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CheatCut.hatena

noise&randomness

motion grafic

motion grafic

日本語に訳すと、遷し絵だろう。Motion graphicsは。移ろう絵。

Graphic designがlayoutなら、motion graficはcontrol

小説と、デザインと、映像の共通点。カメラの単一性。どこを見せたいのかを何を見せて、何を隠したいのかを作者が決める。

美術でも、映像でも、日常から切り離されているから、考えていない人々にショックを与えられるんじゃないの。内容が非日常ということではなく、形式や、存在の仕方のこと。

 

映画

おすすめ

「乙女の館」ラルフ・アビブ

「神の道化師」

「夏の遊び」

「イタリア旅行」

「黄金の馬車」

タブウ

「第七の封印」

「道化師の夜」

「夏の夜は三度微笑む」

「不良少女モニカ」

「渇望」

「夏の遊び」

「ニューヨークの印象」フランソワ・レッセンバック

「スチレンの歌」

「バリの恋人」

「休暇はバリで」

「機械仕掛けのピアノのための未完成の戯曲」

寺田寅彦は絵画に関する随筆を残している。

「やはり必ず何かしら独創的な内察があり暗示があり、新しい見地と把握のしかたがあり、要するになんらかの「生産能」を包有しているある物がなければならないのである。…修辞法は機械の減摩油のやうな役目はするが、器械がなくては仕事ができないのである。」

「人形は声を発しない事を知っているから、太夫の声がよそから聞こえてきてもひとりでに人形に乗り移る。漫画の犬が唄うのは、自然だが、本物の犬が唄うのは不自然。不自然と不自然が完全に調和するのは、絵の犬の声を持たない事を知っているからである。本物の犬をしゃべらせるのは不自然。人形の表情も、平凡な写実の物であってはいけない。大写しの顔や手は決して「芝居」をしてはいけない。」

「象徴の暗示によって、読者の連想の活動を刺激するという修辞学的の方法によるほかはない 暗示の力は文句の長さに反比例する。」

「夢でも俳諧でも墨絵でも表面に置かれたものは暗示のための象徴」

「茶道は美を見出さんがために美を隠す術であり、現すことをはばかるような物をほのめかす術である」

「二つの対象が対立してそれが総合的に一つの全体を完了する。」

 

動画を作るようになるまで、映画が見ていられなかった。ずっと流れ続けているから。つなぎがうますぎるということになる。

 

発想

もし、宗達が映像を作ったら、どうであろう。もし、ミュシャであったらどうであろう。

ひとつつくったくらいで、疲れてしまうのは、技術に頼り過ぎるから。絵がうまくなるほど、何でも絵で表現したくなる。同時に、自分が描けるものしか描かなくなる。CG技術も同じ。いろいろな手法を探して、当てはめる。小説の時と同じ方法になってしまっていた。技術でつくるのは、労働なのかもしれない。技術は、イデオロギーを隠しやすいし。シンプルに作る。きれいに作る。琳派の固定された美。アイデアで作らなければ、アートにはならない。

クーポンマガジン hotpepperのcm 通常の店員や人々の会話なのに、外人が雨にうたれたり、血を流したりして話す映像にかぶせている。広告としては面白みのある効果を出しているのだが、コミュニケーションの観点から見れば、人はそれだけ無理をしながら話しているということにもなる。

グラフィック編集は、コント的に見える。てことは、コントは、graphic designに通ずるのか。

日本的なもの。琳派。俳句。お能

古典作品を粗っぽいやり方で再加工。

 

ネタ

漢字のシェイプアニメーション。さんずいから浜、濱へ。

対角線で、遠く離れたものを結ぶ。一見、したところ、何の関係もなさそうなものと物を結びつける。

物語性がない動画。

デジタル紙芝居 散文詩のような。哲学的な、知覚に対するものを入れ込む。絵は、infoglaphic。コントラストをはっきり。

電車のの扉が開いて、人々が降りる。この降りる時に、扉の立体映像を映したらどうであろう。人々は、それを映像だと知っている。知ってはいても、それを通り抜ける時に、違和感を感じるのではないか。映像を見ているとき、操作しているときには感じなかった違和感を。

普通の暮らしは無理だったのか。普通の学校生活。普通の家庭。普通の人付き合い。普通の恋愛。普通の仕事。普通の通勤。普通の食事。普通の というところでカーソルを置いて点滅させておく。

入力している画面を録画する。「普通の」というところでしばらく間をおいて、又書く。

民謡のトーン

PC画面上撮影。Ctrl+Zで、二行くらいの文章を消していく。最後に残るのは書き出し。

絵巻物動画は、dissolveで。Photoは、cutで。なぜなら、静止したものだから。絵巻物は、イメージの流れ。だから、同じ場面に同一人物が複数存在してもへっちゃらだ。

背景言葉の羅列

ルール

テンプレートを作らないこと。目の前の具体的なものを正確に見て、毎回一から作り直す。少しでも変われば別なものなのだから、別なスタイルになる。

写真を動かすのは品がない。文字も同じ。光らせるのも、particleも。かるく、ゆっくりと。そもそも、写真も映像もそこにないものを移しているのだから、幻影なのである。怪奇現象なのである。幻影を真実のものとして作るからバランスの取れぬものになるわけで、幻ならば、幻のように作ればいい。あとは、design重視のシンプルな映像が得意。そこで、幻影小説の手法が役に立ってくる。

絵画との最大の違い。絵画は、現実に存在しない物でも表現できる。

しかし、写真や映像は、必ず、カメラの前に存在したものでなければならない。現実に存在しているにもかかわらず、今ここには存在していないから怪奇現象なのである。それが光の芸術。幻と目くるめき。

CGによる写真を加工したposterやmotiongraphicsは、架空のものを現実の「かつてそこにあったもの」(バルト明るい部屋)を示すべき表現手段で表しているから、しっくりこない。せいぜい色調補正位なものである。写真は、そこに存在しているから威力がある。本来、「模様」としていじくるべきものではない。

演劇は、模型的人物を示す。映画は、個性を表さないと。

派手な演出というものは、現実から目を離れさせるものでしかない。わたしは、「意気投合している人と、テーブルを囲む」ということを最高のものとしているので、その現実を薄めるような演出はしない。

知識やある程度の技術を踏まえて、手を抜かずにつくられたものがsimpleであり、それは、手が込んでいるとはきづかれず、そして、そういうものが伝わりやすいのである。

派手な映像作品は、何かを見過ごすためにしかならない。写真でさえ、上面を滑る事しかならないのに。

映像だって、テキスト。

写真と動画

写真を動かすのは格好良くない。

写真は幻想。動画は、錯覚。スライドショーで写真を動かすと幻想が消え、ただの錯覚になる。錯覚は、錯覚として扱う。映像と映像の間には、何か別のもの、文字やイラストが必要なのである。

写真が幻想というのは、過去に存在した現実を写しているにもかかわらず、正確には、現実のどこにも存在していない物を写しているからだろう。映像は、存在しているかのように見せているわけである。

映画は、スクリーンの外に出られぬのに、出ようとしている点で、痙攣的な活動性であるから、作るのであれば、静的なものが望ましい。

派手な動きでごまかさないように。統一されたものを。

映像は、写真を否定している。

文明を撮るのは、人間の作り上げたものを讃歌もしくは批判しているのだろうが、では、人間の存在していない文明を撮るのは、何を見ているのか。

写真にあるのは「停止」。

テレビはつけっぱなしにしておくもの。

エイゼンシュテインのように大胆なアングルは、写真よりも、映像で効果的。

自主制作について。

自主制作と言うと、まず映画が思い浮かぶ。少しばかり荒れたフィルムで大学生が作っているイメージである。一昔前までは、映画にしろ、アニメにしろ、費用も人も必要だったから、自主的に、つまり、どこからも依頼されていないのに作るのは困難に近かった。それが今や、コンピューターの機能の向上により、一人でも制作という行為が可能になり、それもアート教育や、技能教育を受けずとも、可能になっている。

今さらではあるが、これにより、作ろうと思えば作れる状況になっている。インターネット上に、作り方や、映像やデザインの素材を提供してくださっているサイトもいくらでもある。

「自主制作」と言う言葉が、意味をなさないくらいに、普通になってきている。

映像に限らず、自分で作ったデザインを布にプリントしてくれたり、服に仕立ててくれたり、また、3DCGで作ったデータをもとに指輪を作ってくれるお店もある。

芸術という言葉が今のような使われ方をしだしたのは、18世紀以降と聞く。それまでは、何かを作ることが、artだったのである。21世紀になって、その意味が再び広くなった。

プロとしろうとの垣根が低くなっているというよりも、一人の人間が好きに誰かと組んだり、誰かのつくったものを用いて、またベつのものを作ってみたり、さらには、プロではないのだが、たまに舞台に立って、ミュージシャンとして活動しているとか。

プロを呼んで何かをするという行為自体が20世紀的で古臭い。仕事でも、芸術活動でも、まずは、その場の人びとや知り合いで意気投合をして始めたらいい。

現実のものでフィクションをつくるという逸楽。

その他

増殖するさまを示す動画は、20世紀どころか、18世紀並み。「世はなべてこともなし」を示すのも。

一度書くという行為を身に着けてしまえば、後は、そのヴァリエーション。変奏曲。

言葉では表現しきれないものがある。それでも、なんとか、言葉を用いて、それに近付こうとするのが小説を書くという営みなわけだが、そうしているうちに、自分の考えていた言葉になっていない物が、別のものになって、それは、書いているうちに自分でも到達しなかったところへ至り、自分でも知らなかった新しいものが生まれるのだと思っていたのだが、実のところ、既に存在している言葉、言語表現がすでに持っている、コードと言うか、表現手段に取り込まれてしまった状態であるらしい。要するに(要するに、とか、つまりとか書いている時点で、既に自分の考えが別のものになりつつある、自分でも表現しきれていないということを示している)、言葉で表現しやすいように、表現可能なように、頭の中にあるものを編集してしまったのである。それを視覚表現を始めて気が付いた。

二か月間ずっと映像を作り続けていた。小説と同じく直そうと思えばきりがない。また、仕上げた後の感覚も似ている。それでわかったのは、わたしは、クリエイターでも教師でもなく、編集者だということであり、しかもいわゆるデスクのような仕事が本領を発揮するのだということである。仕事を割り振り、みんなのものをまとめ、また、layoutを行うのが得意みたいだ。昔は、編集だったから、上手くいかなかったらしい。テンプレートや、フリー素材を使えばいい。やりたいことがあるのに、操作を覚えている場合ではないし、たいていのエフェクトは、わたしの趣味ではない。

表現の道具として、adobeは欠かせないかもしれない。しかし、ああいうものは、動かせればいいのであって、技術を重く見て、めくるめくgraphicを追えば追うほど、肝心の物から離れていく。わたしの表現したいものを表現できる技術だけで十分であり、さらに言えば、自制が必要になる。

どこまでも技術を追うという心の動きは、極めたがる心の動きともいえるが、職人の場合はさておき、たいていの場合、より重要な事、幅広くいろいろな事を知ろうとする自分の行為をしたがらない心の傾向からくる。

技法

人の細かい仕草を全景でとり、物をクロースアップで撮る。ヒッチコックのやり方。

文明を撮るのは、人間の作り上げたものを讃歌もしくは批判しているのだろうが、では、人間の存在していない文明を撮るのは、何を見ているのか。

完成度をあげるほど、受けての想像力、批判力が減退する。