CheatCut

noise&randomness

文学覚え書き

※あくまで個人的な覚書です。

まとめてもいません。

 

結末の前に、少々唐突に別のエピソードを入れる「ずれ」の手法。ドストエフスキー
「現代には難しそうだな」
描き続けるという事は、一つのポイントを膨らませられるという事である。これは、落合が言っていた、打つ瞬間だけ力を入れるという事と少し似ているのではないか。

今は、コンピューターでかいているが、10年くらい前までは、意地を張って、
手書きで書いていた。
旧仮名遣い、出来るだけ旧漢字で書いている。その方がことばが喜んでいる気がする。紙は、原稿用紙、それも二百字詰めの原稿用紙を使っている。この方が持ち運びに便利ということもあるが、編集時代には常に二百字詰めを使っていたので、なじみがある。書くという行為になじみがあるということで、空白の升目は、どうしても埋めたくなるし、升目が埋まれば、ほっとするし、また、余白に落書きもできる。私にとって、書くという行為は、編集者をやっていたときに、自分のものとなった行為で、決して学生時代の「作文」やら「感想文」と言うものではない。そういうものは、苦手であったし、四百字詰めの原稿用紙を前にすると、宿題を思い出すし、「このB4にひろがる升目を埋めなければならないのかと思ってしまう。どうしても、原点は二百字詰めなのである。作文が苦手な小学生には、二百字詰めの原稿用紙で書かせたらどうだろう。

 

 

その上に書くペンは、ふつうのゲルインキのボールペンで、インクは紺青である。黒よりも紺青。この色が一番書ける。書くという行為は、魔術的なものを含まずにはすまない。ことばを扱う以上は、魔術的なものを含むし、それがことばの本性なのである。道具如何によって、ことばの「出方」がかわってくるのは、当たり前で、道具は触媒なのである。書かれた文字、それを示す色。紙の質や模様。それらを材料にして、自分に暗示をかけるのである。
コンピューターで書くと、書くべきではない言葉を書けてしまう恐ろしさがある。私は、言霊の力があるので、うかつなことを書けないのである。
編集段階でコンピューターを使う。

コンピューターで書くと、文章が変になる。何と言うか、文節の順番や、助詞の使い方がおかしくなる。何だろうか。キーの配列なども関係している気がする。やはり、手で縦に書くと、たとえば、この「と」の最後の位置から次の位置までペンを動かす、その動かし方が美しくなるように、次の文字が定まっているのではないかと言う気がするし、また移動のあいだに考える間が生じているのかもしれない。

ストーリーに圧倒され、脇道に逸れたがる自分を許さず、引っ張られるようにある地点にまで到達するということが感動なのだとして、それは望みの行為なのだろうか。

日本語は、論理性に欠けると言われているが、英語は、自分の感情を表すのに適しているのであって、日本語が非論理的と言うわけではない。明治時代に、欧米の言語に倣って、論理的になろうとした結果がどうなったか。接続詞が「正しく」使われていれば論理的なのか。それで正当性が与えられる物なのか。接続詞を使うことによって、他の読み方を許さない。したがって、相手にものを考えさせないようにしているのではないのか。
多和田葉子さんの本に書いてあったが、「雪国」。川端康成の「雪国」の冒頭を日本人と米人に絵を描かせると、日本人は、汽車の中から見た景色を書くのに対して、米人は、空から見た景色を書くのだそうな。神の視点から見たら、整理整頓したくなるに決まってるじゃん。自分の都合で。
小説を書く場合、ふつう、一人称と三人称がある。外国の三人称と日本語の三人称は同じものとは思えない。外国語の三人称は、高いところから見ているのに対して、日本語の三人称は、同じレベルから見ている。わたしの技能の問題かもしれないが、三人称と一人称にあまり違いが感じられない。小説の中の「おれ」と言うのは、果たして一人称なのか。「おれ」と呼ばれる「彼」を書いているのではないのか。六月二日九時二十八分。

書くことは、天職としてやっているのだから、やりたくないことはやらなくていい。やりたくないことをやった途端に、天職は、地上的なものになってしまう。努力は地上的なものである。

ことばと絵はどちらが先に生まれたのか。まあ、ことばだろう、ことばを永続的に残したくて、絵を描き始め、絵の抽象化をさらに進めて文字が作られたのだろう。

「解釈は、芸術を手におえるもの、気安いものにする。」「神」に名をつける行為。
ある人に、おすすめの外国文学の話をしていたら、「外国文学は名前がカタカナだから覚えられない」と言っていた。そんなものかね、と思っていたら、この間、「青春小説」的なものを読んだが、「希美子」とか「朱里」とか女子の名前が次から次へと出てきて、どれが主人公だっけ。と言う状態に。うくく。
小説は、その人なりの解決方法を示す。エスケープしたり、本気で立ち向かったり。
小説もデザインと同じ部分がある。整列、組み合わせ、反復、constrast。
ふと思った。柿の種というものは、何時ごろ食うものだろう。
本当の人間は、小説に出てくるほど簡単ではない。
秒針の動きを見ていたら恐ろしく早く進んで、見ていられなかった。むかし、小学校の頃、教師が「では、時計を一分間見て見ましょう」と、教室の壁にかかった時計に注目させて、一分後、「ね、長いでしょう」と言い、確かに長いね、と思ったものだが、今、それをやると、とてつもない速さで進んでいることを知り、恐ろしくなるだけである。
たとえば、唐傘お化けの伝承を「蹈鞴製鉄」をもとに生まれたという解釈は、合理的ではあるが、たとえそうだとしても、唐傘お化けを考えた者は、蹈鞴製鉄をヒントに新たなメディアと、そのキャラクターを作った野であって、解釈の方向が逆であろう。

 

ひとつのセンテンスは、ひとつの単語であり、さらに言えば、ひとつの文字なのである。手で書く場合は、それを当たり前のようにしているが、ワープロで入力される場合は、それがバラバラにされてしまう。一つ一つキーを入力して入力し終わった時に初めてセンテンスが現われる。入力し終わるまでは、書くことやまして、考えるということとは別の作業をしている。検索作業である。手書きの場合で言えば、一角一角を別々に書いているようなものである。此れでは思考がバラバラに拡散してしまうだろう。

古い材料で新しいものを作る


ノンプロのための小説の書き方
まず書いてみる。
それができたら、苦労しないわ、と思うかもしれないが、書ける「部分」はあるはず。
まず、やりがちなのが、小説の頭から書こうとしてしまうこと。
もちろん、出だしと、締めと、タイトルを先に決めて書く場合もあります。
でも、書きたいように、書きたいところから書けばいいんですよ。
描いて、また別のシーンをかく。それは、別の章にしてしまえばいい。
いっしょうが、1ページしかないのと、すうぺーじにわたるしょうが、同じ小説の中で同居していても構わないと思います。
連載しているわけじゃないですから。
ラストだけ体言止め・
まず描いて、ひつようがでてきたぶぶんで、資料に当たってみる。

ほんとうを言えば映画では筋は少しも重要なものでない。
人々が見ているものは実は筋でなくしてシーンであり、あるいはむしろシーンからシーンへの推移の呼吸である。
擬音を使わないのは、最初の練習。

完全口語か、様式化された文体。
昔のままのマンネリズムではなく、自分の気持ちではどういう物がいいかと考えればきっと新しい物が出来る。


「場」と言うものを意識する。始まりの場所。終わりの場所。願いが叶う場所。


演劇用語の3幕構成
「物語の中核にあるのは、「個人的な期待」と「現実」の根源的な衝突」ロバート・マッキー

「世界の不変性よりは適応性に、それが何でてきているのかよりも、私たちがそれをどうできるかに目を向けた」ソルニット
これの対立を書くか。
「それぞれが対峙する問題に共通性があるか。」
柳宗悦
自己の自由を主張するのと、自己にこだはらぬのと、どちらが自由なのか。 

「自己投影的なsentimaentalismに屈しないように。そして、人間に生来備わる自然を神話的な顕現として捉える見方に、風景を結びつけることのないように。」リルケ
「真の芸術家は、事物の形象を模倣したりはしない。その本質に解釈を与える。」


ことばと絵はどちらが先に生まれたのか。まあ、ことばだろう、ことばを永続的に残したくて、絵を描き始め、絵の抽象化をさらに進めて文字が作られたのだろう。

言葉以上に、色や仕草や物の動きに度をよく見る。では、鉛色の空が、とだけ書くのではなく、その空が、どのように変化して、どのような風が吹いて、どういう匂いを運んでくるのかを描写する。
人は、相手のイメージを愛する。

作家のコツ。登場人物になろうとしないこと。書く側の人間ということを忘れないこと。
物語の中は奇跡を起こしていいだろ。
人間関係は言葉だけじゃない。会話だけで成り立つものじゃない。


結末を決めて書くのは違う気がする。

観念的な話は、アクションシーンが終わってから。

熱い展開とは、「よし、これで行ける」と言う展開だろう。


三四郎とかも、誰がどう見たって、DTだろうが、そこを翻すような描写を無理に探し出すのも面白いんじゃないのか。

文学も内田百間とかはユーモアや言葉づかいや内容、言葉の間で
妬みが生じない。

書くことは、精霊流しタイトル

詩の作りは、一番はあいまいというか、ちゅうしょうてきなものにして、二番で具体的な言葉を使うと感動する。

日本語のルビは、本音と建て前というか、
社会で通用している言葉を言いつつ、自分の本音や本心をルビで表現できる。
表現で使えば、二律背反的な表現もできるし、意味をより明確にすることもできる。

恋愛小説のコツ
二人の小さな共通空間をどこに設定するのか

自分の思考でさえ、他者の言葉から始まる。「だからこそ、二行目が大事になる」

もとより、詩に因果性など通じないし、枕草子にしても力を込めて示しているだけである。説明しているわけではない。
言葉は、すべて外から来る。


テーマ→仮説検証→結論の流れで書くと分かりやすい。これからは構造を意識して書くといい。
読みやすさを軽視しない。

 

Plot (以後、プロット)
重要なイベントのハイライトを順に並べて章立てして概要を説明したもの

Story(以後、ストーリー)
語ろうとする内容のアイデアとテーマ、そしてイベントの大まかな解釈

 


そのせかいは、誰が支配しているのか。

文章が上手ということは、描写が上手と言うことではない。
「ここの間は、どうしたらいいのか」にかかっている。
間ということは、テンポにもつながってくる。

ストーリーを作らないのは、キャラを作っていないからだろ。
小説は、仮説検証のところもあって、
こういうキャラが、こういう状況に入ったら、どうなるかの考察でもある。
状況は作れているのに、ストーリーにならないのは、キャラが、主人公しかいないからで、
あとのとうじょうじんぶつが、主人公の首長のための道具立て、書割のようになっているから、
そこに世界と世界のぶつかり合いがないから、ストーリーが生まれないんだよ。

ユーモア小説は、ある程度文体が決まって来るから、登場人物が制限される。

一度、バッドエンドを書いてみて、そこからハッピーエンドに持って行く。


余り、完璧な謎解きは、むしろ作者がすごいなあ、と思わせてしまう。
人物じゃなくて。
余りに世界が完璧だったら、ひとじゃなく、神様がすごいなあ、と思うだけ。
やっぱり、嫉妬をするのは、いい作品とは言えないだろう。
もし、そのような感情を引き起こすものだとしても、
いい作品は、その先に気引っ張ってゆくだろうし。
さらに、初心者がやりがちなのが、ストーリー展開が説明になってしまう。
ひとは、他人の論理を受け容れるのがつらい作業なのである。
それが論理立っているほどに。
だから、物語が、作品の謎解きなどの説明になった途端に、つらくなるのである。
それで、歌謡曲と言うのは、あんなに抽象的で、わけがわからない展開でも、
いまだにうけいれられ続けているのである。
説明になってはならない。


日常を描くのは慣れているんだから、物語の半分くらいまでは、主人公たちの日常を書く。
キャラを立てるのを意識して。
途中で、キャラが立て来た時から、ライバルを出す。
始めからplotをかくのではなく、途中で考える。
それを乗り越えることを遣れば物語になるだろう。
ゲームのように、まず、バッドエンドを想定する。
次に、その寸前まで描いて、それを回避することで、ハッピーエンドに持って行くというパターンにする。
これは何もバトル物だけではなく、フルハウスなどの日常系でも同じことである。

近未来の設定で、日常を描く。
それは、今生きている人の妄想。
未来を描きたいというよりも、現在のテクノロジーが50年進んでいたらと言うSFでもある。

fictionのばあい、悪は徹底してあくでなくてはならないと言われる。
非道に理屈や理由をつけるから、面白くない。
非道をおこなっておいて、実はいい人で、罪の償いのために生きているとかだと、
読者はしらける。


私が思うに、映画は以前は、今よりもいくらか現実主義的なやり方でつくられていました。人物たちはコーヒーを飲んだりしながら、平気で、いきなり《神は存在する》などといったことを口ばしったものです。―ゴダール


翻案はテーマを決め、それに必要のない描写、人物は薄めるか省く。
一人称で他人の事を書く文体、自分の事を書く文体は違う。
昔話の場所や道具、人を現代のものに置き換えては。


絵巻物に於いては構図そのものが時間的に展開していくやうに作られている。物静かな構図に始まって、それが徐々に複雑の度を加えつつ、ついに無数の物象の組み合わせによる極度に複雑な構図となり、やがてまた徐々に単純に帰りつつ極めて簡素な構図をもって局を結ぶ。

キャラの行動は大げさに。

青春もの。自分が15歳に戻ったとして、想像してみる。

役割がはっきりしていない。

愛で生きてきた人間は、最終的に強くなるなあ。
ただ、愛と言う言葉を使わずに、愛を示し、
愛で生きた来た人間が強くなる過程を示すのが小説だからね。


ゲーム理論とか、認知科学とか、またテクノロジーなどは、実務で使われるものだが、それをfictionの物語に持ってくれば、ストーリーになるだろう。
経済学とか、管理や運用コストの問題をクローンに持ってくるとか。

命は、数値の問題ではなく、数の問題。
一人に一つ。

基本は、コントラスト、反復。

起承転結ではなく、序破急
転の後にまとまりが来るのではなく、
破れた後に、続けて、急が来る展開。


『文字は、必ず伝えなければならぬその社会の重要事を伝えるために生まれたのではなく、
とるにたらぬが、記録しておくべきことを残すために生まれた。
記憶ではなく、記録のための物だった。神話や技術や法ではなく。
記憶は、交渉伝承で十分賄えたのである。』

浪漫的なもの対する憧憬
ユーモア
女性的な文体

恋愛小説のコツ
二人の小さな共通空間をどこに設定するのか

ストーリーからプロット(説明)へ練り上げ、さらに時間の構成を考える。

会話の同語反復こそが日常性。


こういう構造の中にこういう構造(性格)を持った人間が入れば、こうなる。
源氏物語だって、お仕事小説に翻案することもできるだろう。
プライベートの秩序と、パブリックの秩序をどう整合させるかがお仕事小説の要だと思うけど、
自分が書く主人公は、プライベートがないから、小説として、読みごたえがないんだろう。

「小説の冒頭に日記の覚書をもってくること」カミュ


ユーモアというものは、テキストの衝突、思いもよらぬ空白に生ずる。違う文脈でしか使わないはずの言葉がいきなり出てくる。
ギャグは時間、ユーモアは人格とか人生。登場しただけでなんとなく笑える。
運命とは違った流れを切り取るのが喜劇。

ネタ話ではなく、感動話に転化する能力。

物語は、パターンがあって、要は、パターンのアレンジ。
現代の状況をパターンにはめ込むか。

「簡単なやり方を選んででとりあえずすぐやる 」
だんだん書いているうちにしんどくなってくる。
そこで、アイデアをどんどん削ってゆく。
性格に合った書き方。
努力タイプの人は、構成を立ててからの方がいいかもしれない。

喜劇は、ドーパミンが出ている人間を離れて見れば、喜劇になる。
ベルクソンの「笑」と言う論文の「こわばり」