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日記

タイムリープでもしない限り、人生をやり直すのは不可能であるから、
やり直したいと思うなら、別の人生を歩むしかないのではないか。

どうしても、人は、別の人生ではなく、やり直したいのである。
失敗をした事をなくしたいのである。
情けない姿を回避したいのである。
無様で他人に笑われ、見下された自分をリセットしたいのである。

人生の穴を埋めてから、進みたいのである。

残念ながら、人生にやり直しは聞かない。
人がそうはさせてくれない。

あの時に戻りたい、あの地点からやり直したいとどれほど思っても、
後ろを振り返って、静止した世界を眺めることしかできない。
一歩たりとも過去に向かって歩むことは人には赦されていない。

過去を振り返らない。
過去を乗り越える。
言葉の上の決意の遙かに大きな労力を伴って、始めるしかない。

 


鬱病になると、ほとんど何もできなくなる。
布団に包まっている以外にやりたくなくなる。
一日一度起き出して、一食でも食べて、風呂に入ったら、
ほめてもよかろうと思えるほどの状態になってしまう。

こういう状態も後何ヶ月にしなくてはいけない。
春になったら仕事を探そう。
そう思いながら、短い一日がすぎてゆく。

そうして、何も回復しない。

一度、もう、何もしないということにしてみてはどうであろう。
その日々のなかで、わずかでもやってみたいというものがあったら、やってみてはどうだろう。
それまで生きてきた社会での損得勘定は関係ない。
今までならば、恥ずかしかったり情けなかったりするものでも構わない。

どの道、このままなら、衰弱してこの世を去るだけだろう。

それでも残った、体力、意志、知力を用いて、やりたいと思ったことをやってみてはどうであろう。

 


恐らくは、鬱病になった原因を上回る苦しみやトラウマは発生しないのではないか。

ふと気づいたら、新しい自分が新しい景色に立っているのではなかろうか。

 

恐らく、鬱になる人々は、変に真面目で、情に流されたうえでの責任感があり、合理的に考えている癖に、目的が状況に即していないから、結局は合理的に行動しないし、照れ屋で、「これをやっていい」と言う範囲でしか行動してはいけないと勘違いしている場合が多いのではないか。

世の中の「立派」で、「普通」にやっているように見える人々でも、それを表に出さないだけで、別に真面目で徳義に篤いわけではないのに、ついつい自分と引き比べて、自分の「持ってなさ加減」に焦ってしまうのではないか。


超越者というものがもしも存在するならば、
ほんのわずかでもこの世のものを欲しがる姿を許さないらしい。
いくら悲しもうが、辛い思いをしようが、結果、鬱になろうが、
構わぬらしい。
むしろ、お前には必要がない、ということを繰り返し示してくる。

この世にありながら、この世のものの方を見ているのは、認められぬらしい。


人生において、躓かないなら、躓かないほうが好い。
叩かれずに無事に進めるなら、叩かれない方が好い。
親兄弟に可愛がられ、妬みなどを躱せてこられたのなら、そのほうが「健全な」人間になるだろう。

辛抱強く、我慢でき、常識があり、主張するところは主張し、
僻まず、短気を起こさず、合理的な考えの下、自分の暮らしを整えながら、楽しみを享受する。

そのような人になるだろう。

子供の頃からよい環境に育たず、
人の良識あるアドバイスには耳を貸せず、
僻みや怒りに任せた言葉を気にして育った人は、
辛抱強くもないし、主張も苦手、妬みや怒りに苛まれることが少なくないし、
人と仲良くしたいのに、孤独に陥りがちで、期待に応えられない。
そのくせ寂しがり屋で、欲しがることは人並みになることがある。

ただ優しいだけの人間。
「自分のない優しさは敗北に似ている」
それもわかっているけれど、辛いことがあっても笑ってしまう。
自分の辛さも正確に伝えられないから、周りからは「自業自得」といわれ、
自分でも、結果から見ることしかできないから、そう感じてしまう。

そういう人。
人類が、それでも存続しているのは、そういう人もいるからとは思えないのか。
すべての人間が「健全で」、「立派な」人間だったら、その人々同士で争うのではないか。

そうして、そのような「健全で」、「立派な」、後ろめたさを知らぬ人間同士の争いは、
どのようなものになるのだろうか。