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勝手に広報―大学編―

受験生を増やしたい

今時、大学は都心に近い校舎をビルにすれば受験生は増える。しかし翌年下がるところもある。効果はその程度。

今は、職員を新卒で採用していない所も少なくない。将来、学生数の低下を見据えている。その分、いまは職員が足らないから派遣でまかなっている。経営とはそういうもの。

偏差値の低い大学が就活でうまくやるには、英語しかない。しかしそれでは、偏差値の高い大学の方がいいじゃないかということになる。

どのみち建てるなら、徹底して「エコシステム」を導入して、PRしなければならないだろう。「エコキャンパス」と銘打って。そうすれば、補助金も増えるだろうし。しぜんと、注目されるから広報の費用も浮くだろう。何のために理系の学部があるのかわからない大学もある。全体が難しければ一つの建物でもPRにはなる。

「校舎を都心にしてビルを建てれば受験生が集まる」というのは20世紀的な考え。18歳人口が三分の一減ったら、学生数も三分の一減るとみるのが自然だろう。偏差値が高い大学の人気は衰えまい。その方が行為の自由がひろがる確立が高いから。

中堅以下で減らないとみるのは、過大評価でしょう。「どのような校舎を立てたら何人くらい増えるのか」これをデータで示せるのならいいが。たぶん、一般の家庭が家を新しく買う。もしくは建てる前と同じ感覚でいると思う。新しい家に住んだら世界が変わると思っている感覚。ところが、新しい家に住んで「しあわせ」と思うのは、1,2年ほどなのである。

新校舎を建てて、都心に集約すれば受験生が増えるという論理は、大学が郊外にあるから受験生が集まらないのであって、大学自体に魅力がないわけではない、という仮説に立っている。その仮説は正しいのか。ならばICUや津田塾はどうなる。

都心に上級生が通い、郊外に下級生が通っているというシステムも悪くはないが、環境によると思う。

周りが田園都市、学園都市的な環境ならいいが、単なる日本特有のでたらめな開発の離れの果て的な郊外では、インスピレーションも批判的なものしか生まれまい。

郊外から移転するのでも、1,2年次だけ都心で、3年から近くの有名な規模の大きい大学に通うという手もある。そういう提携も出て来るんじゃないのか。

状況を見た広報

別に、文字や歯車を開発しろと言っているんじゃないわけで、もう少し、自分たちの状況にふさわしい、受験生の増やし方があると思う。

中堅以下の大学で昔はバンカラで鳴らした大学が、今は女子が増えている。と言っても四分の一程度。先生曰く、「バンカラならバンカラでいいんじゃないの」

単に女子校の人気が下がって、女子が増えただけというのもある。バンカラを売りにして、度胸と体力と礼儀正しさを前面に出すのも手だろう。ヨーロッパに行くときは、必ずシベリア鉄道で行かなくてはならない。とか。

大学は、儲かり過ぎてもよくないらしい。文部省的に。それならそれで、大学の方が会社よりも、無茶ができるということに近大は気がついたのだろう。これぐらい無茶をしてもいいのだ、ということを学生に示すのにも都合がよい。しかし、まねしても仕方がない。

大学案内というメディアの活かし方

大学を紹介する物に、大学案内がある。

どこもA4判の似たようなサイズ、似たような内容。

それは、学校案内をつくる専門業者に任せて作っているから。取材させて、作らせて、内容をチェックする段階で、教職員が見たって、個性が示せるわけがない。知らない人に打ち合わせだけで作らせているんだから。愛もないし。

大学案内なんて、遊べるものの一つだと思う。年に一度しかないのに。テンプレート的なものを作ってどうするんだろう。

制作物として当たり前の考えで作ればいい。

まず、大学案内は、それが、「アナログ媒体」であることを意識しないと。PDFデータは、デジタル用、それをもとにして、紙媒体をつくるのが大学案内。

今の大学案内は、PDFデータを紙に印刷して、製本しているだけ。

前にデザインの展覧会で見たドイツのカロリー本は、インデックスによって、開くと自然にどこかの項目のトップページが開くようになっていた。これを応用して、学部ごとに色付けをしてみるとか。そもそもA4である必要がないし。本屋に並べるんじゃないんだから、判型は自由に考えたらいい。地球の歩き方くらいの体裁がいと思う。なんなら、「何々大学の歩き方」とか。しかも女子用と、男子用に分けて作るとか。「for girls」とか、異性の物も欲しがるんじゃないの。

ふつう、大学案内って、そんなに読まないでしょう。

それが、異性用の物が存在していたら、逆に、そっちを熟読するんじゃないの。

18歳の少年少女の心理を利用しないと。理論は半分でしょ。

表紙はきれいに金の箔押しや、コットンペーパーを用いる。そこで費用をかけたら、中の紙は、少し安いものを使用する。印刷所に聞いて、キャンペーンをしている紙はないか、そこはね予算との闘いですよ。それをしていないから、他と区別のない物が出来上がってしまう。

たとえば、手作りのの案内、手作りの教育。というテーマでその年の大学案内を作れるでしょう。「使う写真は、すべて教職員と学生が撮影しました。手作りの大学案内です」とかね。

楽しそうなことは、自分たちでやって、面倒なことを業者にやらせたらいいのに。

テキストも、考える。「先生ありがとうございました」なんて、大学案内の私物化で、そんなことは、謝恩会でやればいい。もう少し、やり取りについて、具体的に書けばいいけど。カッコいい人を出して、「私は、自分でこうやってこうやって、やりました、その際、どうしても進めないときにこういう具体的なサポートを受けて夢をかなえました」というようなことを示さないと。

写真にしても、学生を正面や斜めからポーズをつけてとるのではなく、何かをしている写真のみ使う。大学は、行為の場だから。黒板に書いている写真でもいいし、荷物を運んでいる写真でもいいし。授業を「受けている」写真はほとんど載せなくていい。スペースの無駄。

女子大の場合は、受験生が共学の半分しか取れないのは不利ではあるが、「女子大ならでは」というのなら、「キャンパスは女子だけ。関係者しかいない」、その安心感をPRしたらどうであろう。その辺は共学はまねできない。「学校に来ると、ほっとする。第二のアットホーム的な」という話を広報媒体で学生の人にコメントさせる。

デザインとは、内容の見せ方、伝え方であって、飾り付けではない。見せ方を考えているのだから、広報というより、広告だろう。

職員はアーキテクト

こどもの時から、個が主張し、個が自分の好き嫌いで情報をあつめる。一つの組織を「作り上げる」という考えが薄くなってきていることに気がついていない。例えば大学にしろ、企業にしろ、今まで何十年も存続してきた組織を新たに「作り上げる」という考えがあって初めて、広報の戦略が成り立つのであって、その「作り上げる」という考えがないまま、広報を「見直し」て言ったところで、どこの共同体にも、個人にも、響いてはいかないだろう。サービスでやってくれるのなら、かかわる人も喜んでくれる人も少なくなかろうが、その「サービス」が自分の組織が行っている戦略の一環として存在しているものでないのなら、それは、赤字事業であり、道楽であり、とどのつまりは、やる気のある人々を浪費しているだけである。

教員は、コンテンツを作り、提供するという意味でクリエイターと呼ぶ。学生は、それをもとにして、自ら実践するplayerとなる。そこには、遊びの意味も含まれる。そうした関係を踏まえて職員こそが、アーキテクトとなりプラットフォーム、場を作り、教員にインスピレーションを与えなければならない。問題は、今の大学の職員が、事務員と相談員と点検員しかいないところにある。

上級職員を作るべき。上面の平等が世界を狂わせていく。

講義の形態を見直す

時間通りに来て、講義を聞いて、帰るという形式は、大量生産時代に工場で働くためのやり方。そこに、賃金を受け取って、働くという産業革命以後のやり方が残っていると、トフラーが「富の未来」で書いていたが、定時に来て、作業をして、定時に帰るという今もってスタンダードな働きっぷりに即したものだ。

それで、どういう人間ができあがるのだろうか。人間は環境が重要であって、努力でさえ、環境がいる。よく、家で勉強できる環境がないから、図書館や電車で勉強をしていた、という人の話を聞くが、それでも、人間関係や明日の暮らしで、ベッドに入ってまで悩まなくてもいい環境にいたわけである。

学習経験をして、それを使うためには、日々何をしているか。人間の個性は、内にあるものではなく、どういう行動をとるかで示されるものだ。

ならば、定時にきて、時間の間席に座って帰る、いっとき昼休みに「解放」されるだけ。その生活をつつけて、いよいよ65歳の定年という名の「解放」を目指す。それが「生活」と言えるものだろうか。

映画を作れないのに、映画に対する評論能力を学んだり、Illustratorを使えないのに、インフォグラフィックに詳しくなったとして、文学部がそれで何をするだろう。

私は、日本の大学の講義形式は、やがて、ではなく、既に学生をゆがめているし、成長させないだろう、と感じていた。レジュメを授業前に配るのではなく、あらかじめ渡したり、映像なども、授業中に見せるのではなく、あらかじめ見ておくことは、できないのか。なんなら、東進の「衛星予備校」のように講義など、映像にしてしまって、授業は討論やワークショップにあてられないものだろうかと考えている。

わたしは、授業だって、cotentsだと思っている。

大学に入って、大学に入ったメリットを学生が語れるようでなくてはならない。なぜか、人は、自分をつまり、自分の行動を認めて貰いたいから。

大学を製品として考える。一から考える。ユーザーに対してのPRポイント。価格帯や対象。それを手にしたときにユーザーがどうかわるか。

ユーザーのニーズが分かったら、簡単なマニュアルだけでプロトタイプを作る。それを学生にやらせる。使わせる。そこで学生が躓いたところを改良していく。それで自律できる人になるプロセスの出来上がり。

学生便覧ではなく、マニュアルを作る。美しく、アイコン入れて。

学生手帳、現状、量産型のおみくじとかわらない。→スマホと同型をいかす、

学生のユーザー経験を考えたことがあるか。

 

大学は、受験性を集めるために高校訪問ということを行っているが、すでに、いわゆる派遣にやらせているところもある。

営業やプレゼン経験のある者を募集したらしいが、そのうち、大学にも「営業部」を作りだすかもしれない。

 

私立は、何のために存在するのか。公立ではできないことをやるために他ならない。公立が偏差値重視であるならば、私立は、教育重視という事になる。

小規模な学校ならば、今迄のように中流層を顧客とするのではなく、エッジの効いた仕事をしている層に対応するのが戦略としてある。

ならば、そう言った層は、ユーモアやかっこよさなどのセンスを見せれば、魅力が伝わるだろう。

 

広報には、学校の良さを伝える広報と、学校の存在を知って貰う仕事を広報があり、前者が教員がやるべきで、後者が、広報の仕事であり、広告プランナーを兼ねる。

 

腹が一杯の時に、食べ物を出されても、心が動かぬのと同様、メッセージ性や指示にうんざりしている人々に、メッセージ性の強い広告してもしらけるだけだろう。

「メッセージを伝えん」という行為ではなく、自分が面白いと思うもの、よいと思うものを好きでやって、それを共感する人がいるかどうかだけではないのか。
メッセージを伝えやすくなっている状況だからこそ、メッセージが溢れ、メッセージ的なものは、一先ず顧みないようになっていると思う。

日常的に「しらけている」人々の心をどう動かすかを広告や教育はやっているんだろう。その点では共通点がある。

テキストを読まない人々に対して、文字を連ねた学校案内が効果があるのだろうか。スーツのネクタイと同じ物でしかないのではないか。

いっそ、写真とキャプション、それにインフォグラフィックをメインにした学校案内の方が効果があるのではないのか。

もう一つのやり方は、コンテンツを多くする、つまり、エピソードやネタで作るというやり方があると思う。

 動画が5分も同じシーンならば、見ないように、学校案内も、見開きで、テキスト情報は、1割程度にしないと見ないのではないか。

むしろ、オール断ち切りで、写真の真ん中に縦書きで入れるとか。

 

内部の進展の数や質に、広報のスピードが追いついていないという事もある。その場合は、自分を顧みる間がないのだから、効率や統一したプロモーションからは、遠くなる。

広報がすべてやろうとすると、「広報スピード」が遅くなる。そこで、コンテンツサイトが増えているのであるが、媒体の選定を取り違えていることもあるだろう。

名を知られるには、ただ、広告を沿線にうつようなやり方ではなく、まずは、地元で有名になっていくやり方の方が、効果的だろう。

たとえば、学生に地域を紹介する冊子を作らせる。学報などよりも、ずっと読まれるだろうし、駅の広告などより、ずっと効果的だろう。

 

広報と宣伝の違い。特に教育機関においては、区別がいる。プロモーションと、PR、イメージを広めることとの違い。

自分で、消費者やお客に何をしてほしいのかを伝えるのが、宣伝である。特定の商品を買ってほしい、入学してもらいたい、などである。

自分たちの活動を広めて、第三者にあの組織は素晴らしいと話してもらうように持って行くのが広報である。これは、組織の活動を示すことによって、自分たちの良い評判を伝播させることを目的とする。

伝播するのは、会社やお店であれば、お客さんであり、大学であれば、学生という事になる。

この違いを特に教育機関の広報が理解しているかどうか。

ポスターなどの広告や記事広告をかなりの額をかけてやるのであれば、学生にフリーペーパーや学校案内を作らせた方が、これからの広報としては、効果があると思われる。

教育機関であり、パブリッシャーでもあるという意識・ 読み手を作るという事

教育機関にしても、そことかかわりたいと思うから、受験するのだろう。かかわりたいと思わせるようなコンテンツをサイトで示さなくてはならない。教育機関であっても、パブリッシャーの意識がいると思う。つまり、自前メディアの役割を果たすという事になる。

そこで、広報担当は、エディターが向いている。

組織にある物と物をどうeditingしてゆくか。

コンテンツを直截の宣伝のために使わず、読み手の興味を惹くものとするのが、コンテンツ・マーケティング

特に「ブランド」を広めたいのなら、コンテンツを作るのも一つの手である。

サイトをコンテンツ化して、教員に学問的なエッセイを書いてもらう。それは、学生のみならず、保護者にとっても興味深い物とする。DHCが発行しているフリーペーパーもその類。

「学問が人を自由にする」との理念の下に教育機関を運営するのだから、コンテンツもその線に見合ったものとする。雑学的なもので構わない。

偏差値で決めるような顧客ではなく、良い顧客を作るための地道なマーケティングと言える。

学生が作ったものを投稿できる場を作る。保護者に伝わりやすくするため。

広報は、広報経験者のほか、編集経験者も必要となるだろう。既存メディア企業から、人が移りやすい状況にある。

編集者の存在

どこの教育機関も、アイディアも企画もストーリーも持っている。しかし、編集と校閲の重要性に気がついていないと思われる。写真選び一つ、言葉の置き方一つで、伝わり方が変わるものである。

クリエイターは、むしろ外部の仕事相手であって、広報は、エディターが必要となる。内部にクリエイターを置くと、進行管理の面で難しくなる場合もある。

コンテンツは、外部だけでなく、内部のコミュニケーションにも役に立つ。つまり、仕事に対して、熱心にさせる効果がある。

コンテンツは、興味のある人がやるのだから、内容も充実するし、費用もかからない。

人は、無償でやっているものに対して、信頼を置くものである。

顧客と、どのように関連付けるのか。

自前メディアがハブの役割を果たす。

コンテンツは存在証明

どのような考えで、何のためにその教育機関が存在しているのかを示すためには、お知らせではない、コンテンツを継続的に示さなくてはならない。これは、個人と同じ。

自分がどれほど素晴らしいかを語っても、権力に迎合したり、元から好意を抱いたりしている人しか聞いてくれないだろう。 

自らの事を自慢気に語るのではなく、相手が興味を持ちそうな話をする。

言動に一貫性を持たせるために、WEBサイト、SNS、紙媒体の目的や内容の統一をせねばなるまい。

個人的な話をすることと、一個人として発信することとは違う。自慢話をするのではなく、一人の人間が書いているのだという事を示す。

コンテンツには、資料請求や問い合わせボタンをつける。

「より良い物」を作っている間に、さっさと世界に示した方が効果的である。

WEBサイトであっても、「定期刊行物」の意識を持つ。日々更新という事。

自動車を購入した消費者が、同じ車の広告を見る心理を鑑みれば、顧客は、自分の選択が正しかった事を確かめたがっている事が分かる。

コンテンツの一環で、授業や、学生の制作物や活動を紹介することがそれに当たる。

コンテンツは、支出ではなく、資産

偏差値が高ければ、偏差値の高い大学に入る。保護者や本人の悩みは、偏差値が高くない場合、どのようにしたら、生き生きと仕事ができる進路に進めるか、であり、コンテンツでは、その悩みに答える必要がある。悩みが解決できてこと、授業料を支払う気になるというものだろう。

当然ながら、自分たちの得意な分野のお役立ち情報を作る。

タグは、その記事が何のための物なのかを知るため。

「メディア掲載」などと言うページを作るのではなく、そこかしこに置く。

学校案内をPR誌と位置付ける。

むしろ、自前メディアこそ、紙媒体を用いる。

ブログの写真に自分の大学サイトの当該記事へのリンクを張る。

 広報においては、効果が出ていないことは、すぐにやめ、その資金や労力を効果的なものに向ける。

コンテンツを作るために編集者を雇う。クリエイターは、外注で賄えるが、編集者は、内部に詳しく、ミッションステートメントを共有しなればならない。

 

参考

エピックコンテンツ・マーケティング ジョー・ピュリッジ 2014日本経済新聞社

 

 

保護者や受験生は、実際のところを知りたいのだから、「ガラス張り」ではないが、

広報というものは、受験生や保護者の疑問に応えるべく、実際のところを示す、いわゆる「見える化をして行くべきで、そのために、まずは、どのような先生が、どのような方針で、どのような教え方、可能ならば、どのような問題を出して、どのように考えさせて、解答まで導いていらっしゃるのかをあらわして行きたい。
 
人が反応するのは、食べ物と人の顔。
 

ネタ

自然界にテクノロジーを持ち込んで、未知の領域に入ります。

 

取材風景を写真にとって、ブログにあげる。

 

まず行動。何かをやっているうちに課題が出てくる。

 

プログは、公開ネタ帳ということで。

 

 

中学受験では、保護者が決める。その際、公立の教員より、塾の講師の情報を信用するらしい。

 

各学校がブログをやっているが、字数はtwitte程度か、400字程度でないと、読まないだろう。知り合いの物でさえ、800字にもなれば億劫になる人々が多いというのに。

ブログには、必ず写真をのせる。真正面から撮る。土門拳のように。

 

バナーは、wiredっぽく。captionも。

 

エンターテイメントを扱っている会社と、普通の会社や教育機関の広報の姿勢は違うと思う。

派手な宣伝は違う、という事ではなく、普通の会社は、現実に顧客が手にして、現実の社会を作るものを扱っているし、
教育機関は、現実の生を左右しかねないのだから、あまり理想的なことを語ると、今の消費者は、「何言ってやがんだ」と、簡単に見抜くだろう。
リアルがない物は、通じないと思う。

教育機関が、教育機関らしい広報をするのは、不思議。

学校案内のデータブックは、infographicを使う。