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CheatCut.hatena

noise&randomness

文学はすでになくなっているということを隠すために文学があるとしたら

たいていの人は、ことばとことばを繋げることに頭がある。

しかし、ことばとことばは、本来ぶつかるものである。

私が、映像でディゾルブやwipeを好まず、カットでつないでいくのは、映像と映像をぶつけているのである。本来、別のファイルになった時点でつながり何でないはずなのである。

それをつながりがあるように偽っているのが、ディゾルブ編集である。

ただ、人には、「私の感覚で言葉を編集している」と言っている。

まあ、連句や言葉そのものもあるけれど、少しは、グラビア雑誌にある詩というか、コピーというか、あのテクノロジーも混ざっているはず。

 

cheatcut.tumblr.com

苦手なことはやらないということで。得意な事、好きなこと以外は人々に通じないだろうし。

何かを変えようとしているわけではない。自分の事をわかってもらいたいというのではない。ただ、今までにないuser experienceを体験してもらいたいのである。それは、映像でも、テーマパークでも経験できない物だし、何より、なんながもっているスマートフォンでいつでも、気楽にみられる物だ。今の人たちは、負担になるようなものは求めていない。求めているのは視覚表現。わかりやすいから。大方は、長い文字の連なりを見ただけで拒否反応を示すだろう。論理ではなく、感覚を欲しがっている。

ただ、それはまともな感覚だろうと思う。現代の物語はあまりに陰惨なものをまず示し、それを解決するということで成り立たせるという安易な技法に頼り切っている。

私は、ことばで何かを追っている。

全体としてあるイメージを喚起させるがそれは個人差が出てくる。受け手にまったく厳密さを求めていないから。ことば自体はしっかりしているつもりだけど。何かを意図したものではないため。受け手の個性により、再編集されたイメージが沸き起こって来るだろう。

人は或ることばを見ただけで脳のニューロンが反応し、生理に影響を及ぼす。それが何でもない言葉であっても。

物語を書かずとも、人はかってに物語を作り出す。

パイチャートは、全体を一目で知り得る。求められているのは、パイチャート的なものだろう。

今は、感情の時代だと思うが、世の中の事はよくわからない。私はかけ離れている気がする。実は、余計、クレイジーになっている気もするし。しかし、好きなこと以外したくない。

自分には、自分の感覚しかない。やっぱり今たいてい利用されている物語の形式は好きになれないし、お話だろうが、映像だろうが、感動させる目的で作られたものでも感動するなんてしたくない。だって、感動して、涙流しちゃったら、コミュニケーションが成立しないじゃん。感覚の共有? 違うと思うよ。解結したらすっきりするし、くすぐったら、笑うでしょ。誰でも。お酒を飲めば酔う。でも、酔った状態が好きじゃないから飲まない。

でも、ニコニコとか見ていると、今や、一つの物語りが示されて、受け手が自分の感覚で編集し直しているよね。それがまた、別の人に受け入れられて。そう言うのは好き。「好きでやっている」と言う感じがして楽しい。それに対して、商業でやっている人々は、好きでやっているのかね。完成度は高いけど、愛が感じられない物が少なくない。

人に悪影響を与えるものは作りたくない。たいていの文学はそれ。

ちょっとだけ性能を向上させたものを新製品として売り出し、前のもので「十分」であったものを「よりよく」にシフトさせる。文学もテレビもこれと似ている。

香辛料を徐々に増やしていって味覚が狂っているのも気づかずに。カエルをゆでる実験。

江戸時代に独自の文化になったように。文学も実はライトノベルが日本の文学なんだろう。アニメやマンガが評価されているように。絵画も浮世絵が評価されたように。

現代の文学は、面白いし、感動もする。
でも、二度読む気がしないものが多い。
繰り返し読んだのは、川上未映子さんの短編くらい。
現代の小説は、物語を読んでいるだけだから、一度読めばクリアする。

同じ日常を繰り返せないでしょ。
草枕や東京日記を繰り返し読めるのは、ストーリーではなく、文章を味わっているから。
文学は消費物になっている。
消費物でしかない文学は、文学なのだろうか。

草双紙は消費物だったと思う。

それまでの仮名草子という大衆向けの読み物から井原西鶴浮世草子と呼ばれる物語が生まれたが、ほとんど西鶴だけで、後に続いていない。

大衆向けのものは、消費されるべきもので、「プロ」なら、売れるものをつくるのは当たり前と言う。

短編の方が、小説の面白さは出ると思う。