作業ができます。

ここで、3日に送ってあげれば、相手は3日から始めることができます。

料理してから出す

仕事をしてゆくと、打ち合わせや会議に加わることになると思います。

その際、聞きたいことや確認したいことをその場で口頭で話したら、相手は、理解に時間がかかります。

会議においては、最初にこちらが伝えたいこと、相手に確認してもらいたいことを資料にして、用意しておく必要があります。

メールの転送なども同じです。

いくら相手のメールや添付にすべて書いてあるからといって、それをそのまま送ってしまっては、相手が要件を読み解くのに時間がかかってしまいます。

忙しい人なら、読まないかもしれません。

転送メールであっても、自分で要件を編集してから相手に送るようにしましょう。

これは、ウェブサイトなどでも同じです。

文字が多くて読ませないと何が書いてあるのかわからなかったり、自分でリンクを探さなかったりするサイトは、相手の時間を削ってしまいます。

料理してから出してあげる。原材料のままだと、相手が料理をしなくてはいけないのです。

現代人は、自分の時間を自分が使うことに慣れているので、なるべく料理して、受け手は、「食べるだけ」にしておきたいものです。

 

人と話すときは、メモをとる

人と話すときのコツは、なんといっても、「自分の話を聞いてくれる」と思わせることです。

相槌を打つことも大事ですが、ノートを持っていってメモをとることによって相手は「自分の話を聞いてくれる」と思います。

自分の言葉を記録してくれる人は、人は信用するものです。

何より、自分の知らないことを人は教えてくれるものです。

 

人からのアドバイスは、無視するか、編集しなくてはならない

初めてやることが多かったり、もっとうまくやりたくなったりしてくると、人に仕事のやり方を聞くことになります。

ただ、人は、自分成功体験を自分の努力や才能、果ては、人格によったものとしたがる傾向があります。

つまり、自分のようになれ、といっているのです。

生物は、本能的に「自分」を増やそうとします。

ありがちなパターンが、親が子に対して、また恋人が相手に対して、そのようにふるまって相手を歪めることがあります。

偉い人でも、精神的な老人でも自分の成功や得ている立場を、自分が把握している範囲でしか知らないのです。

何がどうなって、この世界が成り立っているのか、すべて知っている人などいません。

しかも、人は、自分の正しさを示そうとする傾向があります。

アドバイスというオブラートに包んで、自分の思い通りにならなかった憂さ晴らしをするということは珍しいことではありません。

 

その人を見習うのではなく、その人のやり方を参考にする。


参考書の答えをそのまま書いても正解にはならない。全く同じ問題は出ないから。
仕事のやり方も同じで、あくまでも参考にすることになります。
そのままイコールで自分の生活に適用できる最適解を人は欲しがりますから、Webにも格言が載っていたり偉い人のお話が紹介されています。

しかし、格言は、文脈抜きで語られることが多い。聞いただけで、成し遂げた気分になるし、続きが省略されていることが多い。

例えば、シェイクスピアのアントニーとクレオパトラ

いや、ポンペイ、神々がすぐ願いを叶えてくれぬからといって、それだけで卻けられたとは申せませぬぞ。

という言葉が出てきます。

これだけだと、自分の願いを諦めてはいけないという文脈で語られそうですが、続きがあります。

第二幕第一場
メーナス いや、ポンペイ、神々がすぐ願いを叶えてくれぬからといって、それだけで卻けられたとは申せませぬぞ。

ポンペイ その御座に祈願を捧げている間に、肝心の欲しいものが腐ってしまう。
メーナス 人間、わが身のことはわからぬもの、時にはおのが禍いともなるべきことすらねだりかねませぬ。それを我らのために賢き御手が卻ける。つまり、祈ったものを失って、かえってこちらは得をするというわけです。

むしろ、天地これを授く。我走り求めざれども必づ有るなりとの道元(曹洞宗の祖)の言葉に近い話になります。

格言って、興奮はしますけどね。
すごい武器を手に入れたかのような。
でも、その使い方まで、格言には書いていないんですよ。

 
ある種の対等関係をもって仕事をしてみる

仕事をする上では、上下関係があり、上のものは、それにすがって仕事をしている部分があり、それを何かと誇示する傾向があります。

それを20世紀的仕事のやり方とします。

その20世紀的仕事のやり方は、少数のスーパーエリートが社会に存在し、他の者は、封建制や軍隊組織の名残の中で暮らしいてた時代のものでした。

しかし、スーパーエリートが減少し、人々は、自分の楽しみや成長を優先させるようになっている現代では、それを踏まえたやり方ほの方が、楽しく仕事ができます。

すでに美大の特に現代アートの学科では、教員と学生、どちらが教える立場なのかは、曖昧になっています。

例えば、学生がいわゆる二次創作のような作品を作ったとして、それが教員の知らないジャンルであれば、教員は教えることはできないのです。

その場合、アートとしてのコンセプトづくりや、インスピレーションを与えるにとどまります。

同時に、教員は、知らないジャンルに触れることにもなるのですから、逆に教員がインスピレーションを得る機会も多くなります。

それは、どちらが教える立場で、どちらが教わる立場なのか、曖昧なままの方が双方の成長に繋がる場として機能している例です。

基本的には、どちらかが教える立場になるのですが、教えられる立場の人も、ある種の対等関係をもって接することが、その場を大事にしているということです。

 

場をつくれる人になろう

その場を大事にしているということは、その人といる場や時間を大事にしているということであり、ひいては、その人を大切にしているということに他なりません。

自分の考えを出すばかりでは、新しいものは生まれません。

人間一人の想像力には限りがあります。

「意思を持たぬ自由」といえば、言い過ぎになるかもしれませんが、それは、自分の頭を「自由編集状態」にしておくということでもあります。

その状態にしておけば、自分の外にあるもの、仕事でも風景でも、自分の編集方針や趣味嗜好、技能などに応じて編集し、新しいもを作り出すことになります。

さらに、その作り出したものに対して、対等にある人がコメントをしてくれたり、その人なりの編集方針で加わってくれれば、自分だけでは生み出せなかったものが作れるのです。

20世紀的仕事にしがみついている人々は、それをさせなかったわけです。

仕事も組織のためと言いながら、自分の正しさの補完的な場として、利用しているに過ぎなかったからです。

相手を尊重するということを敬語や礼儀をもって接するということに限定し、それ以外をさせないのは、20世紀的です。

20世紀的仕事のやり方にしがみついている方々は、ある種の対等関係が苦手です。

人間は年を取るほど自分を変えられなくなりますが、それは、努力ができなくなるということでもあります。

面倒なのです。

すでに存在している場を帰るということは、それなりの力が必要です。

しかし、「場」こそが、自由な雑談を生み、インスピレーションを与えられる場となるのです。

雑談が得意な人は、ある種の対等関係でいられる場を作れる人とも、いえます。

意見を言う、と言うことは、その人では気がつかなかった問題を作り出するとでもあり、それは、人に「気づき」を生じさせ、別の世界を見せることにも繋がってゆくでしょう。

それはアートの存在意義でもあるかと思います。

 

自分を大切にする

仕事は一対一ではありません。

自分が相手にお願いをしたからといって、応分のものをそのまま返す必要はありません。その分、自分の仕事に力を注ぐことにより、巡り巡って、自分を助けてくれた人のためになることもあるのです。

受験勉強ではないのですから、同じ仕事、同じ結果だとしても、自分なりのやり方があるはずです。
アドバイスされたことも、違うと思ったら、止めればいいのです。

 そのためには、自分のことをよく知らなくてはいけません。

自分の仕事のやり方、趣味嗜好、技能は現在、どのようなものとなっているのか。

つまり、体や脳がどのように出来上がっているのか。

すでに出来上がっているものは仕方がありません。

それを別のものに変えようとするのではなく、今あるものを用いて、または今までとは別の組み合わせ方をして、仕事をこなす。

それが自分を大切にすると言うことです。

 

たくらみを持つ

組織と自分なら自分の方が大事に決まっています。
組織のためではなく、とにかく自分の成長につながるような「生活」を目指す。

仕事は生活の一部なのです。今の仕事を我慢したら、生活があると言う考えは、学校を三年間我慢したら、その先に自分の生活があると思い込むのと同じです。

組織に向かっては、仕事をしながら、その実、自分のために仕事をする。そのくらいの「たくらみ」を持つことが自分を大切にすることにつながります。

それを続けるうちに、今までとは違った景色が見えてくるでしょう。

 

自分が好きなことはて離しちゃいけない

 

組織と自分なら自分が大事なのは当たり前。

自分よりも組織を大事に思うということはない。

しかし、仕事をこなさなければその先はない。

仕事をこなすことによって、今まで見えなかったものも見えてくる。

仕事をこなしながらも自分の好きなことを見出して、それを大事にする。

好きなことがわからない場合は、まず、自分がやってみたいことをやる。

今、思いつかないのであれば、何が好きだったのか、思い出して見る。

とりあえず、目標に近づくことで、以前は気がつかなかった「好きなこと」が見えてくる。

それは、自分の世界が広がったということ。

 

「たくらみ」を持つ

 

仕事をこなしているフリをして、自分を成長させる。

生活の一部としての仕事であって、仕事を我慢した後に生活があるわけではない。

自分を大切にするということは、自分の場も大切にするということ。

パブリックにおいて、自分の場を作る。

仕事をこなしながら、その実、自分を成長させるという「たくらみ」を持つ。

 

自分のためか、人のためか

人のために動く人は、重宝がられる。

欲張りな人間に他人は与えようとしない。

人間は、励ましたいという願望もある。

頑張っている人には与えたくなる。

しかし、人のためと言いながら、こうしておいた方が得だな、と考えて動くわけであるから、それは自分のためとなる。

目先の欲望をかき集めるのか、ルックアップして、自分がやれることを求めるのか。

 

 

とりあえず、目標があったら近づいてみる。

 

毎日の義務仕事ばかりしていては、時が過ぎ行くばかり。

好きなことを目標に立てて、とりあえずはそれに向かってみる。

近づくにつれ、それは自分の求めていたものではないことがわかるし、近づくことで、別の好きなことが見えてくる。

行き先を自分の意思で決めているわけではない。

だからこそ近づいてみようとしてみる。

目標を立てて、進んでゆかないと、脳は楽をしたがる。現状に満足しようとしたがる。

 

自分の能力の使い方を覚える。

能力の出し方は、アイデアの出口を見出すということであり、自由を求めがちな精神に、むしろ出口を与える。

 

 

一つの用件を伝える時に、すっと、別の根回し的なものも滑り込ませる。

 

なんであれ、自分というカオスを抱えていられるか。

カオスをまとめて出来上がるのは、ある程度のカオスでしかない。

作品は完全なものではなく、ある程度のカオスに過ぎない。

でたらめな自分からスタートできるか。

テキストでもイラストでも自分のカオスを物質化する営み。

その物質化されたものを目で見るからそれが脳を刺激し、思考が進む。

テキストでもイラストでも、作品のためというより、むしろ思考のカオスを物質化する営み。

あるとき書きまくるのは、自分のカオスをもっとカオスにすること。

そうしてこそ出口が見えてくる。

そうして、一度身につけたものの制約から離れる時期がきて、ようやく自由になれる。

 

何が得かなど、人の身でわかろうはずもない。

 

 

 

 

関連記事

 

読書力

ルロワ=グーランの身ぶりと言葉 (ちくま学芸文庫) を読む。これはおもしろいと、他人にも勧めたくなる。そこで、ふと思う。思い浮かんだ人のうち、この本を自分のように興味深く読める人は、全員ではあるまい。

本を面白く読むにも、「読書力」と言ったものが要る。

単純に学力が高いからと言って、読書力も高いというわけではなさそうである。

現代文の読解問題が解けるから読解力があるかと言えば、そういうわけでもない。

読書というものは、自分の感性や知識をさらに拡げたり、つなげたり、また深める物だろう。

読書の楽しみの一つとして、普段から、自分で考えていることの解決を見るという事がある。

それも、読書力の一つだと思う。

読書力がある人は、読んだものを自分なりに解釈して、他人に教えられるレベルにもある。

知識のハブというか、ニューロンのような役割も果たせるのだと思う。

 

次に、非常に大雑把に読書力のレベルを示ししたいと思う。

 

読書力 7 幅広いジャンルの専門書が読める

読書力 6 特定の専門書や古典が読める

読書力 5 近代文学が読める

読書力 4 エンターテイメント系の小説が読める

読書力 3 タレント本や雑誌のエッセイが読める

読書力 2 新聞等を読める

読書力 1 活字はネットくらいしか読まない

 

読書力を上げるには、どの程度のレベルなのかを把握したうえで、少しずつ上げて行けば上がるのではないかと思われる。

 

いつか消えそうなモノたち

いつか消えそうなモノたちは、あるものです。

気付くたびにメモしようかと思います。

蝋石

三文判

虫すだく

紙の辞書

人に生まれた以上、との考え。

 

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民訴族学漫談第31回*宗教とサブカルチャー

前に、

民俗学漫談*宗教のサブカル化 - CheatCut.hatena

という漫談をしましたが、今回は、宗教とサブカルチャーについて、漫談をします。

サブカルチャーにおける「聖地巡礼」の現象

漫画やアニメに、現実の宗教施設が登場したり、神仏が登場したりします。

虚構の世界に現実の場を登場させるわけです。

物語を構成する素材として用いるのですが、その事によってリアリティが増しますね。

ゴジラが目指すのは、東京タワーであるから見ている側に衝撃を与えるのであって、見たことのない町では、その効果が薄いという事です。

本来、漫画やアニメは、ファンタジーであり、子供向けであったから、その舞台も架空の場であったわけです。

世界が広くない子供にとっては、たとえ明治神宮だろうと、織田信長だろうとフィクションでしかありません。

ところが、ここで話題にする漫画やアニメは、子供向けではない、十代後半以降の人びとが見て楽しむものです。

そうしたフィクションに現実のものを出すと、どうなるか。

現実に存在していたものの方が、フィクション作品の世界に引き寄せられる。

もちろん、人の頭の中の話ですよ。

昔、「真・女神転生」なんていうゲームがありまして、私も繰り返しやったのですが、舞台が東京なので、現実の世界がゲームの舞台として登場している、と昂奮したものでした。

一昔くらい前から、漫画やアニメに出て来た場所をファンが訪れるようになりました。

その行為を「聖地巡礼」と呼んでいます。

本来の聖地巡礼は、自分の日常を離れて、宗教施設に向かう苦難によって、魂が浄化されたり、宗祖の苦しみをわずかでも分かち合おうとするものです。

しかし、アニメで登場した場所に赴く聖地巡礼の場合は、少しでも自分がその作品の世界に近付きたいという思いから来ます。

もっと言えば、その作品の登場人物に近付きたいという話です。

近付けぬものに対する憧憬が人を引き寄せる。

もちろん、出向いたところで、作品の何があるというわけではなく、神社やお寺が通常通りにあるだけですが、ファンはその場に立つ事によって、あたかも自分が作品世界に入り込んだような気分に浸るのです。

現実世界と、虚構世界をその場でリンクさせるわけですね。

脳は、思っただけで現実と勘違いする機能がありますから。それを活かします。

その場に行くファンは、すでに「巡礼者」ですので、本来の巡礼者と同じく、日常を抜け出して、別の世界に足を踏み入れているわけです。

そこが、宗教とサブカルチャーの重なりやすい点です。

例えば、ゴジラに出てくる東京タワーは、あくまでも世俗の施設なので、別の世界に入り込むという感覚が薄くなる。

その点、宗教施設はもともとが、脱俗のための場なので、日常から虚構への特異点として機能しやすいんですよ。

常日頃から漫画やゲームの世界に浸っている人々にとっては、それは、たやすい事なんです。

神社や寺が日常から抜け出す目的であることには、今も昔も変わりません。

ただ、神仏ばかりではなく、現代は、崇拝対象のレパートリーが広がっているだけです。

それにより、神社やお寺は何もせずとも、自治体がおとなしくはしていません。

最近は、役所に「観光プロモーション課」などという部署があるんですが、映画やアニメで、自分たちの地域が舞台ともなれば、それを売りにして観光客を呼ぼうとしています。

アイドルグッズとイコン

私は、アイドルなども、サブカルチャーとして認識しています。

アイドルのファンにとっての「聖地巡礼」と言えば、コンサートですね。

またはサイン会などでしょうか。

コンサートやサイン会などで、自分の崇拝対象と同じ場に立つ。

その事がアイドルと同じ世界にいる証しとなるわけです。

さらに、グッズが、日常に戻った人々をアイドルとつながりをつける役割を果たす。

直筆サインは聖遺物だし、グッズは、そのコピーなんですね。

ブロマイドはイコンです。

アニメやゲームのファンもグッズを手に入れては、好きなキャラクターと世界を同じくする感覚を持つわけです。

ただ、アイドルとアニメのキャラクターの違いは、どちらもフィクションと言えばフィクションなのですが、アイドルは現実の人間を使って、恋愛の対象を作り出しているところにあるでしょう。

そのうち、人工知能とコンピューターグラフィックを用いた、現実のアイドルと区別のつかないアイドルが出て来るでしょう。その時に、コンサートや歌やグッズやサインは、人間のアイドルと変わらない。しかし、裏がない、性格の意味ではなくて、コンサートの稽古やグラビアの撮影などがないアイドルなわけですから、どこまで崇拝できるかだと思います。ま、それも、ファンは知ってて、ノリでファンになるんでしょうね。

人は、崇拝する対象を求めずには済みません。脳は、安定を何より求めますから、額づく対象を求めてしまうのは仕方ありません。

歴史のフリー素材化

最近、漫画やゲームに、実際の場所以外に、実在した人物が登場する事が増えてきたように思います。

以前から、「信長の野望」なんていう、全国制覇を目指すシミュレーションゲームなどがあったのですが、最近は、全体の作品数が増えているのか、信長をはじめ、歴史上の人物をキャラクターとして用いた作品が目につきます。

デザイナーが、ポースターなどを作る時に、「フリー素材」と言って、あらかじめ、どなたかが作っておいた模様などを、著作権以外は自由に使っても構わないというものがあるのですが、最近は、信長でも何でも、歴史上の人物はフリー素材並に使われています。

そうした作品では、クリエーター側は、フリー素材として使っているにすぎません。キリストでも天照大神でも信長でも。

思想でもなく、まして倫理でもなく、ただのキャラとして使うわけです。

キャラを作りやすいんですよ。すでに、皆の中でイメージが出来上がっていますから。

しかも、その上、性別を変えて、美少女キャラにしてしまえば、意外性も出ますし。

古いところでは、沖田総司を女性として扱った映画がありました。牧瀬理穂さんあたりが演じていましたか。角川映画ですね。

その流れです。

物を人としてキャラクター化してしまう事を「擬人化」と呼びますが、美少女化する事を「女体化」などと呼びます。

しかし、キャラとして扱って来たもの、イメージをはっきりさせ過ぎたものは、現れたものに縛られるから、たちまち地上の有限性を与えられ、天上の無限性を失う。

名付けられ、キャラづけされたものは、慣れてしまいますから、畏怖の感情は減ってゆきます。

仏像フィギュアという一つの例

仏像フィギュアが一つの例。

今、仏像のフィギュアがあるんですよ。

仏像は、木の中から、信仰心によって仏を見出すものじゃないですか。

ただのオブジェではありません。

仏像をフィギュアにするという感覚が、すでに信仰の話ではなく、版権のいらない「フリー素材」として扱っていますね。

今や、お寺の仏像も、新しくする場合は、中韓あたりの仏師にオーダーするらしいですね。

なぜなら、日本人の仏師に「注文」するよりも安いから。
すでに、仏像も「注文」、オーダーするものになっています。作る方も、職人と変わらない。
住職が己の信仰により、仏の姿を木の中に見出すのではなく、通販で注文する時代なんですね。

「紀元前というものを考えた時点で、キリストへの信仰心が欠けている」との話もありますが、歴史上の人物や神仏をキャラクター化できるのは、やっぱりクリエイターの感覚だと思います。

信じる対象探し

通常の人間が信ずるのは、そのもの言葉ではなく、気配、雰囲気なわけですが、それは、ある種の崇拝の感覚がないと成り立ちません。

 前にも話しましたが、宗教施設が、信仰の場ではなく、イベントや願い事の場として人々に用いられている。人々は、「消費者」ですから。

神社に出向いて、願い事をするわけですが、その願い事は、祈りから生じたものではない。他人やマスコミや実践本を通じて生じた願いなんですよ。ほとんど手続きや取引をしている感覚と変わらない。

人の脳が確固としたものを求めますから、神仏もただの畏怖の対象よりは、畏敬の対象にし、さらにメディア上で扱うことにより、親しみを持たせる事を望みます。

最近、荒れ狂う対象が荒御魂(あらみたま)だとしたら、人が制御できるようにし、その力を人のために役立てるように、神社に鎮めたものが、(にぎみたま)だと、思っているんですよ。神社はそのための装置なんじゃないかって。

はじめは、人里から遠くにやっておくしかなかったものをある時期の「知識」や「技術」によって、人里のそばに置いておけるようになった。それが神社なんじゃないかと思うようになりました。ライトノベルみたいな発想ですけどね。

それで、その和御魂から、さらにテキスト情報のみを使うようになったのが、今のフィクション作品ではないのだろうか。

そこでは、苦難に満ちた巡礼ではなく、むしろ喜びをもとめて「外なる中心」(ターナー)に向かう行楽の一種となっている。

そう思います。

ただ、対象が有限性ならば、自らもまた有限の中から出ることはないので、どこまでもフィクションとしての「聖地巡礼」なわけですね。

それもまた、日常の憂さをはらして、新鮮な気分になるための、ケガレを払う一つの方法なんだと思います。

宗教者は、管理人となってしまいますがね。

いつの時代も同じでしょうが、思想が曖昧になるにつれ、確固としたものを欲しがる。60年周期で独裁者的なものを欲しがるのと同様に。

多くの人は、信じる対象を探す旅をしているようなものです。メディアに慣れすぎると、自分探しが自分の信ずるもの探しになります。まあ、自分探し自体が、メディア上の幻想なんですが。

例えば、アイドルグルーブの誰を「推す」のか。どのようなゲームが好きなのか。そのゲームのどのようなキャラクターが好きなのか。人びとは、自分のキャラクターを作るために、忙しく崇拝対象を探し、選び続けています。

自分のキャラクターを作るために、フィクションのキャラクターを求めるわけです。そういう現象です。

そのくらいしないと、自分のアイデンティティーが保てない。

メディア上では、多くの「キャラクター」が映って、動いて、喋っていますからね。

そこでは、自然に任せていては、人生はうまくいかない、と言う。

「好きな事」を見出して、それに向かって、努力しなければならない。実際に成功して、メディアをにぎわせている人びとは、そうしてきた。

と、言われます。言われたら信じちゃいますよねえ。

そのようなプレッシャーを幼い頃から感じていれば、アイデンティティーの薄まりを怖れるのは当たり前ですね。

そうして、狭い範囲の選択肢の中での努力を強いられる。

私の言っているのは、努力の放棄という事ではなくて、徒な努力に走らせると、努力をするだけで何も身につかずに年を重ねてゆく事がある、という事なんですよ。

 自分なりに適当に、自然に普通に生きようとしている人だって、「正しい生き方」だと思いますよ。

しかし、メディアは、「強い」ものを示してくるので、普通の人も必要以上の努力を求められてしまう。

その抜け道を求める心の衝動の一つなんだと思います。現代の「聖地巡礼」は。

フィクション作品が増え、日常的にエンターテイメントのビデオ映像にさらされると、その題材とともに、個人の想像の多様さは消滅してゆくのは、自然な成り行きです。

示されてばかりいれば、そこから選ぶ事しかしなくなる。そう言う構造ですから。人間の脳は。

アイドルでもアニメでもスポーツでも、祭の熱狂を求めずに済まない人間の欲求に宗教の形式で応えていますね。
「個人の感情がいつも攻撃性とセツクスの周囲を巡っているために、振幅が非常に狭くなっている」身ぶりと言葉 (ちくま学芸文庫)342ページ。

終わったのに、時間は過ぎてゆく不思議。

8月15日的な気分。

ようやく、小説が仕上がった。

とりあえず、早稲田文学に送る。

今日から、何をするんだろう。