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CheatCut.hatena

noise&randomness

小説作法ではなく、書くことの行儀

詩。文学の一部門。風景・人事など一切の事物について起こった感興や想像などを一種のリズムをもつ形式によって叙述したもの。

広辞苑第六版より引用

私のは、詩ではない。

文学。(literature)言語によって人間の外界および内界を表現する芸術作品。詩歌・小説・物語・戯曲・評論・随筆などから成る。文芸。

広辞苑第六版より引用

文学でもない。言葉そのものを味わうための、また別の技法なのである。

共感を求めて物語をつくっているのではないし、俳句や歌を含めた詩によって、自分の感興を示しているのでもない。外界の面白いものを自分の感覚で示した子規の写生文とも違う。それはすでに小説でやってみた。

言葉そのものの力。それを示して、新しい感覚を得るというために、user experienceを考えている。「ずれ」を生じさせている。それでCheatCutなのである。何ら刺激的な言葉を用いずに、普通の言葉で、しかし、普通とは番う感覚を示している。

そのために、浮かんだ言葉をそのまま示しているが、そのinspiratinは、外界から得る。本であったり、空であったり、日常であったり。それは写真のスナップに近いが、写生文ではない。そのままを言葉にしているわけではないから。私のバイアスで表現していると言った方が近い。それは私の編集能力、言葉に対する私なりの感覚ということにもなる。それが私が使っている技法と言える。

演劇で言えば、脚本も演技も排して、人そのものを見せる。という感じ。ただ、私には人より、言葉の方が強く、かっこよく、それでいてacrobatなのである。万葉仮名を除くと、過去のテクノロジーで最もacrobatなのは連句だと思う。ぎりぎりイメージを連ねていくという点で。

連句のテクノロジーで、切なさや無意味さや遥かなものを示してみたい。

私は、物語を好まない。あれが人を偉そうにさせる要因だ。

表現というのは、自分の感覚を示すものだ。物語を好まない私を示すためには、「物語」というテクノロジーを用いるのではなく、だからと言って、歌や俳句ではなく、現在の文学を好まない人々に通じるテクノロジーを見出さねばならない。

文学はそれに群がっている人々を「特権階級」というか、「自分は平凡ではない」という思い違いをさせている。古い枠内であがいているのなら、instagramを自由に使いこなし、GUあたりの服を好きにコーディネートしている人の方が、はるかに「生きている」。大方の人びとは、今時、文字の連なりを何十ページ、何百ページも追いたくはないのだ。さっさと、視覚表現に向かってしまう。SNSの短い文章が受けるのは、それが、一目で、ぱっと眼に入って全体像が分かるからである。(だから、書体やLayoutが重要になってくる)

ひとびとは、ある種の感覚を求めている。本当に「世界を変えたい」のなら、今の人びとが何をもとめているのか、何をしているのか、それを見なくてはならない。自分の得意なものを既にあるテクノロジーを用いて示すだけでは、自分の得意なものが好きな人びととしか共感できないだろう。「文学好き」でないひとびとは、既に「文学の扱い方」が分からないのである。どれほどわかりやすいものでも。通じているようで通じていない。それは、computerに詳しい者が分かることを、一般の人々が放棄したくなるような操作を求めているのと変わらない。

文学も、いや文学に限ったことではないが、これと似たような事をしているのだろう。私が前に発表した小説もこれと同じ。近代文学の文体をもちいて、普通の人は読めない漢字を使い、果ては物語の起伏を少なくし。と言う具合に、それがいかに自分にとって「リアル」ですばらしいものと思って、百回も校閲をかけたとしても、読む側の事を実際に観察して考えて物でなければ通ずるはずがない。

しかし、私が物語が苦手なのは、たいていのものが陰惨なものを入れ込まずには、物語を紡げないというところにある。いくら、物語が完結したところで、その陰惨なものを入れ込まずには成り立たせられないのか。と思う。批評にもなっていない。私が書いた小説は、それに対して反発したのだが、通じはしなかった。書き手も、思いつくから書くのだろう。読み手も「面白い」から読むのだろう。しかし、それでは、より精神が腐っていく気がする。それをやるのが表現なのだろうか。

感動を与えるために、または、感動するために、と言うより、カタルシスを得るために、苦しみや陰鬱なものを置かずにはすまないという技法を用いて、現代の物語性のあるメディア表現が成り立っているとしたら、それは、穴を掘って、また埋めているだけに過ぎない。「埋めた」という達成感は、歓びにつながるのだろうか。しかも、フィクションの中で。それを受け取った現実の自分はどうなっているの?

ダンテの書いたものを見れば、陰惨なものを書く方が簡単だし、読み手の心象にも残る。今に始まったことではない。

小説を読んでいると、どうも、作者の心の闇みたいなものが見えてきて。これって、作者が抱えきれなくなったものを出しているだけじゃないのか。

感情移入しすぎなのかもしれないけれど、その気味の悪いものを材料にして、飲み屋でくだをまいていればいいものを文学のテクノロジーを使って整えるから、余計に「違う」という気がする。なんで、他人がが吐き出したものを読まなければならないんだろう。みな、自分で言っているが、「傷ついた心」の人間が書いているものは、どうにも読んでいられない。俳句でもやって、治療したほうがいいんじゃないかと思う。小説を書いたところで、傷はいえない。深まるばかり。だからあんなに書くんだろう。「こういうトラウマがあるのか」「これが許せないのか」というのがわかる書き方になっているし、自分の鬱憤をぶちまけて、飾り付けが上手なだけ。人の負い目は見たくない。人の情念の表れなど見たくない。

人間の情だとか、「仕方なさ」など読みたくもないし、書きたくもない。人に見せるべきものなのか。それがしんじつだろうが、その悲しみを書くことでしか救えないとしても。

それでも、なぜ、わざわざ「人間自身の不吉な傾向」を増長し、人々の性質を暗い方向にむかわせるような表現をするのか、私は、好きじゃないね。