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noise&randomness

民俗学漫談第30回*七夕

一年には二度の区切りがある

年中行事には、神様にお願い事をするイベントがあります。

願いという漢字は、頭が大きくなるところをかたどったものらしいですね。

共同体の願いは、祭でかけられますが、個人的な願いはどこでしますか。

まず、初詣があります。もう一つは、七夕ですね。

夏と冬に一度ずつ。

日本は、四季があります。

一年を4つに分ける。

また、半年ごとに分けることもあります。

昔むかしは、半年で年が移り変わると考えられていました。

そこで大祓(おおはらえ)は夏と冬にやる。

また、日本の神話に出てくる天皇、おおきみが百何十歳まで生きていたという記録がありますが、ただの伝説と片づけてしまわなければ、半年で一歳と考えられていたわけです。

まあ、聖書となると例えば、ノアさん、箱舟作った方ですね。900歳まで生きていたそうです。

いくらなんでも、無茶な気がします。

浮世絵の七夕

で、まあ、個人が公式の場で願い事をかけるなんていうのは、昔はなかった。

個人で願をかけるには、そっとするか、非日常に出向く。夜中に神社に行くわけです。

初詣が盛んに行われるようになったのは、明治以降、それも、鉄道が整備されてからの事ですし、七夕の行事が現在の形になるのは、江戸からです。

歌川広重の名所江戸百景の『市中繁栄七夕祭』

 

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七夕 - Wikipedia

これは、19世紀ですからね。

日米修好通商条約が調印されるかされないかくらいの頃ですよ。

これ見ると、短冊らしきものがすでにある。

黄色い紙には、字ですかね、書かれていますね。

模様じゃないですよね。

願い事を書いて、天まで届かせようとしています。

他にも、千両箱、模型でしょうが、千両箱や大福帳がつけられていて、商売繁盛を願っています。

西瓜もあります。

なんで西瓜?

なのかと言えば、季節ものとして珍重せられているのもありますが、西瓜の種を北斗七星の形に見立てているという話もあります。北斎も描いていますね。

宗教施設の観光化

江戸が都市として機能してくる。そこに市民社会が現れてくる。

当然の流れとして、個人が一人の人間としての意識を持ち始める。

思想を持ち始めるわけですね。

商人は経済力を持ち始めますし。

そうした、個人の自意識を持って行く場、持っていきどころとして、年中行事が、祭りが再整備されていったんじゃないかと思います。

当然、宗教施設も、信仰の場というより、行楽の場となってゆく。

願いをエスカレーションする場として、寺社が再構成されていったのが一つ。

そうして、経済力を持ち、かつ自意識が大きくなった者が行けば、飲み食いしながらはしゃぎたくなる。

それが観光化ということです。

年中行事も、個人の願いをかけるためのツールとして再構成される。

笹の葉も短冊も。

デザインし直されるわけですよ。

時代の需要に合わせて。

リ・デザインですね。

デザイン的な、配置、またはアイデアを練り直す。

行事にふさわしく言葉も変えてゆく。

人々は、自分のイメージを思いにしたかったんですし、その思いを向けるイメージがほしくて、絵馬でも、七夕の笹や短冊でも、ツールとしてほしかったんでしょう。

冬の絵馬に夏の短冊です。

思いを昇華させる時と空間が必要とされ、そのデザインをどういう場でいかにしてゆくか。

これは、現代のコミュニティ・デザインでも同じですよ。

たとえば、バーがありますが、そこでは、いろいろな願いが錯綜する。薄暗い灯、お酒、バックグラウンドミュージック、椅子にカウンター。そうしたものが願いを昇華させるために都合よく配置されているわけです。

小説も、自分の書きたい事ではなくて、人々の思いを昇華させるものを書けば受けるんですけどねえ。

七夕

七つの夕べと書いて、本来は「しちせき」と読みますが、これを「たなばた」と読みます。

七の夕べと言うと、ホラー小説の章タイトルみたいですが、七月七日の夕べということです。

日本語って、こう言う事が出来ますよね。

或る文字に別の文字の読みをハイブリッドさせて、二つの意味情報を一つの言葉で示せるという。

「本気と書いてマジと読む」は、違いますね。読み方を買えただけです。何の情報も加味されていません。

「たなばた」の「たな」は、棚です。「精霊棚(しょうりょうだな)」というのがありまして、お盆に棚を作って、お供え物をしたりして、先祖の霊を慰める棚です。

「たなばた」の「はた」は機械の機と書くんですが、これは「はた」と読みます。

機(はた)織りのはたです。

棚と機がセットになったのが七夕なんですね。

これは、日本独自の信仰で、夏の時期に、ああ、七夕の季語はなんと秋なんですが、まあ、夏ですよね。その夏の時期に、「カミ」が別の世界からやって来る。

その場に設けた棚と、「カミ」のために織った機とがセットになった信仰が七夕の一つのもととなっています。

て、ことは、やっぱり鎮魂儀礼なんでしょうか。

この場合の「カミ」は、まだご先祖様レベルでしょうし。

予祝儀礼的なものとは、雰囲気が違います。

民俗のハイブリッド

七夕は、織姫と彦星の伝説が元ですね。

この話は、ブロックしたくなるくらい聞いているでしょうが、若い相思相愛の二人が一緒になったら、そりゃ仕事も放って、遊んじゃいますよね。致し方のない話です。

で、その伝説と、また別の話、七月七日に、七本の針に色とりどりの糸を通して、庭に出して、針仕事の上達を願ったという行事。これが習合した。習慣が合わさったわけです。

似たような時期にあるのなら、一緒にやってしまえ。というわけです。

こうやって、神話も、年中行事も、民俗はハイブリッドしてゆくわけです。

 

ちなみに、私の誕生日は、12月25日なんですよ。

もうお分かりですね。

私には、クリスマスがなかったんですよ。

クリスマスと私の誕生日が習合してしまったわけなんですね。

誕生日にケーキが出る。そのケーキはクリスマスケーキでもあり、かつ、誕生日のケーキでもある。

その日の蝋燭は、キャンドルナイトの為でしょ。

私の年齢分立っているんですよ。ケーキの上に。クリスマスに讃美歌じゃなくて、「ハッピーバースデー」なわけですよ。吹いて消すんですよ。

誕生日プレゼントをもらいながら、後ろには、ちょっとしたクリスマスツリーがあるわけですよ。

そのプレゼントは、サンタクロースからじゃないんですよ。もう、完全に親からなんですよ。親もサンタクロースの恰好なんてしないんですよ。

で、プレゼントが、赤い長靴に入ったお菓子なんですよ。

そのように、誕生日とクリスマスがハイブリットしたイベントに参加していた私は、はなからサンタクロースの存在を考えませんでした。

そりゃ、後になまはげイコールサンタクロースとか言ってますよね。

日本に伝わってから

で、そのように、すでに中国でハイブリッド化していた七夕の行事なんですが、当然、日本に伝わってきます。

奈良時代には、宮中で、星合(ほしあい)、星と星、織姫と彦星とが合うのを願ったり、また、針の上達の行事などが行われるようになりました。

平安時代になると、葉っぱに貴族が願い事を書いていました。まあ、歌の形式でしょうが。

針の上達だけでは、もつたいない。ついでに願い事を書ける日にしてしまおう、と考えたわけですね。

それから、ずっと下って、江戸になり、短冊に書かれるようになりました。

これが現在の七夕に直接つながります。

現代人に対するホモ・サピエンスみたいなものです。つながっています。

こうして、神話も行事もハイブリット化して現代にいたると。

ストレートに来ているものなんであるわけがないんですよ。

なんで笹?

夏越(なごし)の大祓(おおはらへ)という行事が六月の晦日に行われます。

一つの区切りの時期ですね。

この辺の時期に行われるのは、京都の祇園会もそうなんですが、疫病を払うという意味合いがあります。

だから、都市で夏の祭が発達するわけですよ。

それ以降になると、鎮魂行事ですね。お盆です。

七夕は、もともと鎮魂行事とも結びつけらますが、夏越(なごし)の大祓(おおはらへ)からデザインは持ってきていると思います。

時期的に大晦日と同じで、この世とあの世の境があいまいになる時期ですし。

ちょっとやばくなると、非日常との境をわざとあいまいにするんですよ。

輪っかをつくってくぐるとか。

その時に、茅(かや)、かやぶき屋根の茅です。その茅で、人が通り抜けられるような輪を作ります。今でも、各神社でありますよ。

6月30日か、12月31日に神社に行けば見られます。人々が通り抜けてますよ。

半年分のケガレを払うために。

今、6月30日か、12月31日と言いましたけど、やはり現代は、一年は一年、365日なんですね。6月30日と言っても書いてもときめきませんが、12月31日っていうのは、言うだけで気分がたかまりますね。

 

で、茅の輪ですが、夏の場合、両側に笹がつけられた。

笹は、おにぎり包みますよね。

殺菌作用があるんですよ。

現代の菌に効くかわかりませんが、昔は効いた。

夏越の大祓は疫病を防ぐ意味合いもあったはずですから。

当然、それのシンボル的なものも持ってくるわけですね。

それが笹だと。

江戸の七夕

それから、七夕が、江戸市中の行事になる時に、その笹だけ持って来た。

茅は燃やしますから。

願い事を書いて燃やせば、天に届くわけですよ。

火によって、別の世界のものへと、変化させるわけです。

それを江戸っ子は、長い笹竹に願い事を書いた短冊を括り付けて直接天に近づけさせたわけですね。

気が短いですから。江戸っ子は。

当時の景色は壮観だったと思いますよ。

江戸は、町家や商家においては、二階建てまででしたからね。寺社や幕末以外は。

屋根より高く、五色の紙をつけた短冊が上がるわけです。

しかも、今のように、何日も前から出すなんて願いが漂うようなことはしません。前日に一斉にあげて、七夕が終われば、一斉におろしていたんですよ。

イベントとして、祭として、効果を考えていたんですよ。

 

今、クリスマスツリーは、一か月以上前から出ていますが、驚いたのが、何年か前にスカイツリーソラマチに行ったら、クリスマスツリーに短冊がつけられて、願い事が書かれていました。

あれ、もしかしたら、ほしいプレゼントを書いているのかもしれませんが、冬は違うでしょ。絵馬があるでしょうに。

民俗学漫談第29回*炭素原子

ネットワークについてです。

ネットワークは、何かと何かを結ぶものなんですが、AとBを結ぶ。

これでは、いわゆるホットラインであって、ネットワークとは呼びません。

では、AとBとCを結んでみる。

AとB、BとC、CとA。

これでネットワークになったんでしょうか。

まあ、ネットワークと呼べないことはないんですが、なんか、遠回りしている気がします。

これに、DやEが加わると、結びつける線が無駄に増えて混線しそうです。

そこで、ふつう、ネットワークには、「ハブ」を設けます。

「ハブ」は中心、中枢の事です。

第一の意味は、車輪のこしきの事です。

「こしき」っていうのは、車輪の中心、そこを中心に回転する部分のことです。

自転車の車輪の方がイメージしやすいかと思いますが、あれがハブです。

で、ネットワークにおいては、ハブを設置して、そこを介して各ノードを結ぶ。

ノードっていうのは、さっき言った、AとかBとかのことです。

ハブをいくつか置いて、ノードを結ぶ。それを眺めると網の目のようになっているから、ネットワークと呼ぶことにしました。

社会のネットワーク

今、言っているのは、電子ネットワークのことですが、近ごろは、脳の構造も人間社会の構造も、ネットワークとして示すようになりました。

まあ、分かりやすいものに、たとえたがりますからね。人間の習性ですね。

そこで、人間社会をネットワークでたとえて見ます。

個々の人間がノードですね。

ノードとノードが社会的な関わり合いをするにつれ、ネットワークが広がってゆきます。

知り合いが増えるたびに、新たなリンクができます。

逆もあります、仕事をやめたりして、組織から抜けると、それまでかかわっていた人たちと、ほとんどかかわらなくなる事もあります。

人間社会がネットワークなら、当然ハブがあります。

これも人です。

いますよね。交際関係が広くて、付き合いがよくて、知り合いが普通の人の十倍も百倍もいる人が。

知り合いが多いということは、入ってくる情報が多いということです。

人間は、昔から情報を求めてきました。生きるのに必要な情報を、です。

そこで、今でも、とりあえず情報は欲しがる習性があります。

知り合いが多い人は、人間の社会で、ハブのような役割をするようになります。

その人を介せば、目的の情報、人にたやすく行けますからね。皆、利用するわけです。

皆、その人に近付くから、ますます、その人のハブの役割は増してゆく。

さらに、すでに存在しているネットワークとネットワークがハブで結ばれる。

ジャンルの違う人と人とを結びつけるのも、ハブなんです。

何であれ、一つの物が売れたり、流行ったり、利用されたりするのは、ネットワーク型社会の自然現象のようなものなんです。

そのままにしておけば、ハブに集中します。

その反面、既存ネットワークへのリンクが薄れてゆく人も増えてゆきます。

現代の問題は、情報リテラシーのあるなしじゃなかったんですよねえ。

たやすく情報が、大量に手に入るがゆえに、一斉に一つの物へと向かうという、自由民主主義ならぬ、全体民主主義へと向かっています。

全体としては、自由を失っているんですよ。制度が。

コンマ数パーセントの者が経済的利益を抱え込む。

現代は、経済社会ですから、わざわざ「経済的」と断る必要はありませんね。

その他大勢、9割以上の人びとは、他の人びとと同じこと、同じ手続きをしないと生きてゆけなくなってしまっているんです。

働き方、人との付き合い方、生活の仕方、情報の得方、人生の「作り方」まで。

これは、全体主義社会ですよ。

脳の構造

で、今回は、そういう批評的なことを言いたかったんじゃないんです。

脳の構造もネットワークで表されています。

使う部分はネットワークが形成されて、使わなければ、衰えてゆきます。

で、脳の話をしたいんじゃないんですよ。

炭素原子の話

何の話をしたかったかというと、原子です。

しかも、炭素原子です。

物質には無機物と有機物があります。

無機化合物と有機化合物と言った方がいいかもしれません。

有機化合物は、炭素原子が入った化合物のことで、生物は、これでできています。

無機化合物は、有機化合物以外の化合物です。

分かりやすい定義ですね!

で、数から言うと、有機化合物が圧倒的に多い。

詳しくは知りませんが、1000倍は差があります。

有機化合物は数千万種類ありますから。無機は数万種類だった気がします。

そう言うと、有機化合物を構成する原子は、さぞかし種類が多いんだろうなあ、と思いきや、炭素、窒素、酸素、水素などを主なものとして、10種類ちょっとでほとんど作っているんじゃないんでしょうか。

 

何ゆえ、そんなに数少ないもので多くのバリエーションができるのか。

ポイントは、炭素原子にあります。

炭素原子は、他の原子と結合しやすいんですよ。

原子と原子は、どうやって結合するのかというと、基本は、「共有結合」です。

簡単に言うと、電子というものを持っています。原子は。原始の外側に電子が存在しているんですが、そのいちばん外側に存在している電子のうち、どうも、片手が空いているのがいる。手をつなぐ相手を待っているのがいるわけです。

そう言う電子、他の原子と結合できる状態にある部分を、炭素原子は4つも持っています。水素は一つです。酸素は二つです。

で、二個の水素原子と結合して、水分子になるわけです。

炭素は4つも持っている。4つの原子と結合できる懐の深さを持っているわけですね。

自分をあいまいにしているわけですよ。

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余地を残しておくんですね。自分は自分! もう完成している、と金やプラチナのような依怙地なことは言わないんですよ。炭素は。

しかも、結合の仕方によって別の物質にもなります。元素の種類、数がまったく同じでも、手のつなぎ方を変えると、別のものになるんですね。

こうして、炭素原子は、有機物の数を増やしていったわけです。

人間にとって、常温で固体なのも便利なんですよ。

水素や酸素、窒素など、他の物は気体ですし。

結合の仕方によっては、ダイヤモンドにもなります。

ちなみに、ダイヤモンドは、炭素だけでできているので、「単体」です。有機物とか、無機物とかじゃありません。

さらに、炭素は、単体で鉛筆になりますね。

鉛筆は、炭素がはがれやすいような構造になっているから、字が書けるんです。

人類にとって、鉛筆は、ダイヤモンドよりはるかに重要なんですよ。

 

みんな、若いうちは、金やプラチナになりたいんでしょう。

私もそうでした。

珍しいし、変化しないし、ちやほやされるし、輝いているし。

でもね、金よりも炭素の方がはるかに役に立つんですよ。

民俗学漫談第28回_現代音楽

現代美術

現代美術もサブカル化しているように見えます。端ばかりつついて、中心がない。

個人的に現代美術はおもしろいと思うんですよ。参加してみたいくらいで。

でも、メインカルチャーとしての美術がどうも前面に出てきませんね。

美しいもの、崇高さで人の心を揺り動かすもの。

それが、メインカルチャーとしての美術の役割なはずですよ。

うーん、すでに写真技術を意識することさえなくなってしまったんでしょうか。

現代音楽

現代音楽、なんていうのもあります。

クラッシック音楽の一部で、現代において作曲されたものだと思うんですが、これも変な言い方だと思いますよ。

ポップスとかは、わざわざ「現代音楽」なんて言いませんよね。

現代の音楽なのは当たり前ですから。

なのに、クラッシックは、なんで現代音楽と言うんでしょうか。

あれって、「クラッシック音楽で用いられる楽器と技法で作曲された音楽」ってことでしょうか。

美しい協和音を崩して、不協和音を用いる。

それで、不安を与えて、はっとさせようとしているんでしょうか。

現代音楽はもちろん、クラシック自体も聞く人が少なくなっているようです。

聞く人は減っていないんですが、聞きに出かける人が減っているという。

私は、好きでBBC3クラッシックチャンネルのインターネットラジオをよく聞くんですが。

生産のエスカレーション

クラッシックを聞かないのは、官能性がないからでしょうね。

なくはないんですが、ショパンの別れの曲とか、ベートーベンの悲愴とか。

足らないんですよね。

ポテトチップスやハンバーガーばかり食っている方に、だしのうまみを感じろ、と言ってもわかるわけじゃないですか。

テレビばかり見ている方に、小津安二郎の映画は見ていられないでしょう。

新聞やWEBで情報ばかり求めている方には、内田百閒の文章には何も感じないでしょう。

それと同じですよ。

普段、官能性の強い曲や歌詞にさらされている方がクラシックを聴いたところで退屈を感じるしかしないでしょう。

しかも、コンサートホールに据え付けられた椅子に座ったまま、かしこまったまま、聞いていなくちゃならない。

マニア以外は、つらいでしょ。

人は、「クラッシック音楽を聴きに行く」というより、経験を求めに行きたいわけですよ。

「好きな演奏家の音楽を聴きに行く」という経験をしたいんです。

当然、そこに「誰と行く」と言う経験も合わさってきます。

エンターテイメントを求めているんですよ。

芸術だろうが、テーマパークだろうが、「俺がボスだ」的な消費者は、同じレベルで扱って、自分の気分をよくしようとするものを優先的に選びます。

お金を使うわけですから。

お金こそが、労働者や年金生活者にとっては、最大の自由を発揮できる行為なんですよ。

今や、こどもさえ、同じでしょう。

そのお金を使うにあたって、自分に官能を与えてくれるものを呼び起こすものを求める。

これは、ホモ・サピエンスの脳からしたら、当たり前のことなんですよ。

快楽を与えてくれるものが、自分の存在、と言うより、存続に有利だったからなんですよ。

自分の存続に有利なものに快楽を感じるようにホモ・サピエンスの脳はできています。

もちろん、打ち克ってこその人間ですがね。

音楽の発生

現代美術は、批評という仕事があるからいいんですよ。

人の心をはっとさせる、という仕事がね。

それは純文学と同じです。

ただ、現代音楽は何をしたいのか。

したいことは当然、あるんでしょうが、視覚表現じゃない分、解説が難しいんですよ。

ふつうのクラシック音楽って、解説がなくても聞けるじゃないですか。解説はあるにしろ。

聞きに行かないのは、聞くときの構造の問題で、音楽の問題じゃないとは思います。

私が好きだから、バイアスがかかっているんでしょうか。

音楽は、古いものです。

ことばとどっちが古いんでしょうか。

まあ、言葉の方が古いと思いますが、文字や文法よりは、音楽の方がはるかに古い。何万年も古いはずです。

狩猟からホモ・サピエンスが帰って来た時に、悦びのあまり、動物の骨だの木だのを使って、リズムを取りだすんですよ。

喋っていくうちに体がのっていく、みたいな。

なんなら、坐りながら、地面をたたいて、拍子をとったに違いない。

で、まわりのかみさんや、こどもたちもつられて、リズムをとったり、踊ったり、歌ったりした。

音楽の発生は、これですよ。感情の昂ぶりのあまり、じっとしていられなくなった。

日常をノリで越えてゆく

人間にとっての音楽は、感情を昂(たか)ぶらせる。感情を昂ぶらせたい。昂ぶらせて、のっていきたい。ノリで日常を乗り越えるみたいな。

音楽は、ノリですよね。

ノリたいから、わざわざ出かける。

日常のノリが気に入らないから、音楽を用いて、日常から、別の場にトリップするわけですよ。

ドーパミンに誘導されて、コンサートに行くんでしょう。

阿波踊りありますよね。

阿波の躍りですから、今の徳島県あたりの踊りです。

「えらいやっちゃ、えらいやっちゃ、ヨイヨイヨイヨイ、踊る阿呆(あほう)に見る阿呆」ですか。これを江戸では「馬鹿踊り」と呼んでいました。

憑(と)りついているとしか思えなかったんでしょう。

私も、高円寺や初台で見たことがありますが、トランス状態です。

みなさん、入り込んでいます。

日常ではないですよね。

あの踊り方は。非日常をかましています。

日常から、非日常へ。

音楽と踊りを用いて入り込むわけですよ。真夏の夜に。

あの踊りはなんなのか、と言う話ですが、当然、楽器には太鼓と鉦(しょう)がある以上、鎮魂舞踏であることは間違いがない。

しかし、それが「馬鹿踊り」になってゆくにつれ、そうした本質は忘れられてゆきます。

しかし、またしかしですが、どうも真夏の夜に太鼓や鉦に合わせて踊りたくなる。踊らずにはすまない。

その感覚だけは、消え去らない。

そこで、鎮魂舞踏はより激しさを増し、奇抜な踊りになっていったわけです。

ま、それだけハードに踊らなければ、あの辺の霊を鎮めるのは、難しかったのかもしれません。

でも、あれが、ホモ・サピエンスの古い脳ですよ。

たまには、踊らないといけないんですよ。リズムに合わせて、夜に。

若者だけじゃありません。

クラシック音楽メインカルチャー

クラッシック音楽は、宮廷音楽ですからね。もともと。

違うんですよ。サブカルチャーじゃないんですよ。

教会で民衆が歌っていたにしろ、場が教会ですから。メインです。

で、サントリーホールでもオペラシティコンサートホールでも、凸版ホールでも、その貴族がしていた音楽を聞くという経験を模倣しているわけです。

本来、あの場は、皆で歌うべき場であるはずが、お客さん、たいていは民衆ですからね。それが、場は民集用で、コンテンツが貴族なんですよ。

貴族は音楽を聴いて踊るか、ご飯を食べるか、お休み前のひとときを楽しんでいたか。

ですからね。

現代、音楽堂で踊りの時はまねしていない。あとは、食事のときや、寝る時ですよね。

食事はしませんね。演奏中に。

あとは、寝る時に聞いていた形式が残る。

じゃあ、眠くなりますね。

眠気を我慢して、貴族と違って自由ではない。

それで、第一楽章の終わった途端に、咳をするわけですよ。

ああ、自由だと。

楽章と楽章の間くらいでしょう、観客に与えられて自由は。咳をする自由が。

自由になりたい。解放したい。狩猟や農業の労働から解放された、今、自分のリミッターを解除したい。時間も動きもあるものか。

と言う感じで音楽があって、踊りがある。

クラッシック音楽だって、宮廷の舞踏の時に流していたわけですよ。

じっとしていられないわけですよ。もともとの音楽性が。

音楽は同じで、形式を変えてしまったから、ホモ・サピエンスの脳がついていかないんですよ。

オーケストラの形式

宮廷で音楽を奏でていたのは、少人数だとして、オーケストラはなんなのかと言えば、あれは、演劇や祭典の際の効果音だったはずです。

電気がない時代の音の大きさは、数で勝負です。

それが、演劇や国家行事で用いられた。

両方とも、祭儀の形式を利用しています。

ほんまもんの供犠を用いた祭儀から、形式だけ残して演劇や国家行事に移行してゆくわけです。

移行じゃないですね。利用されていくわけです。

祭儀だけじゃすまなくなりますから。回数から言って。

人間の生活が複雑になり、寿命が延びるにつれて、難しくなります。

より刺激性の強いものを求め、回数も必要になってゆくんですよ。

こどもと違って、その辺の物で勝手に遊びを作り出したりしませんから。

実験しなくなるんですよ。大人は。

試みなくなりますね。失敗した時に引き返す力が弱まってゆきますからね。

答が分かっているものしかしようとしません。

快楽原則に従うだけ、ドーパミンに従うだけです。

自分の頭で答が分かっていることしかしようとしない。

作曲家の発生

音楽は、祭儀や演劇や舞踏、まあ、舞踏も祭儀の一種なんですが、そういったものとセットでした。

もちろん、個人的に演奏はされていましたよ。楽器がある以上は。

ただ、公式の場で音楽が独立して演奏されたのは、ルネサンス以降だと思います。

「作曲家」という職業ができて以降の話のはずです。

自分の感覚を音楽によって表現したい。他の物事の効果を上げるためではなく、音楽そのものの表現を追求したい、と、考え始めた人間がいて、成立したものです。

だから、「作曲家」はクラッシック音楽にしかいないんですよ。

今は違いますよ。昔の話です。

私は、ピアノが強力だと思いますね。その前のオルガンも含めて。ピアノがあって、作曲家が生まれたんじゃないかとさえも思っています。

そうして、作曲家が発生したならば、どんどん音楽性を追求してゆくわけですよ。楽器も改良してゆくわけですよ。

頭に浮かんだ表現をどうにかして、現実に降ろさなければならない。芸術家ですね。

オーケストラが先にあって、作曲家が生まれたというより、作曲家がオーケストラを作り、拡大発展させて行ったんですよ。

箱としての音楽堂

箱の問題が出てきます。

王侯貴族は自分の家で演奏させればいいんですが、民衆は聞けない。あい変らず祭りや酒場で素朴な音楽を聴いていた。

19世紀に入って、初めは、倉庫を用いて、ようやく音楽堂という箱ができて、王侯貴族の音楽が降りてきたんですね。

音楽堂はなんですかね。舞台があって、客席がある。音響は効果的にしているんでしょうが、あの構造は、祭典を行う場ですね。

他には何もない。プロテスタントの教会か、倉庫のようです。

音楽堂は、プロテスタントの教会の形を模倣して作られたものかもしれません。

民衆が聞く場は、教会だったわけですからね。

て、ことは、みんなで歌ったらいいんじゃないでしょうか。

教会は、讃美歌を唄う場でもあったわけです。

美しい音楽に合わせて自然とイエスの受難や神への賛美が口に出る。

歌は、自然と口から出るものですよ。こらえきれなくなった感情の迸(ほとばし)りですよ。

商業音楽は、それを代弁するわけです。

今、スマートフォンで文字を入力すると、検索候補が、どんと出てきますよね。

そこから、自分が入力したかった単語を選ぶ。

快楽を求めている

人間は便利なものを求めますよ。

何に便利か。

自分の感情を便利によくしてくれるものですよ。

貨幣制度が長年使われてきたのは、経済を発展させるだの、公正性をもたらせるだのではなくて、便利だからですよ。快楽に便利だからですよ。

クラッシック音楽、特に現代音楽を聴きに行かないのは、ドーパミンが出ないから。その音楽に官能性がないのと、場に行っても快感を得られにくいからです。

もちろん、恋人がクラッシック好きなら喜んで行くでしょう。トーパミンが出ますからね。

ホルストの惑星シリーズ。

最も聞かれているのは、「木星」ですが、副題は「快楽をもたらす者」ですからね。

クラッシック音楽の演奏される場をひろげてみる

森の中でも夜の高層ビルでも、そういう所でやったらいいんじゃないかと思います。

日曜の昼間ではなく、金曜とか土曜の夜とか、そういう、現代人がもっとも解放的になり、官能的になり、明日の事を考えない時間に。

交響楽団は、現代には少し重い気がしますが、その荘厳さを生かせる場でのパフォーマンスのしようはあるんじゃないでしょうか。

日本でやるなら、神社か寺でしょうね。マニアの方は音響を気にするでしょうが。

場の問題ですよ。

もともと、公式の音楽は、聖なる場、聖なる時に奏でられていたはずですからね。

禅寺の枯山水を眺めながら、月光とかじゃなくて、あえて、ショパン幻想即興曲を聞いてもいいですし、ファリャの「スペインの庭の夜」を聞きながら、明治神宮の鳥居をくぐってみたいですよね。そこはクロスさせるわけです。バッハやヘンデルじゃなくて。

やってみたいですよね!

とても官能的です。

場と相まって、別世界にトランスしてしまいそうです。

でも、どうせなら、ボブ・ディランのOne More Cup of Coffeeを聞きながら玉砂利とか歩いてみたいよね。冬に。

このように、需要はあるんですよ。個人的な需要かもしれませんが。

要は、編集しだい、組み合わせ次第ですよ。

烏もざわめくくらいの事をしたらいいんですよ。

森に隠れる楽団みたいな。

「いい音を聞きたい」という需要の他の需要があるわけです。

クラッシック音楽を聞かないのは、目新しさがないからですよ。

消費者は、目新しさを求めていますから。

感動の大部分は、目新しさでしょう。

感動させるために作られたものは、繰り返しにたえられない。

年月にたえられないんですよ。

私は、音楽は静かに聞きたい。静かな気分になりたい。

今の音楽堂は、静かに聞けるわけではない。前後左右に他人がいたら、静かに聞けません。

ある程度混んでいる電車で、誰もしゃべっていなくても、リラックスできないのと同じです。

じっとしているというのが、人間には無理なんです。

ほら、映画館で、ポケモンとか、子供たち皆で歌いだすじゃないですか。

あれが、ホモ・サピエンスですよ。

テキストの問題

もう一つ。

テキストの問題です。

音楽にテキストが関係してくるのか。

現代人、この現代人と言うのは、マスメディアを通して情報をえるようになってからの人びとの事ですが、現代人は、情報を求める癖がついています。

情報を求めるのは、人間、ホモ・なんちゃらの時代からそうなんですが、テキスト、文字情報を求めるんですよ。

雑誌を見る。

写真やイラストが目にはいる。

次にテキストを探します。

判断がつかないんですよ。写真やイラストだけでは。

映像も同じです。

映像が出る。

見る人は、次にテキストを探します。

文字でも、俳優のセリフでも。

見たものの解釈を求めているんですよ。

解釈付のデータが情報なんですよ。

ところが、クラッシック音楽には、テキストがない。

キャプションのない写真、映像を思い浮かべられない物語は何だかわからないんですよ。

クラッシック音楽は、文体だけで読ませる小説のようなものなんですよ。

文章好きの人は喜んで好むでしょうが、物語を聞かせてもらえると思っている人々には何だかわからないんですよ。

「次はどうなるのかな」と思って、ページをめくる人々は文体を味わうようなことはしないんです。

クラッシックの演奏会場で、開始前に、パンフレットの解説を読んでいますね。手持無沙汰もあるんでしょうが、意味を、情報を欲しているんですよ。

ホモ・サピエンスの習性です。

しかし、そこにあるのは、解説であって、テキストではありません。

クラッシックにテキストはない。

これが、クラッシック音楽が聞かれない最も大きな理由だと思います。

効率を、こどもの頃から教えすぎたんですよ。

意味が無いものは、無駄だと。必要がないと。

スマートフォンでも情報を求めるわけですよ。

スマートフォンが、日常を乱す可能性があるにもかかわらず、あれだけ広まったのは、情報を与えてくれるからですよ。手放しません。

情報を求めるようにできているんですよ。ホモ・サピエンスの脳は。

扁桃体でも壊れない限りは。

そうして、情報がないものには反応しなくなっちゃいましたね。

ただ、テキスト付の音楽は、けっこう精神的には危険なんですけどね。

感情を持っていきますから、考えさせずに。

漢字を想う

たのしい 楽しい 

頭の中ではひらがなの方が楽しいと思ったが、並べてみると漢字のほうが楽しそうだ。楽の成り立ちは、楽の音からきているとおもうが、踊っているように見える。

いまだに専門がない。

自分の知識に曖昧さを残す。

曖昧にするために読書をするようなもの。どんどん雑種化してゆく気がする。

物語というのは、因果関係を示すことで成り立っている。何か出来事が起きたり、登場人物が目的を持って行動したりするときに謎が示される。解きたがる人には読んでいて楽しいだろうが、それをやってゆくとコミュニケーションは成り立たなくなる。

それでこうなる、それでこうなる、いや、それではこうはならないだろうと思う。

努力が足らないとは思うんですが、努力が足りないと言ったって、何の努力をすればいいのか。
一流はそれが分かっているのでしょう。。自分の何を示せばいいのか。
願い事が一つ叶うなら、として、願い事をすぐに思い浮かべられない。

この世界は、「運」と人は言う。

「運」とは、把握しきれない要素の事に他なりません。

民俗学漫談*映画

映画と祭

映画ができてから、カーニバルの昂奮がなくなりました。

映画で昂奮するわけです。カーニバルよりも安全ですからね。

映画の形式は、演劇の舞台と同じですね。同じ構造を持っています。

演劇は、祭の再現ですから、映画もその構造を継承している以上は、昂奮させるわけですよ。

ただ、だんだん、映画が産業になり、見る側が消費者になってゆくにつれ、祭の昂奮とはかけ離れてゆきます。

映画は、演劇よりも、むしろ、テレビに影響を受け始めます。

ロングショットではなく、クロースアップの多用ですね。

一つの世界を示すというより、人を区別し、何が行われているのか、分かりやすくする手法ですね。

 

なんで、テレビは、クローズアップにしたかと言いますと、初期のテレビは、画面が小さく、画像も粗かった。

ロングショットにしたら、何が映っているのか、わからないんですよ。

 

映画と、テレビは出所が違うんですよ。

構造が違う以上、効果も違います。

テレビでは、祝祭の昂奮は生じようがない。

祭の昂奮はどこへゆく

この間見た広告で、サッカーの中継をスマートフォンでも見られる、と。

それで、一方には、選手がシュートを決めている写真が、一方では消費者がスマートフォンを片手に覗き込んでもう一方の手で、ガッツポーズをしている広告なんですがね。

これ、昂奮するんでしょうけど、祝祭の昂奮とは程遠いですよね。

むしろ、ゲームのクリアとか、レベルが上がったとか、せいぜい、合格通知を見た時の感情に近いと思います。

個人的なクリアの問題、片付いた、と言うことであって、カタルシスとは別の次元です。

構図の事で言えば、私は、昔、アニメをよく見ていたんですが、昔のアニメは、映画の構図をまねしていたと思います。映画が演劇をまねしていたように。今のアニメは、テレビのまねしていますね。クローズアップが多く、世界を示すというより、キャラクターを見せることが目的のようです。

スマートフォンなどの小さい画面で、キャラを見て、ストーリーを追う。そのストーリーもキャラを楽しむためにあるという。歌舞伎の手法ですね。

ストーリーを追う

こどもの頃から漫画やテレビばかり見ているとね、って、私の事なんですがね、自分の外にある物語を自分の人生の手本にしてしまう。

どういうことかと言うと、自分の人生の現実にある状況、それに合わせて、行動してゆくのではなく、外にある、フィクションですよ、誰かが作ったな過ぎない物語ですよ。

その自分とは関係のない場で生まれたフィクションを以て、自分の人生に口出しするんですよ。自分で。

危ない行為ですよね。

合っているか、間違っているか、合っていることばかり探していれば、こうなりますよね。

民俗学漫談*学校の形式

学校という代わりを作り出すシステム

で、そんなわけで、近代以降、国民国家の成立に合わせて学校を作りました。

その学校という場を作るのに、用いたモデルは、別に寺子屋じゃありませんよ。あれはコンテンツは参考にしたんでしょうが、形式は違います。

学校が参考にしたのは、軍隊ですよ。

面白いですよね。大半の教員やもちろん学生も戦争など口にするのも嫌だという人びとが多いと思いますが、その人々が暮らしを成り立たせている、つまり貨幣を得ているのは、軍隊を参考にしたシステムなんですよ。

軍隊は規律なんですよ。

時間を守り、規律を守る。下っ端にとっては、それがすべての世界です。

ちなみに、日本で明治時代に入って、学校ができました。

そこには、公家の子弟も通ってきます。

ところが、公家の子弟は、時間をまったく守らなかったらしいですね。教師の指示にも従わなかったらしいです。理解できなかったんでしょうね。

今は、天皇の直系でさえ、時間を守っています。

それどころが天皇ご自身も守っていまするね。

これが、異常なことに気がつかないんでしょうか。

規律を守るのは、それが効率がいいからにほかなりません。上にとって。

すべて、効率に還元されるシステムなんですよ。システムも個人もユニット化されます。

ユニット化と言うのは、代わりが効くということです。

生徒だろうが、教師だろうが、校長だろうが、やめたら別のユニットを補充すれば済む。そういうシステムになっています。便利ですね。

軍隊では、落伍者を人間として劣等者として扱います。学校も同じなんですよ。成績が悪ければ、「分かりやすく」「悪い点数」をつけるますね。人間関係も同じです。学校へ行きたくないと思って、行動で示せば、それはもう「マイナス点」「不合格者」なんですよ。

軍隊には、試験がありました。と言っても、ある基準を設定して、健康度ごとのベレル別に振り分けるための物です。

通常は「甲種合格」と言いますね。これは、肉体的エリートですね、明治時代当初の話ですが。軍隊で十分機能すると言う事です。

続いて「乙種合格」「丙種合格」と続きます。

丙種は、虚弱な人と言うことで、まあ、通常、軍隊からすれば、「不合格なんでしょうが。

で、問題は、この検査、軍隊のための物であったんですが、この「甲種合格」が一種のステータスに歪められてしまいます。

簡単に言いいますと、甲種、乙種はいいんですが、「丙種」以下は、まともに結婚ではなくなります。国家から、「肉体的に欠陥がある」と認定されているようなものですからね。

民衆はどうしても「仕分け」という、わかりやすいものにしがみつきますから。

レッテルなんて、ドーパミン出てるんじゃないんですか。

逆に「丙種合格」にされた人は、何も合格じゃない。落ち込みますよね。

こうして、まず、同じ年齢、そして、同じ能力のものを集めるのが軍隊です。

服装も同じ。給食も軍隊が発祥ですよ。

似合わない服を着させられる。

栄養オンリーの皆と同じ食べ物を食わされる。今は少し違うんでしょうが、「給食を残すな」と言うのがありますね。

でも、言う割に、社会全体が食べ物を残しては捨てていますよね。

この辺の教育は、上手くいっていないと思うんですが。

ちなみに、私は、給食はあまり食べられなかったんですよ。で、残すと怒られますからね。怒られたくないから、最初から少なくしてもらっていました。

今は食べ物は残さなくなりました。米粒も気づく限りは残しませんよ。

給食に愛情なんてないじゃないですか。工夫もないし。

好きな人が作ったものなら、まずくても食いますよね。食えるものならば。

あとは、学校は、別に相性も良くない人と席を並べる。とか、

尊敬もしていない、意気投合もしていない者の指示に従う。

ベルや号令に従って動く。

これに慣れるのが学校の目的ですね。

私は、何年か前まで、よく放送大学を見ていたんですよ。

放送大学は面白いんですが、裏を返せば、当時の私が「正解」があるものを好んだからなんですね。

間違ったことに対する罰が激しい環境で育ったから、マニュアルを求めるんですよ。

正解が欲しかったんですよ。

学校は「正解」を示しますよね。毎日、毎時間。しつこいくらいに。

そして、「正解」は、一つだけある。ということにして。

こどもがいる知り合いに聞いた話ですが、今、小学校から、意見や感想を言わせるようにしているみたいですね。で、それは「正解」かわからないから、教師は肯定するだけ。

テレビの見過ぎで、「コメント」しないと、キャラが立たないとでも思っているんでしょうか。

芸人じゃないんですよ。

じっくり考えたいこどももいるでしょうし、わからないものは、「わからない」と言えるこどもを育てた方がいいんじゃないでしょうか。

正解は自分で作る。さらに、問題も自分で作る人が運が良ければ成功しますね。

大人は忘れたがる

で、そういった、人間をユニット化するのが学校の形式なんですよ。

黒板があって、教壇があって、生徒が並んで同じ方向を向いている。

たまにシフトチェンジする生徒がいると、戻そうとする。

学校は、その形式をとっている以上、ソフトの部分を変えても、状況は変わらないんですよ。

村の構造、住宅の配置を変えなければ、習慣を変えないように。

それでも、大人たちは、文句を言いながら、あい変らず、学校にやる。

文句を教員に向けてばかりで、原因が学校の構造にあることに気づこうとしない。

自分で見てきているはずなんですけどね。

現状の学校に通うということが、リスクを伴うことだということが。

なぜ、放っておくんでしょうかね。

人間の脳は、そういう構造をしているんですよ。自分の「多幸感」を妨げるものは、「ノイズ」としてしか反応しません。

大方の大人は、自分が経験してきたくせに、忘れてしまうんですよ。

まあ、大方の人びとは、「無事に」学校を卒業できたことでしょうから、別に変えるほどの事はない、と。

個性抑圧シフト

学校は、「個性を育む」と言いながら個性を抑圧するシステムを敷いていますからね。「個性抑圧シフト」ですよ。

そりゃあ、ぐったりしますね。個性があるこどもにとっては。

心身ともに傷つけられながら、しかも、「今日も傷つけられる」と承知しながら、その場に向かわなくてはいけない。なんで?

納得なんて、できるわけないんですよ。

しかも、それを何年も繰り返すわけですよ。

 

学校は、軍隊式のシステムはもう無理だと思いますよ。

むしろ、幼稚園のシステムを導入した方がいいと思います。

今の学生が幼稚だと言っているんじゃないんですよ。

教育機会の平等が、人間関係の不平等につながっているのなら、ゆるい場を作ったらどうですか、と言うことなんです。

知識を効率的に詰め込むのなら、一人の教師が教壇に立って、大勢の学生や生徒を前に授業を行う形式がすぐれているとは思いますが、今のweb時代は、自分で、アプリでもインターネットを使って、覚えた方がはかどるでしょう。

ちなみに、私の英語の能力は今が一番です。自分で参考書やWEBで勉強しただけですが、中学高校大学で勉強した時よりもずっと英語が読めます。

そんなものなんですよ。学校で勉強するなんて、建前なんですよ。あそこは、文部省認可の人間を「生産する」ための場なんですよ。

みんな、インタラクティブなデバイスや、エンターテイメントを重視したコンテンツに慣れていますからね。一時間半も講義に付き合っていられないんですよ。

大学も、放送大学みたく、45分授業にしたらどうですか。あとは自習で。もしくは質問タイム。とか。一部の教員、答えられないでしょうけど。

教員の思い違いがあるんですよ。情熱うんぬんの以前に。

学校制度だって、作った当初は、皆、平等に国家のために働く人ができると思っていたんですよ。

ところが、教員は真面目ですからね。消毒された世界で育って、「先生」に感謝するような学校生活を送れるという、幸せな結果を最終的には得た。

実は運がよかったということなんですが、それを知らずに、知らないことを知らないんですが、教師にありがちなパターンですね。知らないことを知らずに、自分が良い学校生活を送れたのは、自分の力と先生や同級生のおかげと考える。そこにたぐいまれな運の要素が入り込んでいるとは知らずに。

前に、サイコロの出目の話をしました。4回振って6が二回出た。次に6が出る確率はどのくらいか。やっぱり6分の1です、と。

でもね、現実は6がそれだけ出たら、6の出る確率はやっぱり他の出目と比べて高くなるんですよ。

そもそも、現実の世界で、狂っていないサイコロなんてないんですよ。

あ、サイコロの話は比喩ですよ。サイコロの事を言っているんじゃなくで、現実の現象の事です。

想定したもの通りに存在しているものなんてありません。

一部の方は、特に安定した職業や、敬意を伴った権力をお持ちの方は、サイコロの出目はそれぞれ6分の1として行動しているんですよ。

比喩じゃなくて、話にならないのは、そこなんですよ。

会社の形式

会社も同じですよ。

学校で学んだことをそのまま持ち込んだ方が楽ですからね。

組織形体が軍隊と同じです。

CEOという役職があります。

Chief Executive Officerの略で、「最高経営責任者」とか訳されています。

とても大ざっぱに「社長」と同じ使い方をされていますが、このCEOは、もともと「将軍」の事を指しました。

総指揮官ということです。CEOは。

軍隊の上の方は常に戦略を考えている。その戦略を実際に意思決定を命令を下す。それがCEOの役割です。

構造に人間は支配されますからね。

会社が用いている構造の中で日々動いていれば、それに従いますよね。

従った方が、楽、それが「慣れる」ということなんです。

会社というものは、構造が軍隊の組織が商業をしているわけですよ。

19世紀の資本家に比べて、無茶ができなくなっただけ。比較の問題に過ぎません。

そのような形態を持った組織が人を募集し、人を使っている。

そもそも「リクルート」の第一の意味は、「新兵募集」という意味ですからね。

会社ができた時に、すでに長年存在していた軍隊の組織の構造や運用の仕方、ヒエラルキーを参考にしたわけです。

めんどくさいですからね。新たなものを作り出すのは。

荒れ地

最近、「荒れた老人」とか言われていますが、ああいう方々は、最初から荒れているんですよ。学校でも、会社でも、不平等的人間関係を押し通し、その場を「荒野」と化し、自分の家庭を「天国」と見なそうとしてきたから、今さら変えられないだけです。

世代によらず、学校で人を押しのけたり苦しめたりする方法を学んでしまったんですね。それを暗に認めてしまったというわけです。自分も周りも。

変えられないでしょうね。

世界の平和を望んている人には、たまりませんね。

 

教師の大半は、自分が学んだ方法を伝えることしかできないんですよ。学者になるための知識を、しかも自分のやり方でしか教えられない。

優秀なコーチは、選手に見合ったアドバイスができるんですが、まあ、教師は、自分は教師や教員で、コーチではない。と言うかもしれませんね。

教師にしてみたら、「おれの知っている学校と違う」と言うことになりますか。

「おれの知っている中学生、高校生はこんなんじゃなかった」と。

知らないことを知らなかったわけですね。

昔のように、権力かざして、人の人格歪めるようなやり方が、今は通用しませんので、教師も戸惑ってしまうでしょうね。

まあ、大学に関しては、「のんびりやりたい」方は、時代に合っていません。学生がかわいそうですので、研究だけしていたらいいでしょう。研究もしていない方は何をするんですかね。企業へのアテンドでもするくらいでしょうか。

今時、教師と学生の区別を権威としてしている時点で、つらいですよね。とくに大学は。

今回は、少し感情的になってしまいました。もっと漫然と談じないといけませんね。