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民訴族学漫談第31回*宗教とサブカルチャー

前に、

民俗学漫談*宗教のサブカル化 - CheatCut.hatena

という漫談をしましたが、今回は、宗教とサブカルチャーについて、漫談をします。

サブカルチャーにおける「聖地巡礼」の現象

漫画やアニメに、現実の宗教施設が登場したり、神仏が登場したりします。

虚構の世界に現実の場を登場させるわけです。

物語を構成する素材として用いるのですが、その事によってリアリティが増しますね。

ゴジラが目指すのは、東京タワーであるから見ている側に衝撃を与えるのであって、見たことのない町では、その効果が薄いという事です。

本来、漫画やアニメは、ファンタジーであり、子供向けであったから、その舞台も架空の場であったわけです。

世界が広くない子供にとっては、たとえ明治神宮だろうと、織田信長だろうとフィクションでしかありません。

ところが、ここで話題にする漫画やアニメは、子供向けではない、十代後半以降の人びとが見て楽しむものです。

そうしたフィクションに現実のものを出すと、どうなるか。

現実に存在していたものの方が、フィクション作品の世界に引き寄せられる。

もちろん、人の頭の中の話ですよ。

昔、「真・女神転生」なんていうゲームがありまして、私も繰り返しやったのですが、舞台が東京なので、現実の世界がゲームの舞台として登場している、と昂奮したものでした。

一昔くらい前から、漫画やアニメに出て来た場所をファンが訪れるようになりました。

その行為を「聖地巡礼」と呼んでいます。

本来の聖地巡礼は、自分の日常を離れて、宗教施設に向かう苦難によって、魂が浄化されたり、宗祖の苦しみをわずかでも分かち合おうとするものです。

しかし、アニメで登場した場所に赴く聖地巡礼の場合は、少しでも自分がその作品の世界に近付きたいという思いから来ます。

もっと言えば、その作品の登場人物に近付きたいという話です。

近付けぬものに対する憧憬が人を引き寄せる。

もちろん、出向いたところで、作品の何があるというわけではなく、神社やお寺が通常通りにあるだけですが、ファンはその場に立つ事によって、あたかも自分が作品世界に入り込んだような気分に浸るのです。

現実世界と、虚構世界をその場でリンクさせるわけですね。

脳は、思っただけで現実と勘違いする機能がありますから。それを活かします。

その場に行くファンは、すでに「巡礼者」ですので、本来の巡礼者と同じく、日常を抜け出して、別の世界に足を踏み入れているわけです。

そこが、宗教とサブカルチャーの重なりやすい点です。

例えば、ゴジラに出てくる東京タワーは、あくまでも世俗の施設なので、別の世界に入り込むという感覚が薄くなる。

その点、宗教施設はもともとが、脱俗のための場なので、日常から虚構への特異点として機能しやすいんですよ。

常日頃から漫画やゲームの世界に浸っている人々にとっては、それは、たやすい事なんです。

神社や寺が日常から抜け出す目的であることには、今も昔も変わりません。

ただ、神仏ばかりではなく、現代は、崇拝対象のレパートリーが広がっているだけです。

それにより、神社やお寺は何もせずとも、自治体がおとなしくはしていません。

最近は、役所に「観光プロモーション課」などという部署があるんですが、映画やアニメで、自分たちの地域が舞台ともなれば、それを売りにして観光客を呼ぼうとしています。

アイドルグッズとイコン

私は、アイドルなども、サブカルチャーとして認識しています。

アイドルのファンにとっての「聖地巡礼」と言えば、コンサートですね。

またはサイン会などでしょうか。

コンサートやサイン会などで、自分の崇拝対象と同じ場に立つ。

その事がアイドルと同じ世界にいる証しとなるわけです。

さらに、グッズが、日常に戻った人々をアイドルとつながりをつける役割を果たす。

直筆サインは聖遺物だし、グッズは、そのコピーなんですね。

ブロマイドはイコンです。

アニメやゲームのファンもグッズを手に入れては、好きなキャラクターと世界を同じくする感覚を持つわけです。

ただ、アイドルとアニメのキャラクターの違いは、どちらもフィクションと言えばフィクションなのですが、アイドルは現実の人間を使って、恋愛の対象を作り出しているところにあるでしょう。

そのうち、人工知能とコンピューターグラフィックを用いた、現実のアイドルと区別のつかないアイドルが出て来るでしょう。その時に、コンサートや歌やグッズやサインは、人間のアイドルと変わらない。しかし、裏がない、性格の意味ではなくて、コンサートの稽古やグラビアの撮影などがないアイドルなわけですから、どこまで崇拝できるかだと思います。ま、それも、ファンは知ってて、ノリでファンになるんでしょうね。

人は、崇拝する対象を求めずには済みません。脳は、安定を何より求めますから、額づく対象を求めてしまうのは仕方ありません。

歴史のフリー素材化

最近、漫画やゲームに、実際の場所以外に、実在した人物が登場する事が増えてきたように思います。

以前から、「信長の野望」なんていう、全国制覇を目指すシミュレーションゲームなどがあったのですが、最近は、全体の作品数が増えているのか、信長をはじめ、歴史上の人物をキャラクターとして用いた作品が目につきます。

デザイナーが、ポースターなどを作る時に、「フリー素材」と言って、あらかじめ、どなたかが作っておいた模様などを、著作権以外は自由に使っても構わないというものがあるのですが、最近は、信長でも何でも、歴史上の人物はフリー素材並に使われています。

そうした作品では、クリエーター側は、フリー素材として使っているにすぎません。キリストでも天照大神でも信長でも。

思想でもなく、まして倫理でもなく、ただのキャラとして使うわけです。

キャラを作りやすいんですよ。すでに、皆の中でイメージが出来上がっていますから。

しかも、その上、性別を変えて、美少女キャラにしてしまえば、意外性も出ますし。

古いところでは、沖田総司を女性として扱った映画がありました。牧瀬理穂さんあたりが演じていましたか。角川映画ですね。

その流れです。

物を人としてキャラクター化してしまう事を「擬人化」と呼びますが、美少女化する事を「女体化」などと呼びます。

しかし、キャラとして扱って来たもの、イメージをはっきりさせ過ぎたものは、現れたものに縛られるから、たちまち地上の有限性を与えられ、天上の無限性を失う。

名付けられ、キャラづけされたものは、慣れてしまいますから、畏怖の感情は減ってゆきます。

仏像フィギュアという一つの例

仏像フィギュアが一つの例。

今、仏像のフィギュアがあるんですよ。

仏像は、木の中から、信仰心によって仏を見出すものじゃないですか。

ただのオブジェではありません。

仏像をフィギュアにするという感覚が、すでに信仰の話ではなく、版権のいらない「フリー素材」として扱っていますね。

今や、お寺の仏像も、新しくする場合は、中韓あたりの仏師にオーダーするらしいですね。

なぜなら、日本人の仏師に「注文」するよりも安いから。
すでに、仏像も「注文」、オーダーするものになっています。作る方も、職人と変わらない。
住職が己の信仰により、仏の姿を木の中に見出すのではなく、通販で注文する時代なんですね。

「紀元前というものを考えた時点で、キリストへの信仰心が欠けている」との話もありますが、歴史上の人物や神仏をキャラクター化できるのは、やっぱりクリエイターの感覚だと思います。

信じる対象探し

通常の人間が信ずるのは、そのもの言葉ではなく、気配、雰囲気なわけですが、それは、ある種の崇拝の感覚がないと成り立ちません。

 前にも話しましたが、宗教施設が、信仰の場ではなく、イベントや願い事の場として人々に用いられている。人々は、「消費者」ですから。

神社に出向いて、願い事をするわけですが、その願い事は、祈りから生じたものではない。他人やマスコミや実践本を通じて生じた願いなんですよ。ほとんど手続きや取引をしている感覚と変わらない。

人の脳が確固としたものを求めますから、神仏もただの畏怖の対象よりは、畏敬の対象にし、さらにメディア上で扱うことにより、親しみを持たせる事を望みます。

最近、荒れ狂う対象が荒御魂(あらみたま)だとしたら、人が制御できるようにし、その力を人のために役立てるように、神社に鎮めたものが、(にぎみたま)だと、思っているんですよ。神社はそのための装置なんじゃないかって。

はじめは、人里から遠くにやっておくしかなかったものをある時期の「知識」や「技術」によって、人里のそばに置いておけるようになった。それが神社なんじゃないかと思うようになりました。ライトノベルみたいな発想ですけどね。

それで、その和御魂から、さらにテキスト情報のみを使うようになったのが、今のフィクション作品ではないのだろうか。

そこでは、苦難に満ちた巡礼ではなく、むしろ喜びをもとめて「外なる中心」(ターナー)に向かう行楽の一種となっている。

そう思います。

ただ、対象が有限性ならば、自らもまた有限の中から出ることはないので、どこまでもフィクションとしての「聖地巡礼」なわけですね。

それもまた、日常の憂さをはらして、新鮮な気分になるための、ケガレを払う一つの方法なんだと思います。

宗教者は、管理人となってしまいますがね。

いつの時代も同じでしょうが、思想が曖昧になるにつれ、確固としたものを欲しがる。60年周期で独裁者的なものを欲しがるのと同様に。

多くの人は、信じる対象を探す旅をしているようなものです。メディアに慣れすぎると、自分探しが自分の信ずるもの探しになります。まあ、自分探し自体が、メディア上の幻想なんですが。

例えば、アイドルグルーブの誰を「推す」のか。どのようなゲームが好きなのか。そのゲームのどのようなキャラクターが好きなのか。人びとは、自分のキャラクターを作るために、忙しく崇拝対象を探し、選び続けています。

自分のキャラクターを作るために、フィクションのキャラクターを求めるわけです。そういう現象です。

そのくらいしないと、自分のアイデンティティーが保てない。

メディア上では、多くの「キャラクター」が映って、動いて、喋っていますからね。

そこでは、自然に任せていては、人生はうまくいかない、と言う。

「好きな事」を見出して、それに向かって、努力しなければならない。実際に成功して、メディアをにぎわせている人びとは、そうしてきた。

と、言われます。言われたら信じちゃいますよねえ。

そのようなプレッシャーを幼い頃から感じていれば、アイデンティティーの薄まりを怖れるのは当たり前ですね。

そうして、狭い範囲の選択肢の中での努力を強いられる。

私の言っているのは、努力の放棄という事ではなくて、徒な努力に走らせると、努力をするだけで何も身につかずに年を重ねてゆく事がある、という事なんですよ。

 自分なりに適当に、自然に普通に生きようとしている人だって、「正しい生き方」だと思いますよ。

しかし、メディアは、「強い」ものを示してくるので、普通の人も必要以上の努力を求められてしまう。

その抜け道を求める心の衝動の一つなんだと思います。現代の「聖地巡礼」は。

フィクション作品が増え、日常的にエンターテイメントのビデオ映像にさらされると、その題材とともに、個人の想像の多様さは消滅してゆくのは、自然な成り行きです。

示されてばかりいれば、そこから選ぶ事しかしなくなる。そう言う構造ですから。人間の脳は。

アイドルでもアニメでもスポーツでも、祭の熱狂を求めずに済まない人間の欲求に宗教の形式で応えていますね。
「個人の感情がいつも攻撃性とセツクスの周囲を巡っているために、振幅が非常に狭くなっている」身ぶりと言葉 (ちくま学芸文庫)342ページ。