CheatCut.hatena

noise&randomness

民俗学漫談*映画

映画と祭

映画ができてから、カーニバルの昂奮がなくなりました。

映画で昂奮するわけです。カーニバルよりも安全ですからね。

映画の形式は、演劇の舞台と同じですね。同じ構造を持っています。

演劇は、祭の再現ですから、映画もその構造を継承している以上は、昂奮させるわけですよ。

ただ、だんだん、映画が産業になり、見る側が消費者になってゆくにつれ、祭の昂奮とはかけ離れてゆきます。

映画は、演劇よりも、むしろ、テレビに影響を受け始めます。

ロングショットではなく、クロースアップの多用ですね。

一つの世界を示すというより、人を区別し、何が行われているのか、分かりやすくする手法ですね。

 

なんで、テレビは、クローズアップにしたかと言いますと、初期のテレビは、画面が小さく、画像も粗かった。

ロングショットにしたら、何が映っているのか、わからないんですよ。

 

映画と、テレビは出所が違うんですよ。

構造が違う以上、効果も違います。

テレビでは、祝祭の昂奮は生じようがない。

祭の昂奮はどこへゆく

この間見た広告で、サッカーの中継をスマートフォンでも見られる、と。

それで、一方には、選手がシュートを決めている写真が、一方では消費者がスマートフォンを片手に覗き込んでもう一方の手で、ガッツポーズをしている広告なんですがね。

これ、昂奮するんでしょうけど、祝祭の昂奮とは程遠いですよね。

むしろ、ゲームのクリアとか、レベルが上がったとか、せいぜい、合格通知を見た時の感情に近いと思います。

個人的なクリアの問題、片付いた、と言うことであって、カタルシスとは別の次元です。

構図の事で言えば、私は、昔、アニメをよく見ていたんですが、昔のアニメは、映画の構図をまねしていたと思います。映画が演劇をまねしていたように。今のアニメは、テレビのまねしていますね。クローズアップが多く、世界を示すというより、キャラクターを見せることが目的のようです。

スマートフォンなどの小さい画面で、キャラを見て、ストーリーを追う。そのストーリーもキャラを楽しむためにあるという。歌舞伎の手法ですね。

ストーリーを追う

こどもの頃から漫画やテレビばかり見ているとね、って、私の事なんですがね、自分の外にある物語を自分の人生の手本にしてしまう。

どういうことかと言うと、自分の人生の現実にある状況、それに合わせて、行動してゆくのではなく、外にある、フィクションですよ、誰かが作ったな過ぎない物語ですよ。

その自分とは関係のない場で生まれたフィクションを以て、自分の人生に口出しするんですよ。自分で。

危ない行為ですよね。

合っているか、間違っているか、合っていることばかり探していれば、こうなりますよね。