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CheatCut.hatena

noise&randomness

Old essay

昔書いたエセーです。10年前。

 

楓の木は、一年に三寸しか伸びず、長するのに二十年以上もかかる。ゆっくりと伸びるために、木が固くなり、ゆがみが少なく、楽器に用いられる。

 

一万年前まで、今のアイルランドあたりで、巨大な角を持った鹿がいた。角があるのは雌に受けが好いからで、雄だけが持っている。競い合ってより大きくなる。氷河期が終わり、草原が森になるにつれて絶滅した。森であれば、木に角が引っかかって、思う様に動きが取れなくなったらしい。

それなら森に適応して、角を小さくして小回りの利く様に進化をすればよかったと思うのだが、よほど角がなくなるのがいやだったのだろう。そうはしなかった。鹿にとって、角がないのは考えられない。角があるから生活全体が成り立って、雌に受けるのであり、小回りが利かなかろうが、取るわけにはいかない。鹿は、自分の体ではなく、角ばかりで成り立っていると思っていた。角は餌をとるのに役には立たない。ほかの鹿のための物にすぎなかった。

 

健常な時に平気で食っていた物も、体調によって食えなくなる様に、普段、頭をめぐらせている物事にも、体力任せに考えているにすぎないものもある。

 

露人は森に別荘を持ちたがると言う。人の間ではなく、木の間で休むのである。

 

ピカソの書く手紙や封書の宛名はカラフルだった。何であれ、自分を示す手段として手を抜かない。ひと手間かけて美しく整える。

自分の仕事に、行為に対する丁寧な構え方が好ましさを表す。

 

身だしなみは身についた嗜みの事であるから、服装はもちろん、振る舞いを含めた礼節の事である。その者の心がけが外に表れた姿であれば、品という事にもなる。

 

ルターはカトリックというよりも、ルネサンスが気に入らなかったのではないかと思われる。芸術と技術が進歩した。人間の為事(しごと)が拡大した。人間にここまで出来るのかと驚き、ここまでしなくてもと考え、教会から装飾を取り払った。芸術の注文主を排するために、聖書のみを重んじた。

 

大衆に物を言う時は感情的な言葉を避けて、本質を言うのみにする。撥ね返すのをもっぱらとし、相手を責めない。その上で話にならなければ去るしかない。

 

昏明(こんめい)は並び興(おこ)らず。頭のなかをまともな物だけにすれば暗い物は場所がない。

 

サンタクロースを信じる小児は物をくれるから信じるわけではない。存在そのものを信じている。いるに決まっていると思っているのである。大人は、小児が信じているのは物をくれるからだろうと思っている。そこで、「何が欲しいか」「いい子にだけくれる」「靴下がいる」などと条件をつける。物をもらいたいのか、サンタクロースに会いたいのかの違いとも言える。サンタクロースを存在として見るのか、欲しい物を出してくれる器械と見るかの違いである。

 

一つの為事に集注する者は他人を羨まず、自分にこだわりなく、かえって何からでもヒントを得る。

 

批判は、手始めに頭のなかで己を正しいとしておいてから、次にそれを動かさぬ様にして、他人が間違っているとみなす行為である。

他人を批判した反動で、自分で自身に勝手な規則を作って、自由を束縛してしまう事もある。

意見は異なる見方にすぎない。反論されぬ立場に身を置いているから反論されない。それを忘れて正しいと思い込む。論理が少々曖昧になれば、伝統だの道徳だの常識だのを都合に合わせて切り取って張りつける。対話と異なり、説教はまず己を正しく見せねばならない。そこからすでに虚構が始まる。

 

瞑想とは想うを瞑(くら)くすると書く。自分の感情から離れる。「こうするしかなし」は逆であり、思いを明らかにする事である。

 

みかん箱を棚や机にする。湯呑で植木に水をやる。ティーカップで水をやる欧米人はいるのだろうか。

 

夢。昔住んでいた家にいる。向かいには高校の同級の者が坐っている。窓の外は夜である。しばらく窓にそそぐ雪を聞いていた。それから、「風呂を見てくる」と言って、同級の者が立ち上がった。

廊下を戻って来た音がして、襖を開けてみれば、立っていたのは自分であった。

その自分と対峙した時、半ば夢と感じていたから、早く目覚めようとしてうなされながらも夢を脱した。

ドッペルゲンガーDoppelgängerなる物は夢のなかでさえ、恐怖である。当たり前の様に、自分は一人だけと思っている。それが自尊心というものであるが、これをもう一人の自分によって覆されれば、人としての存在意義が無くなる。社会的な役目として代りがいる、というだけにとどまらない。自分が二人いるという状態は、この世界に誕生した事よりも、この世界を去る事に自他ともに意味が無くなるという事である。容(よう)せる人はあるまい。

 

一昔前の薬屋は確かに定価販売であったが、例えば一寸したけがをした時、傷薬を買いに行けば、その場で治療をして、包帯を巻いてくれた。包帯代もとらない。

 

灯油缶で焚火する親爺なる文化。

 

人はその情況、物質によって、その精神も支えられている。しかし、支えていた物が自分から切り離せる物だとしたらどうであろう。

宇宙に行った後、農民になってしまった人は、地球という、自分を当たり前に支えていた物がじつは自分から切り離せる可能性を見たのではあるまいか。さらに一歩を進めて言えば、自分が切り離される可能性がある事を知ってしまったのではあるまいか。確固たる物であり、その上に安住していられると思っていたのが、今や、依存しなくてはならなくなった。

 

シンデレラの暮らしは、シンデレラの自我を出させぬ物であった。自分のしたい事が出来ぬ暮らしである。

そこにお城から招待状が届く。行きたいとの思いが生ずるも、境遇が制する。諦めたところに超常現象が起こって、お城へ出掛ける。

シンデレラが救われたのは、シンデレラがお城へ行く事を拒まなかったためである。シンデレラはその境涯にもかかわらず、ふてくされなかった。お城なる上流階級への「御出掛」を、情念によって拒まなかった。自分の境涯を決め込まず、情況が厳しいほど自分に優しくした。シンデレラは変わらず純粋に美しい物、きらびやかな物に憧れていた。自分の用事など毫もさせてくれぬ境涯にあって、不協和音が生じなかった。それこそが童話の主人公の資質である。

 

おとぎ話。身近の娘がじつは王女。王女の資質を持つ身近の娘。試練によって資格を得る。

 

何かを作り出す行為は、まずは自分を救うためにある。そこから否定的な物は方向が違う。

 

志。心差し。心の差し示す向き。

 

修正する時は、基本姿勢になってから、修正すべきところを練習する。

 

自分は本当のところ、どの様な世界を望んでいるのか。

 

純粋な心から生ずる想像と、混乱から生ずる想像は違う。

 

一体、それは自分が考えるべき対象なのか。分析し、解釈を与えるべき物なのか。相手をすれば縁が出来かねない。ふさわしくない事を考えない事によって思考を倹約し、思考のコンディションを整えるのである。

 

自分が望む世界を基にして行動する事が、「自由」という事か。

 

他人をよけさせれば清算が増すばかり。礼を述べた場合は別らしい。

 

普段からありきたりの言葉づかいをしない。抽象的な言葉や慣用句は、自分でも何を言っているのかわかってはいない。また他人にも通じてはいないのである。

 

他人と話す時は、突っ込み禁止、自慢禁止、自分の都合で決めた事や、努力もしていない物事を「うまくできない」と言う事も禁止。

 

自分を納得させんと欲する念が先に立てば、説明のつかぬことに説明をつけようとして、想像で世界を構築せねば済まなくなる。しかも、それを「応用」して使い続けたがる。

 

物事は、その物本来の目的と、その人がそれを行っている目的を一致させた時に様になり、統一されたものとなる。

 

自分の携わっている仕事は何のためのものなのか。

 

声質の高い者は、軽妙に喋っても気にならない。声の低い者は、軽妙に喋れば、威圧的に聞こえる。そこで、丁寧な話しぶりが向く。

 

己の考えは己にて実行すべし。努めて他に及ぼさんとすべからず。

 

サッカーの解説。「苦しくっても前に出なきゃだめですよ」

 

「シンプルにプレーする事が最も難しい」たぶん、オシム

 

葛藤を伝えたいから小説を書かん。ならば、その葛藤を捨てれば通ぜん。

 

自分をわかってもらいたいとの念がある。自分の情況を知ってほしいと言うのである。しかし、情況を把握しうるわけではない。また、自分が何を望んでいるかも曖昧である。何もかも酌(く)んでもらいたいとの念は、その念の発した時と所との色を帯びずには済まない。

 

「清算」だと思い込むのは、自分がすでに正しく、もうこれ以上自分を知る必要がないと思い込みたがっている姿である。

 

不安を感じて繰り返し思えば、それを証明するための物をあえて見ようとする。不安を感じれば、形となる可能性が高まる。自ら役を引き受けてまでも自分の言った事を明らかにしようと欲するからである。そこには自らの主張を示したがる癖がある。

余計な事を考えない、言わないという方法は、思考の停止ではなく、ふさわしくない物との縁をつけぬ方法である。

 

他人に行動を勧める行為さえ、そこに欲念が混ざっていれば跳ね返ってくる。

 

どうせやるのなら、どうせ力があるのなら、肯定して見せろ。

 

昨日の規則を今日も用いて都合が好いかというに、必ずしもそうでない。昨日の規則は昨日に於いて効果をもっていたのである。

 

ある事柄に対する閃きは、応用の範囲が限られている。しかし、楽にならんと欲する念は、これを絶対的な物として応用したがる。

 

「何をしたくない」と否定的な事を言うのではなく、「何をしたい」「何になりたい」「どこへ行きたい」などと、肯定的な発言をすれば叶うらしい。ほめていれば「好かれているな」と思って、ものごとが寄ってきたり、歓迎したりするのではないか。

 

幼児の玩具はあぶなくない様に作られている。これは幼児が制御できぬ物であってもたやすく扱うためである。また、幼児はたやすく扱えぬ物を欲しない。

人が最もたやすく扱う物は言葉であろう。所詮は聞き知ったに過ぎぬ言葉をたやすく用いる。用いている当人に何も及ばないと思っているからである。

 

情況が厳しいほど、自分には優しくしてあげるものだ。つられて自分に厳しくしてはいけない。

 

好きな仕事しかしない。必要としてくれるところでしか仕事はしたくない。

 

感想を言いたいがために、場所を求めるのではない。

 

「今一つだった」と言わずに、「気づかされることがあった」と言う。

 

何かを得るための苦労など、取引であって、苦労とは言わない。

 

掲げた理想に従う事はない。言葉はあくまでもフィクションである。

 

鍛錬は、眠ったあとに成果が表れる。

 

自分の能力は、自分の性質に基づいて生かすのがしぜんである。

 

今一つの事や思いは頭から離さなくてはいけない。

 

貨幣経済のなかで育った者は、何かを得るには対価があるのが当たり前と思い込みやすくなる。

フィクションでさえ、奇跡を得るにも対価がいると言う様な設定にすれば、皆納得する。

願いが叶ったからと言って何が減るわけでもない。願いが叶うのは、それまでの自分の努力の賜物である。

 

損得勘定に思考はない。むしろ自制の伴わない反射である。反射的行為を放っておけば、しだいに性質として身に着いてしまう。

本当にそれをしたいのか。それをするのは自分である事を忘れていないか。更に進めて言えば、それをしない自分を好ましいと思える思想を有しているのか、否かである。

 

気に入らぬ情況の要因を一つ一つ叩いて行く。これは思い上がりの姿である。

「わかってほしい」はバベルの塔で叩かれている。

 

日頃の心掛けよりも、自分の能力を磨く事を重んずれば、その能力が用いられる範囲が狭まる。

 

テストの受け過ぎ。「これで正解なのかな」

 

欧米にはマリア信仰がある。文化的に妙齢の女性以外であっても、結婚の対象と見る。年上の女性との結婚が珍しい事ではない。

「姉さん女房」という言葉があるからには、それが珍しいためである。英語には、「姉さん女房」にあたる言葉がない。訳せば、wife older than her husbandと、説明になってしまう。

 

医者。「食べて気持ち悪くなる様な物は食べない方が好いでしょうね」

 

蕎麦は元より、屋台で立ちながら椀で食っていた。今の様な丼鉢では、江戸の大食いとて、百杯も食えるはずがない。蕎麦の格が上がった時、器も大きくした。それを見て、ラーメンが今の大きさの器になったのではないか。持って食う大きさではない。台湾やタイのラーメン屋も、もう少し小さい器を使っている。

 

阿弗利加には、元、民族というほどのものはなく、人々は移り続けていた。ところに英国が税を取るべく、線を引く。枠のうちにいる者に部族名をつける。英国が去っても線は残った。民族が違うのならば、仲間ではないとする。線はすでに幻である。自ら呼び込んでいるにすぎない。

 

独自のものには名前がない。他人に伝え、世間に示すために名を付ける。

 

ドーナツを作るのに必要がない物をドーナツに入れているのは、ドーナツの形を保ち、ドーナツ風味にするためである。ひとまず腹を満たしたいと思えば紛い物を食う。それを人は体力に応じてしている。まやかしを食って平気なのは、それなりの「肝臓」を持つ者である。

 

人類の歴史は、移動の歴史である。歴史上の出来事が何のために行われたのかを予測するには、一人や少数者の意志が、意志を持たぬ何百万の人間に正しく伝わり、実行されうるという仮構の上でしか成り立たない。

人類の歴史の本質は、民族の移動にある。

幕末に来た外人が日本人を見て、「単一民族に見えない。皆種類が違う」と言ったらしい。日本人は、日本列島に来た道でさえ、一方からではなく、複数の道から来たのである。

閉じない限りは、そこからまた流れてゆく。

モンゴル人は、移動したかったのが始めにあったのではないか。そうして、宋に代わって国を作る仕儀となった。別の方向ではやはり草原を、また砂漠を駆けて、アドリア海まで達して引き返した。その先には、好い馬場も、牧草地も見込めなかったからとも言われる。

歴史を見れば、支配者は移動の禁止を求める。

 

酸素は酸素同士で結合して分子として存在するからこの世界で酸素として存在していられる。酸素が一つばかりでは水素と結合して水になる。鉄と結合して酸化鉄になる。

 

自分の用を自分で片づけようとして鳥を追い、川から水を運び、芋を植えていては、文明は生まれてこない。社会を便利にするために仕事を分ける事となった。次に、果たして川から水を何杯運べば芋十個と釣り合うのかとの話になる。双方妥協して、まあ十杯にしておく。今度は医者が現れ、一つの風邪を治したら、芋をいくつもらえるのかという事になった。そうして、貨幣なる便利な尺度(ものさし)で以てそれぞれの仕事の価値を計る事にした。自分が何かを欲しいと思えば、その物を作るのではなく、別の仕事を別の誰かのためにして、いったん貨幣にしてから、物と換えに行く事にした。

物の種類が増すという事は、人々の仕事が、さらに細かく分類されて行っている情況を表している。

靴下の多様化を人々が望んでも、服屋は靴下ばかりに構っていられないので、靴下をもっぱらに作る者が現れる。靴下問屋は、日々、楽し気な靴下、足に好い靴下などを売り、その代わり、別の誰かがもっぱらにして作った物を手に入れるのである。

また、休みの日には、別の事をしたくなって娯楽が求められる。やはり娯楽を与える事をもっぱらにする人々が出てくる。

 

脳の活動のすべてを測定器で計れるという証明はなされていない。

「脳は一生のうちで三割程度も使っていない」とされる。しかし、脳はそのくらいゆとりが必要な部位なるやも知れない。空きがなければ『オーバーヒート』になりはしまいか。

 

勉強が得意で美術が苦手な小児は、創作を見られたくないのである。教室で作らずに、持ち帰ってから作るのも、その表れである。芸術が何かを生み出す行為ならば、その制作過程を他人に見られたくないと感ずる者は、芸術家の資質を備えていると言える。

勉強は正解がある。その正解を示したのは、他人であって、自分の権威ではない。ところが、正解のない創作は正解がない。他人に訊かれたら、自分で説明しなくてはならない。それが億劫である。すでに照れくさい。

 

意地や反発の行為は重荷を負う。気軽の反対である。

 

蛸はストレスを受けた時に自らの触腕を食う事がある。この場合再生する事はない。

 

同じ欲念によって行動すれば個性に違いはない。欲の叶い具合に個人差が表れるばかりである。

 

他人の物を自分の物と思い違いをした時に茶番劇が始まる。

 

他人の物はただでは手に入らず。しかし自分の物はすでに持っている。

 

プリンはプリン型に流し入れるからプリンとして整う。撒いたところで何にもならない。

 

開国。日本人が土俵の上で横綱大関だと腕を磨いていたところに、これからはトラックで一等二等を決めるべしと言われたのである。

 

ピカソは初め古典様式に即して描いていたが、やがて自分が見ている物と違う感じがした。古典様式では、自分の見えている様には描けないと思ったのである。そこから自分が見えている様に描くには、いか様に描くべきかとの研究が始まった。

ピカソの絵は、ゆがんでいる。ピカソは本気であの様に見えていたのである。

芸術とは、本気で自分の感覚を表そうとする行いである。

ピカソの絵にあるのは、存在である。背景ではない。芸術は、存在を己に由(よ)って描く。

 

視聴者がマスコミに水戸黄門桃太郎侍の役を期待する。

桃太郎侍は代官の秩序を破壊する。破壊しはするが、あとは民次第となる。しかし民に新たな秩序を作り出す能力がなければ別の代官が現れる。かくして水戸黄門の漫遊はやむ事はない。

 

風土は情況に制された果てに成り立つとも言える。やせた土地に生まれたフェニキュア人は海に出た。しぜん航海術にすぐれる。

葡萄牙(ポルトガル)が阿弗利加(アフリカ)をまわって亜細亜に出たのは、地中海を回教徒に抑えられていたからである。

コロンブスは、東周りを葡萄牙人に抑えられていたからこそ、西へ向かって、米大陸に出たのである。

 

人の気、念は、布ではなく、縫い目に籠る。

 

茶は苦い。苦いという事は毒である。毒であるからこそ、煎じて飲めばかえって体に好い。しかし食べれば茶の別な一面が出る。

 

己の趣味を育む姿。

 

自分の心に見合った仕事を与えられる気がしてならない。

 

頭のなかで情況に対していちいち感想を言わない。結論も言わない。考察もしなくて好い。小説の書き方と同じ。

計画も立てるな。思いつきの計画など、情況に流されるだけだろう。逆に、何かしら思いどおりに行く事があったら、それを「方針」にしてしまうだろう。

 

自分からやりたい事が何もない状態と、何もやりたくない状態は違う。

 

木彫りは材料が眼の前にすべて用意されていて、それを削って行けば済む。引き算の仕事と言える。ジャコメッティの仕事がそれを示している。平面は書き加えて行く足し算の仕事である。

 

人は、動物でも、機械でもない。それは、一つの世界である。一つの世界が別の世界である他人と出会う。そうして影響を与え、又与えられることこそ、人が人である存在理由なのである。他者のために己を作り上げると言う意志が、人をして人たらしめている。

 

「やりたい事がある」などと、無理に考えればバランスを欠く。

 

行きさえすれば好い仕事。いさえすれば好い世界。

 

自負のためにバランスを欠く事もある。

 

肯定的な事は偶然と考えずに必然と見る。

 

小説や哲学書を読んだところで、自分にそれを糧とし、情況に適応できる能力を欠けば、慰めのためのフィクションにすぎない。後になって気がついたところで同じ事である。It's all the same.

 

慰めのための食い物を買っておきながら、交通費や光熱費を節約しているのは茶番である。

 

人をリラックスさせるつもりの冗談でも否定的な事は言わない方が好いらしい。

 

小児は、哲学書や実践本の類を読まない。将来に迷いがないためである。大人は読みたがる。少しでも「好い物」が欲しい、「happiness」な思い出ばかりにしようという「執着心」から、自らの経験よりも、活字になった教科書を欲しがるのである。

 

一般的欧米人は、日本人も漢民族も韓国人も見た目で区別がつかぬ様である。

この間、外人が撮った写真を見たところ、韓国の通勤風景だろうと思ったのが東京であり、朝鮮民族の人々も原発反対運動かね、と思えば日本人であった。

別の日本人が写した物は日本の景色に見えたから、報道写真でさえ、写した人の感覚が表れると言う事になる。

一方、人々の顔が写っていなければどこの国かわからない。欧米と言っても差支えがないくらいである。これは、見る者の偏向という事になる。

 

おとなしくしていれば役に立つ能力。得ようとすれば狂う能力。

 

質問に答える。大抵は、その質問を理解しないまま、普段頭のなかで行っている独り言、もしくは言いたい事を答として出しているに過ぎない。

 

創作意欲は一つの世界と出会う事によって生ずる。

 

絶対的な確信をした瞬間に自分の特質があいまいになる。

 

修行というより、モラトリアム。

努力というより、我慢。

我慢というより、自慢。

直観というより、気分。

意見というより、願望。

欲念というより、幻想。

思考というより、数勘定。

 

牛は牧草をはむ姿が自然である。そのほかの食い物は取引に用いる飼い主の都合で食わせるのである。牧草のみで育てた牛はしぜんな目をしている。

 

特売品はその値分の価値しかない。普段三百円の物を二百円で買ったなら、それは二百円分の価値の物なのである。徳用品もまた同じ。途中から片づけになる。

 

意見を持たぬ自由。

 

モラトリアムの時期に、やりたい事をやってみて、別段やりたくない事に気が付く。

 

どちらでも好い。しかし、どうでも好いわけではない。

 

合理的な考えと言う物は、一つでも、手順を欠けばうまく行かぬ、難しい行為なのである。

 

性格に反した事をしようとするから不協和音が生ずる。

 

「冥途の土産」との思想は、明らかに先の事を考えている。

 

情況が変わる事を理解できるのは、一つの能力である。その能力があれば、人生で最も特別な時を、ただの待ち時間ではないものにし得る。

 

オールマイティは、自他ともに役に立つことに使ったら好い。

 

なぜ物欲しがるか。次を考えているからである。

縁起担ぎはなぜ行われるのか。先があるものと考えているから。

 

別世界の存在と言ったところで、都合よくしか考えられまい。

 

二番目三番目は、視力の問題でもある。正確に見えていない姿がそこにある。

 

「自分は傲慢や怖れを打ち払える」と思う事も、傲慢なのではないのか。この様な事を考えている事自体が、迷っている証であり、不自然な姿なのではないのか。

 

既成宗教が役に立たないと考えた時、なぜまた新たな宗教を欲しがるのか。新たな宗教の誕生を求めるのか。魚アレルギーの者が、鮪が合わないが今度は鮭だから大丈夫だろうと言っている様な物ではないのか。

 

無理をして、背伸びして、つまり他人に抜きんでようとして、手に負えぬ倫理や道徳や義務を守ろうとするから反動で慰めを欲しがるのである。

その時ばかりを背伸びして乗り越えたとしても、背が伸びるわけではあるまい。

世のなかが発展していく以上、自分が人並みであるとの安心感を得る事はない。

 

信仰して好いのは、純粋な人だけ。それは純粋な人の特権であり、天賦の才である。

素直でない者が何を信仰しようとも、歪めて信じてしまうであろう。

自分は正しいのだから、「神の意志に沿った正しい生き方をしなくてはならない」と、想像で、自分の性質や情況をわきまえずに考え出す。

人間の、自分の想像力を信頼し過ぎである。しかも、この場合の「信仰」は、境涯が自分の思い通りにならない反動に過ぎない場合が少なくない。大事な物から眼を逸らした挙句、熱情をもてあましているだけである。哲学的な信条も同じ。

慰めの物で現実逃避をせず、運動体であるべき存在を自覚していれば、また目を上げた時に景色は変わっている事であろう。

 

自分が今より「人として」立派になれるとの幻想をどうして、当たり前の様に持つに至ったのか。むしろ下がらぬ様に努力すべきではないのか。

 

制御できぬからと言って、自分のちからではないと言い切れるのか。

 

小声になる様な話は初めから話さぬが好い。

 

「がんばった」「よくやった」とは、ねぎらいの言葉であって、別に賞賛の言葉と言うわけではない。自他ともに安心するための言葉である。

 

自分の特質を自分の欲念を叶えるためにではなく、仕事に活かす。

 

考え続けている事は迷っている証である。「理論派」の人間などいない。人は全員「行動派」である。

 

自分一人で何が出来るのか。何がわかるのか。わかるだの出来るだの言った瞬間に人は、その運動を止めてしまうのか。

 

可能だろうが、不可能だろうが、望むべき方事を向くに決まっている。

 

怖れを克服するために人は様々な物を作りだしてきた。型と言う物もその一つだろう。

 

他人が恐れ戦いているけしきを舞台でやれば、それはコントになる。

 

努力が苦手ならば、継続するだけで好い。

 

努力をして成長した場合、自分の能力がどの様なものか、理論的にわかる。才能や、他人に見出してもらって成長した物は、自分の能力がどの様な物か本当のところ分かっていない。

 

「一目置かれたい」というのは、過去に頼り切る姿である。過去にすがる事しか出来なければ、過去ですべて決めてしまう。

Appealとは、人に助力・同情などを懇願する、哀願するとの意味らしい。

たいていの主人公は初めに何も持っていない。

 

他人を救うためではなく、責める為の説得では功を成さない。

 

苛立っている姿は、「自分は動じています」と言っている様な物である。

 

マニュアルとは、上のルールに過ぎない。それに従っている限りは、安心していられる。また、それは、先の事を予め知ると言う事である。先に何が起こるのかわかっていれば、情況の対処もしやすい。しかし、それは、遊園地で遊んでいる様な物に過ぎない。ただ楽しむだけ。思い出を集めるためにやっているに過ぎない。

青年がなぜ体制に反発したがるのか。反発の対象は、大人のイデオロギー、大人の敷いたルールである。それはマニュアルに従わぬ事によって、自ら経験を積もうとする本能なのである。ルールに従っていれば、生きるのはたやすい。しかし、それでは、何も自らの向上につながらない。肩書やまわりの大人に支えられているだけである。

青年の癖に「カウンセリング」で説得されるのか。

 

レッテルなるものは、自他ともに何かから逃げるための口実と言うか、逃げ場であろう。

 

美しい。人の美しさは決して静止した物ではない。行為、動作を伴った、その姿が美しいと呼べる唯一の状態である。

 

自分と他人とは違う物であるのに、同じ物を欲しがる矛盾がある。同じ物を持ったからと言って同じにならないから、また別の物、別の他人の物を欲しがりだす。

 

心のどこかで止めてもらいたいと思っていないか。

 

真正面から、今対峙すべき現実に向き合うのが怖いから、二つ三つ同時にしたがる。逃げるための物でしかないから半端になる。

 

やってもやってもレベルが上がらぬのなら、レベルが上がる事をやれば好い。

 

好きな事をやるのではなく、好きな様にやる。

 

『別の自分』になりたがる。「別の自分」とは、既に自分ではない。

例えば、自分にある負の面を完全に外せたとして、それは自分なのであろうか。

 

やりたい分野をやると言う姿は、なりたい自分になるという事でもある。しかし、それに欲念が混じっていたら。「当てつけ」のためであったら。

やりたい分野ではなく、得意な分野が好きな事ではないのか。それをやったからと言って、「なりたい自分」になれるわけではない。

しかし、やりたい分野をやったからといって、「なりたい自分」になれる保証はない。

同時に「なりたい自分」に関係のなさそうな得意な分野に力を注いだからと言って、「なりたい自分」になれぬとも限らない。今の自分に何がわかるのか。関連性が見えているのか。また、「なりたい自分」像がずっと変わらぬと言い切れるのか。

思い通りの情況が得られないから、「強くなりたい」と願い、また努力する。

しかし、いつまでも、その様な考えに固執していれば、自分の得意な事さえ分からなくなってしまうであろう。「強い人」という概念が、所詮は、一般的で抽象的な物である。

強くなるのを止めてみる。その前にやる事、楽しむことがあるだろうし、そうして初めて自分の能力、得意分野、役目がわかるのではないか。

 

己の目指すところはそこではない。と他人の姿を見ながら思って見る。

 

情況を突破するだの、突き抜けるだのは、結局のところ一般論でしかない。

 

世界に足りていない物は、笑いというより、美しさではないのか。

 

八つ当たり。大衆のせいで腹が立った状態のまま関係のない人に応じてしまう。

 

コンピュータは道具に過ぎない。それを使う物も、それだけでは道具に過ぎない。自らを道具化している職業のすべてが同じである。

高校生が、制服を長くしたり短くしたりするのは、道具化に反発しているから。道具化の手始めは、規格化である。

老子

技巧多くして、奇物滋々起る

コンピュータで出来るのは細工だけ。

 

「ありがとう」のあとにつけ加えるべきは、「がんばるからね」であって、「もう十分」ではない。

 

暗くなって初めて、一縷の光明が見える事もあるのではないか。

 

努力は出来ないが、継続は出来る。

 

間をずらせば、笑いになる。しかし、人の頭がそれに影響されてしまえばどうであろう。

真っ直ぐに正しく見て入れば出来た事も難しくなるのではないのか。

 

批評や評論は、心の強い者が為し得る業である。正しいか否か以前の問題である。

ちょっとした感動話を読めば涙が出てきたり、物語の主人公に感情移入してしまう様な者が向いている業ではない。批評が合っていない事が多いし、また、その程度の事に気づいている者は少なくない。

心が弱ければ、逆の性向を持つ様になる。それを見透かされたくないからである。

それを踏まえずに行動すれば、性格と行動の不一致となって現れる。

何かしら、やりたい事があって、それをやれたとしても、その後で、その場に居る大衆からの扱いに堪えられない。「ネタ集め」をしていると言うより、「ネタ集め」にしかならないのである。

「自分にだってできる」と弱い性格を隠すための行動であれば、別に、それその物を本当にやりたかったわけではないから、一度の好機をものに出来ないのではないか。

「怒りが努力につながらない」とは、怒りの基底に悲しみがあるからに他ならない。

怒りによって、猛然と努力できる者は、強い性格の持ち主なのである。

しかし、性格が優しい、柔弱というのは、短所ではないし、また性格が柔弱だからと言って、能力が弱いと言う事でもない。更に、自らの性質を自覚してこそ、能力は、発揮される。

結局、何を恐れていたのかと言えば、自分が柔弱な性格である事を知られる事を恐れていると言うわけである。

 

自転車、とどのつまりは曲芸である。

 

あの世の話など、言うべき事ではない。

 

「智識の実を食べてはならぬ」

往々にして、食わぬ者が根本的な解決策を思いつく。情況突破の能力は、かえってその様な者の方が高いらしい。

 

倒し方を覚えるのなら、避け方や躱(かわ)し方を覚える。

 

本気でそう思わなければ、何もできない。

 

気分や感情に従って生きていない者がいるのか。

 

記憶喪失が人間としては一種の「死」であるのは、人と言う存在が自らの歴史の上に成り立っているからであろう。

 

「物を食う」と言う行為は、「物を買う」行為が前提となる。そこで飽食と言う欲念は食い物に対する欲念に加えて、「貨幣を使う」行為と切り離せないものとなっている。その行為は、「自由を行使」すると言う事である。食い物に対する欲念は、同時に自由、というより、好き勝手にしたい欲念と一体の物となっているから、必要のない物まで買っては食う事となる。

 

「景気づけに何か励みになるものが与えられる」というのは、むしろ、周りの人たちに安心を与える為ではないのか。

 

自らこの世界を去るのは、社会に失望し、自らに絶望すると言うより、絶望し切って自分が自分でなくなるのを防ぐためにするのではないのか。

 

「悟り」と言っても、大抵は「絶望」なのではないのか。

悟りを開いたと思っても、それは、一人きりでいる時の事でしかないのは、それをわかっていないからではないのか。

 

人にとっての最大の敵は恐怖。他人にレッテルを張るのも恐怖から来る。

「自分が正しくはない」という恐怖から他人にレッテルを張る事もある。

 

恐怖を感じていない者が願い事をするのか。騙りは、その恐怖に付け入るのではないのか。

エデンの園の話、アダムとイブは、特にイブはすでに怖れの感覚を持っていたと言う事になる。何に対しての怖れか。

怖れの感覚がない者に騙りは通じまい。「なぜ」と聞くか、自分の利益になりそうでも、その仕組みをとくと尋ねるだろう。

アダムが実を食ったのは、男らしくイブに付き合ったんだろう。

 

魔法なんて、のろいみたいなもの。

 

仮に過去に戻ってやり直せたとしても、好きな人に話が通じるかどうか。「なんでそんなこと言うの」と言われるであろう。ともに歩むべきものを直しに来ているわけである。

 

大抵、結局はalmightyの問題であった。自身の問題ではない。人の力を万能、情況の一つくらい自分の力で変えられる。思い通りに出来ると考えているから、自分を変えたがる。

 

人というものは、元より存在そのものが、既に二律背反。それに堪えられないから、どうにかして個性を確立させようとする。

 

人は時のなかを生きている存在である。そこが動物と違う。

宝籤にあたると言う情況は、好むと好まざるとにかかわらず、過去の上に成り立っている自分を拒む事を可能にし、未来で今を縛り付ける事からも解放される。ただ今を漫然と生きていると言う状態なのである。

 

「己を乗り越える」とは、超越的な者に語りかけたがる念を退けると言う事と、同じとは言わないが、多く重なっているのではないか。

そして恐らく、怖れが人を歪めるのは、他人に対してのそれよりも、超越的なものに対するそれなのではないのか。

純粋な人以外は、超越者を前にして、何より怖れの感情を抱くであろう。そして、次に智識の実に手を伸ばすであろう。恐怖を与える存在に守ってもらうのではなく、自分で守りたくなるからである。

 

説教でなく、おすすめを。

 

最善と思った事が出来なくなった時に、落ち込んだり、腹を立てたりする間に、次善策を行う。

 

知識よりも、hint。知識ではなく、hint。

 

昨日の自分を後生大事に抱え込んで、自己編集をしないと、精神の老化が始まります。

 

自分の性質に反した言動は不協和音となってあらわれる。

 

日常、論理的に結論を出したつもりでも、その論理の出処が浮き草の様な物だったら。論理と言ったって、大抵、情念から発しているから。心の差し示す向きが間違えていれば、間違った物しか見えまい。

 

すべては留保されている。

 

思い通りになるとの自覚が足らない。

 

カフェインは、鉄分の吸収をしにくくさせる。茶やコーヒーの類は、食後に飲む事になる。

 

箸でもフォークでも、使うのは先の方、せいぜい三分の一くらい。

 

小麦粉ばかりでは必須アミノ酸が足らなくなる場合があるから、米や豆を食う。蕎麦を食う。トウモロコシを食う。

 

投手としての盛りが過ぎていたはずの者がアメリカに行って年々良くなったのは、「球離れなどを考えずに、最も力を籠められる投げ方にしたため」との事である。

 

馬の睡眠時間は二時間ほどである。牛はそれよりも多少長い。一度に取らずに、三十分ほどの睡眠を分けて取る。夜でも起きて草を食っている。

 

後悔がまるでない。過去に戻ってやり直したい事が何も。

 

変なことばかり考えていては、脳が混乱するだろう。むしろ、頭を自由編集状態にしておく。そうして、いろいろなものを見ながらinspirationが湧くのを待つ。自分で考え続けるのは疲れるし。

自分を否定するのではなく、そのイデオロギーを否定する。


愚痴はもっともたやすい娯楽、気晴らし。


実際、食えたものではない物を、ものほしがる心がごちそうに見せる。