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文学は物語ではなく、言葉

私は小説を書いたりしているが、本当に、小説を書きたいのだろうか。私の小説は、「エピソードをつらねているだけ」じゃないのか。

私が得意なのは何だろうと、考えた。自分のなかでの比較の問題でしかないかもしれないが、編集が得意だと思う。

文学に私が求めているのは、感覚であって、物語ではない。

しかも、知らなかった感覚なのである。「物語」という形式のテクノロジーや、刺激的な言葉を用いた詩や小説というテクノロジーで満足することはあまりない。

個人的には、文学に脈絡など求めていない。感覚を求めているのである。

文学ではないが、「ふなつしー」が流行った。あれが今までにない感覚を示したからだろう。あれはなんなんだ。何も説明ができない。無理に後知恵で言えば、整然としたものに疲れた人々が、でたらめなものに癒しを求めて群がった。などと解釈もできるが。単に、ある種の感覚を与えて、それが人々の求める物だったから受け入れられたのだと思う。

私がたまにやっている、limixやサンプリングの手法は、あまり意図せずに言葉を繋げていない。ただ、思いついたまま、言葉を並べている。と言っても、自然に編集はしているけど。

小説について言えば、私が意図的に百回校閲を賭けたものと、一度も校閲をかけていないものとでは、効果は同じだった気がする。受け取り手は、小説の流れに乗っていきたいのであって、ことばの感覚に浸りたいのではなかったんだと思う。本人としては全然出来が違うように見えるのだが、それは私のバイアスがかかったものの見方からきているもので、人は、そんなものは考慮しない。そもそも、校閲というのが、文学というテクノロジーに相反する。

サイコロをふる。6が出た。正常なサイコロならば、6が出るのは6分の一の確率で出る。しかし、この時点で、6の出る確率は100パーセントである。再び、振る。5が出る。三回目、3が出て、四回目は、また6。この時点で二分の一の確率で6が出る。50パーセントである。どうも6が多く出ているようだが、これはまだサンプル数が少ないから偏るのである。これを百回、千回とこなしていけば、限りなく6分の一に近付く。近づかなければ、サイコロが狂っているのである。

これを平凡への回帰という。

もともと「平凡への回帰」もしくは「普通への回帰」と呼ばれる現象は、背の低い人同士で子供を作ると、その二人よりも背の高い人になり、逆に背の高い者同士で子供を作ると、その二人よりも背の低い人になる。という現象を名づけたものであるが、この場合も当てはまると思う。この場合とは、書く場合の事。

書いた言葉も、直せば直すほど、「個性」が薄れて、平凡なものへ回帰していく。

校閲とは、一面、書いたものを普通のものにしていくためのテクノロジーであり、それは事務処理であり、学校という平凡な空間で賞賛されるテクノロジーである。私も、この間までそれをやっていた。受けなかった。受けると思って、学校や、小説の書き方で習ったテクノロジーを導入していたのである。

そりゃ、人が読んで、すごい、とは思わないだろう。「平凡への回帰」を引き起こすテクノロジーを用いているんだから。

しかも、小説という古い形式で新しくもない事を書いているのだから。

現代文学のほとんども、マイナーチェンジじゃないか。と、20年くらい前に現代の小説を読み始めて思った。PCで言えば、メモリ2ギガバイトが2.01バイトになって、新しい。と言っているものがほとんど。「文学マニア」や、その作家のファンでなければ、何も変わらない。

時たま、革新的なテクノロジーを生み出す人が、素晴らしい作品を世に出して、人々の感覚を揺さぶる。私もそれをやってみたかったけど、心を頑なにしてしまっただけの気がする。

今やっているのは、文字を用いて、連句という形式を作るのに、サンプリングとかリミックスという、美術で用いられてきたテクノロジーを使って、認知科学で言うところの平凡への回帰を防ぐために、意図せずに言葉を連ねていくということをしている。大まかには。

連歌は、江戸時代に開発されたテクノロジー。

「いわゆる付き過ぎた連句は、結局一句を二つに分けただけで「歩み」はない。」寺田寅彦

すんなりつながるのは論理であり、つまりは物語形式であるが、それは私から見て、あまり面白みを感じない。感動はする。私は人一倍ストーリーに感動しやすい。登場人物にはあまり感情移入しないけれど、ストーリーには、5分物でも感動する。そういう性質ではあるけれど、感動した後に、自分がよくなっているわけではなく、むしろ、よりだらけていることに気がついた。

文字を用いた物語で人々を感動させるのなら、需要は映像や、写真にに移行している。

連句は、物語のように、「ので」とか「つまり」とか、読み手を納得させるフィクションとして成立させるための装置を用いない。

「つまり」で、つながらないもの。出てきたそのままにしておいたもの。これは連句のテクノロジーである。しかし、俳句や歌のテクノロジーそのまま、文語体だけで書いたら、それは現代に蒸気機関を復活させるようなもので、博物館か、マニアしか受けない。

私が、文学もテクノロジーである。と言っているのは、それが文学に慣れ親しんだ人以外に使ってもらうため、触れてもらうためを考えてのことである。

たった15年前にはWWWもひろまってはいなかったし、スマートフォンgoogleもなかった。当時は当時のテクノロジーで十分だったのである。文学も同じ。現代文学はネットもスマートデバイスもない時代に通用したもので、口語そのままに近い、短いセンテンス。つながりがあるようでよく読めばつながっていない物語。自我100パーセントの主人公。これらの内容は、現在、普通のものになっている。たぶん、「キッチン」から。

今や、欲求を満たすのは、SNSの短い文章であり、「コメント」であり、何より、写真や映像である。

人々は情報か、気分の転換を求めている。違う感覚を求めている。それならば、圧倒的に映像表現が有利になる。言葉を用いて考えるもというのとは別の話で、それを文学の中で古いテクノロジーしか用いていない人々は勘違いをしている気がする。

小説でも俳句でも、あれは紙媒体向けのフォーマットなのである。小説というテクノロジーは、視覚表現という形式、情報機器というテクノロジーにふさわしいのだろうか。たいていの人びとは、スポーツ新聞を読むのと同じ感覚で現代の小説を読んでいるのでは階のか。小説は本というメディア上で効果があるものだと思う。

文字というテクノロジーを今の時代に効果的に用いるには、文字を視覚表現として示した方が、自分の能力としてはふさわしいようだ。Graphicを考えたことばの連なり。さらに、何より重要なのが、不思議な感覚をuser experienceとして体験してもらうために、感覚を感覚のまま示すこと。

大方の人は論理だとか、つまりだとか、効率だとか、立派だとかなど、仕事だけで十分なのである。

刺激的な言葉やエピソードで受けを狙うのは、もはや文学という古いテクノロジーの中であがいている末期症状の現れなのだろう。

人は物語を求める。それは原始人が狩猟から帰ってきて、他の人びとに聞かせたところから始まったんだろう。根源的なものなのだろうが、それがある限り、旧い自分に支配されるだろう。

接続詞をつけようとおもえば、つけられるでしょ、接続詞をつけるとなんだか、「接続」したような気になってしまうんだね。