読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

CheatCut.hatena

noise&randomness

広告について

今はともかく、昔は、コマーシャルばかり見ていた。

15秒でメッセージを伝えるというものが好きだった。

番組も5分番組が好きだったし。

今は、テレビを持っていないので、あまり見ないんですが、この間、広告年鑑を30年分見る機会がありました。

ナイキのCMで桃太郎を実写でかっこよくしたものがあったんですが、どうも幼稚化している気がしました。昔話を単純な勧善懲悪の物語に仕立て直し、鬼は悪で敵という設定で、猿雉犬は人間が演じているのに、鬼はナウシカの巨人兵のようで個性が消されている。auのcmでも、元の物語より下がった解釈しかできていない。また、「動物三匹連れて鬼の集団に立ち向かう」というコピーもつけていたが、あれはお話でしょう。史実をもとにして伝承化されたものだとしても、実際は征服の話ですよ。人数がはるかに多かったか、奇襲を仕掛けたか。物語を一から紡ぐのは難しいだろうけど。あれがゲームのCMならいいけどね。

人間の脳は、物語形式に反応しやすいんですよ。物語にしてしまえば分かったように感じてしまう。偶然もあり得ない確率とは言い切れない。

CMも評価の高いものは、私でも素晴らしいと思える物がありましたが、それ以外は、ギャグだったり、共感できるものだったりするのが多い。

糸井重里さんがコピーというものを作ったと言われていますが、なぜあれがコピーなのかと言えば、別の次元から商品を示しているからでしょう。外部性がある。「あるある」ではなくて、「そういう事もあるのか」と示しているわけです。しかも押し付けがましさがなく。アウトサイダーとインサイダーの違いがあります。

広告は、最後に編集が行われることにより、内容と形式が一致し、プロセスが生まれる。プロセスというのは、発せられたメッセージが、受け手に届き、受け手が何かしらのポジティブな一歩を踏み出すということです。

動画やポスターは、作った人の技術力やアイデアを示してきて、今の私には、重いですね。日常的に使うものにしても、「これはこのような技術、職人技を使っているんですよ、難しい技術なんですよ」と言われると重い。理由ばかり。こういう宣伝の手法、商業政策とウィキペディア的知識との結びつきによるものは、人がみずから考えて、さらに、自分の行動をみずから決定する意志を減退させる効果があるでしょう。頭を使わせないようにしているのであって、これは、人を人としてではなく、消費者としてしか扱っていない行動でしょう

こちらから入ってゆけるデザインと、ほとんどのもののように、向かってくるデザインがある。

 

人を感動させる小説。ことばをこう並べれば人びとがこう反応すると知ったうえでやっているのが大衆小説と言われています。生理現象のようなもので、受けるのは当たり前。ことばはそのように扱うものではない。純文学に対する大衆文学は、絵画に対する広告宣伝に近い。効果を第一に考えている点で。と言われていますね。

 

絵画の場合、私は琳派が好きなんですが、琳派は、大衆の精神を衰える方向に向かうのではなく、それ以前の安土桃山時代の成金趣味を見て、構成し直した感がありますね。

またそれに対して、現代のフラットデザイン化は、整ってはいますが、遊びに欠ける。まじめすぎる。琳派は、日本の情緒を幾何学で構成し直したらしいんですが、現代は、幾何学しかない。欲しがるのは、男の子供だけ。琳派には、説明し得ぬ部分が多い。

遊びがなくなると、全体主義に向かう。意味のないものを排除したがる傾向を強める。

人と足並みをそろえて行進することはままならぬ。

広告宣伝は、相手を人としてではなく、消費者として見ている。そんなことばかりしていたら、その癖が身についてしまうでしょう。

designにおいて問題となるのは、効果だけ。意味とか解釈は初めから問題にならないそうで、建築は、機能だけがあればいい。問題は、建築家が、機能を把握しきれないところにあるとも言われています。

designでも動画でも技術を知っていながら、技術に頼らないのがいいのかもしれません。

宗達が動画を作ったらどのようなものを作るのか。名刺を作ったらどのようなものを作るのか。

そういうことを考えてもいいかもしれません。

広告をいくつか見てみましたが、一昔前の、「凝った」コピーを写真にのせると、古臭く見えてしまいますね。コピーが前面に出ているものも、その主張をしている姿自体が古臭い。もとめられているのは、captionと説明文。もともと、キャッチコピーは、captionから派生したものです。情報を求め、検索することに慣れ切ってしまっている今の人たちは、キャッチコピーをノイズとして捉えているのかもしれない。十年もインターネットを使っていれば、キャッチコピーは、欄外の広告、ノイズにしか見えなくなるでしょう。

芸術の写真は、キャッチコピーをつけられないでしょうけど。

 

シンプルなもの、さりげない物、さらっとしたものの方が生き残る。

人と人とのつながりに新しい方法ができつつある。

食べ物、飲み物、其れのとり方の変化によって、人とのかかわり方も変化してくる。

今の新しいコミュニケーションツールは何か。スマートフォン以外の何か。食べ物、音楽。

今の人たちは、共感できるものを探す癖がついている。

ドーパミンが出てくるもの。つまり、期待させるものがはやる。

 

音楽は、既にBGMとしか思われていない。

音楽は、言葉で表せぬもの。インスピレーションをそのまま表現できるもの。であったはずが、今の人びとには、そのことばで表しきれぬものが分からなくなっているから、音楽そのものがとくに、クラシックのような言葉を伴わない音楽の必要性が薄らいでいる。であれば、言葉とのコラボレーション、たとえば、説明の言葉、たとえば、朗読、ということになる。

しかし、特にクラッシック会場のような、その他多勢の一人の観客とされるのはもうはやらないかもしれません。それは、講義形式の授業の形態も同じでしょう。

人びとが望んでいるのは、自分のための物。自分のためのプレゼントであり、自分のための場所であり、自分のための時間。そして、なにより自分のための言葉。

ないものを或るものと思い込ませる最たるものが個人向けのエンターテイメント。

いそうでいない人物、思いつきそうで思いつかない、デザイン、コンテンツ。小説でも、広告でも、こういうものが受ける。最初から、思いつきそうにないものは、かえって受けない気がする。

看板を出すという行為がすでにダサい気がする。

連張り。少し食傷気味。コピーのバリエーションでPRするものだが、逆に、コピーは同じで、映像、もしくは写真を変える。コピーは同じで、映像を変えていく。

 

結末におけるずらしの手法を広告ビデオに。スラップスティックのあと、最後に「おっと、子供がとび出してきた。」商品名。