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noise&randomness

セルフカウンセリング

眠れる森の美女は、鬱の寓意ではないか。

 

もう二年も鬱状態が続いている。

 

蒲団かぶって寝ていたい。
時間が過ぎて行くだけで辛い。
これが鬱状態

 

自分は懸命にやっていた。他人と比べて、それほど欲深いとも思われない。
それなのに、しばしば『自業自得』と思われるのが遺憾だった。

 

皆が欲しがるものを欲しがって、手に入らなければ、アイデンティティが揺らぐわけだから、自信はなくなるだろう。

 

一般的なものを一般的な方法で手に入れようとして、手に入らなければ、手に入らなかった事と同時に、自分のアイデンティティも崩れるわけだから、鬱になりやすい。

 

後悔しているのはこの世のものを手にいいれられなかったから。
なにかしら背負えば、からくり人形化するし、権力を手に入れれば、守るために汚れたこともしなくてはならなくなる。

 

恵まれてたとか、自分に向いていた場だったのに、という後悔は、当てはまらない。
鬱病になって、その後何か月も引きこもって、ネット依存になって、そんなものが恵まれているわけがない。

 

自分を苦しめたり、傷つけたりしてまで、人のために動くことは、我慢につながり、我慢をすると、増長して他人に自分の苦しみやいい人振りを分からせようとする。
その自我を抑制できるほどの人格者ではないという自覚を。

 

マイナーやポピュラーでない物を見ているほうが疲れない。

 

鬱になったということは、脳のネットワークが変わってしまったのであるから
言葉で励ましても無理だろう。

 

自分が何かを成し遂げたい、他人より手に入れたい、とか考えていと、鬱になる。

一つの物をじっと見つめ続けてはならない。

 

お金を握りしめて欲しいものを手にして、そのお金以上のものを得て帰ってきたことが、どれほどあるのだろうか。

 

妄想を途中で制せない。

 

終わったことに気付けるのがまた大人というもの。

 

旅行はあれこれ観光するよりも、高級な旅館やホテルに引きこもっていた方が非日常感を得られる。

 

仕事を懸命にする以外に世界を変える方法などない気がする。

 

 

たまに、サラリーマンになって、その組織にあるプロジェクトを懸命にこなす方が楽だし、かっこうよく見えることがある。

 

『普通が一番』と、子供のころに大人が言うのをよく聞いていたが、普通がむしろかっこいい時代になりつつあるのかもしれない。

街並み、ファッション、服装、働き方、プライベートの過ごし方、身嗜み、それぞれそが技術のおかげもあってきれいで洗練されているのもあるかもしれない。

 

反撥は時に力になるが、心から好きなものでなければ長続きしない。

 

サラリーマンにうまくなれなかったからと言って、その反動で芸術方面に行ったけど、

所詮は反撥でしかなかったから、長続きしないし、どこかで面倒くさくなっていたんだろう。

 

一人の人の期待に応えるのか、それとも世間の期待に応えるのか。

ロマンか、実利か。

ロマンを学んだのは、誰からか、どこからか。

かえって、純情で真面目な人がロマンを取る。

 

自分が本当に何を求めていたのか、何が必要だったのか。

 

おもちゃをほしがる小児と、ネットや街中で欲望のかけらを拾い集める大人と。

あの頃と何も変わっていない。

 

やらないと気が済まない。

 

さんざんおもちゃを買ってもらってもらった小児に何が残ったのか。

 

自制できない人間ができただけ。

 

純情過ぎて、愛してやまない日々にしがみついて、未来を壊してしまう

 

ただ、仕事をしたい。

 

自分の欲望のすべてが意味がない。

 

解消に過ぎない行為に、出口などあろうはずがない。

 

いろいろなものに目移りする自分。

進路でも、娯楽でも、恋愛でも、仕事でも。

何一つ身にならないことに幾度目移りしてきたことか。

 

それが終わるまで、浪費し続けることを幾度つづけたのか。

 

自由な時間を目移りしているだけで過ごす。

まったく自由になっていない。

 

自分に対する興味がなくなった。

つまり世界に対する興味がなくなった。

 

欲張ってよかった試しはない。

 

人並みのものを得てから『生活』を始めようとする『人並みコレクション』を止める。

 

面白いアイデアで勝負するのは、楽しそうだと思っていたが、ギャグ漫画家と同じで、どんどん変な方に頭が行って、気が狂ってしまうんじゃないか。

 

身の丈に合わないこと、自分のことを鑑みない行動。

 

出口のないことをいくらしても仕方がない。

 

人はタブーを超えたがる。

超えられない場合は、寸前まで行きたがる。

実利など鑑みない。

欲望が出口を求めて迷宮をさまよう。

 

自己顕示欲というのも、欲望が出口を求めて迷宮を彷徨っている姿と言えまいか。

 

お金を娯楽や快楽に使うのは、何かを得るためではなく、意味のないことを知るためにあるんじゃないのかと思える時がある。

諦めるために使うという。

 

楽しい、嬉しい、だけでは、ふと立ち止まった時に、もしくは自分を顧みたときに何にもなっていない。

 

自分が向上することが楽しい。

状況に浸ることではなく。

知識の増加と体系化、まともな人間関係の広がり、もしくは運動能力の向上。

 

『○○になったら』、『○○が手に入ったら』と、努力も何もせず、ただ漫然と過ごす。

顧みれば、ろくに勉強もしないまま浪人に突入した高校生の頃と何ら変わりはない。

 

そもそも『仕事を始めたら』ということさえ、妄想となり、もうそれを半年以上している。

その間、何していたのかといえば、ネットを見続けて脳を疲れさせただけ。

 

それも『仕事を始めたら』という妄想で暇潰しをしていたにすぎない。

今していることが生活だということに気づかない、というより、忘れてしまったんだ。

 

『あの世』ということでさえ、何もしないことの方便にしている。

 

でも、本当に何もできない時期もある。

 

妄想。

人生の。

ゲームやアニメ、人間関係、進学、仕事、恋愛、それらを思ううちに、ことごとくが現実を見ない妄想にまで考えが引っ張られてしまうという癖があった。

 

ネットやメディアで仕入れた情報を羨ましがり、自分もやりたがって、その情報から妄想にまで発展させて、それを自制できずに、行動まで進んでしまう。

 

それで得られるものはなんなのか。

それに対して、失ったものはどれだけあるのか。

しかも、そこで与えられるのは、おこぼれでしかないという。

しかも、お金と引き換えに。

しかも、そうして手に入れたものは、欲しいものではなく、あくまでも代替にすぎないという。

 

既にこの世の陳列棚にあるものをいかほど掻き集めようとも世界は変わらない。

陳列棚を探っているときの自分の姿を見るがいい。

 

この世のものを捨てる権利はあるかもしれないが、自分の頭を悪くする権利がどこにある。

 

無い筈の快楽や幸せや優越感を金と引き換えに得ているのだから、その瞬間が終わればそこでむなしく消えるだけ。

 

いわゆる爬虫類脳に突き動かされた行為を繰り返して満足を得ようとすれば、それが動物的な手法に支配されている姿であるために、いかほど繰り返そうとも、否、繰り返すほどに、その姿が四足に近くなってゆく。

 

自分の欲望を叶えるのにもやはり才能がいるようで、欲しがっていたものを手にしたところで、やがて手放して、他人の利益になっただけということが少なくない。

 

何かを得ようとして、また、人のためを思ってしたことが、結局、他人の養分になっただけ。

その場が終われば、何も得られぬどころか、くたくたになってマイナスで出されるだけ。

その繰り返しの原因はなんなのだろうか。

 

得ようとすると損をするという。

 

建てるだけが精一杯の家。
入るだけが精一杯の学校。

 

欲望の欠片を拾い集めたところで、すればするほど価値が薄れて行き、しまいに数勘定になる。

 

過ぎ去ったものは、もう何もいらんよ。

 

後悔、あれをしたかった。
自分は機会があったのに、なぜしなかったんだ、という後悔。それすらも、すでにやることが無くなった状況をごまかす為の欺瞞行為ではないのか。
なにかにつけての後悔は、やることがないこと、その虚無からの逃避なのではないのか。

ちょっと進んだ自分と言う例のあれ。

 

時間も次の日も世俗も忘れた読書と言うものをしなくなる。

 

受からなければほっとするような物はしない方が良い。

鬱の原因は後悔にあって、その後悔の原因は、自分にふさわしくない、単に羨ましがった挙句のコピペされた欲望ではないのか。

 

インターネットやメディアに転がる欲望の欠片を拾い集める程、一つ一つの価値は思い出としても実利としても薄れ、後悔も深まってゆく。

 

欲望を見続ければ世界を狭めてしまうが、それが欲望であることを自覚していない場合が少なくない。

 

さて、やることがない。

さて、心療内科に行くか。

予約がいっぱいで取れない。

 

後悔は、今現在、『人並みの欲望』を抱えているからであるが、『人並みの欲望』は、自分じゃなくなれば簡単に手に入りそうに思えてくる。

たとえば、過去に戻って、自我を抑えて、サラリーマンをしていれば、今よりはましな暮らしをしていたはずということだろう。

『人並み』以下の自分に恐れをなしている状態といえる。

 

それで、自分ならではのことを全くせずに、ネットやゲームばかりしてしまう。

 

自分を捨てようとし続ければ、何もできなくなるわな。

昔、ひょうきん族のエンディングを見ながら、寂しさを感じていたのは、面白い番組が終わったと言うよりも、土曜の夜だと言うのに、一人でテレビを見ているだけ、土曜日も日曜日も誰とも遊びに行くこともなく、また習い事もなく、ただ、漫然と過ぎてゆくことに対する無意識的な寂しさだったのだろう。

ひょうきん族もドリフも今見れば悲しい笑い。
あれを見て笑っている場合ではなかった。

 

何もいらないと十年前に思って、この二年間、欲しがってばかりだったな。

 

個人の月並みな欲望を持つ限り、自分もまた好きじゃない世界を作り上げている一端を担っているんじゃないのか。

 

個性的になろうとして、月並みな欲望を抱くというありがちなパターン。

 

・欲望に従ってやりたいことをやらない。

・欲しくて仕方のないものを手にしない。

・書きたいことを書かない。

すると、不思議なことに、

・やりたくないことをやる必要もなくなる。

・欲しくもないものを手にすることなくなる。

・書きたくないことを書くわけでもない。

と、なる気がしてならない。

 

陳列棚に並ぶ欲望のかけらを拾うがごとき欲の解消に走る姿、それは文字通り、解消した途端に何も残らない。

 

ロマンを求めなくなったら、精神の老化だと思う。

しかし、ロマンはロマンで日常に求められるから、別に日常や普通を逸脱する必要はないことを文学は示している。

 

晴朗さというものは、なにもなさとどこか通ずるものがある。

 

快楽を得ようとして、行為をすればするほど、映像を見れば見るほど憂鬱になっていっているということはないか。

 

本来、良い筈もないものに対して、ストッパーをかけられない無力な自分と、さらにそこに加担して、欲望にまで負けてしまう自分という矛盾に耐え切れずに鬱になるのではないか。

 

『欲しいけど、欲しくない』というロマンもある。

 

念という物があるのだろうよ。

 

くれないものを、何でいつまでも欲しがるかな。

 

対象から退いて見れば、自分にふさわしくもないし、価値などないものを。

 

欲望は人間が生物である以上はある。

一日起きていれば眠くなるし、何時間も食べなければ腹は減る。

扇情的なものを見れば、むらむらする。

だからと言って、欲望に突き動かされていては、出口はない。

 

『やったもの勝ち』という小児病的な頭に屈しやすくなるのは、昏く出口のない世界に留まり続けているためではないのか。

 

後悔は、弱気からくるものであり、後悔をしたままでは何も進まない。

 

もし願いがことごとく叶ったとしたら、やがて後悔とともに、元に戻りたいという願いを連発しそうではある。

童話の人物を笑えない。

 

願いが叶わないことを嘆くには及ばない。

人の願いなど、その時々の欲望に過ぎず、自分にふさわしいかどうか等、鑑みていない。

 

実力を示すこと、それもまた情況を鑑みなければ躓き石となりうる。

 

情報を得るほどしなくてはいけない気分になり、情報が多いほど自分が分からなくなる。

分からなくなった自分を他人の賞賛で固めようとする。

 

一を聞いて十を知る。

そういう人は、一度の経験ですべきか否かがわかるのであろう。

しかし、十を聞かなくては十を知れない人も少なくなく、十の経験でようやくわかる場合もある。

 

決まりの着いたことを振り返ったって仕方がない。

 

能力があったらその能力の範囲内で好きにしたらいいよ。

 

活躍して、欲しいものを手に入れる人生を妄想する。

しだいにその妄想が前提となり、それが当たり前となり、その妄想した人生でなければ認められず、そのほかの人生は拒否したくなっていることに引きこもっていると気づかなくなっている。

気に入らない食べ物を口にしようとしない小児のごとく。

 

小説の新人賞を得たら、もう小説以外では食いたくなくなって、生活の糧を得るために働こうとしなくなる。

 

受験では、早慶クラスでなければかっこうがつかないと、それが自分の中で『当たり前』になってしまい、ずるずると浪人する。

現実を見れば、すでに現実からかけ離れた妄想になっているのに、その妄想が叶わなければ動かない、ということになる。

 

努力もせずにプロ野球選手になりたいといっている小児と何も変わらない。

 

いつになるかわからないものをいつまで待っているの。

 

『あれさえ手に入れば、あとは何もいらない』という青年が抱きやすい情熱的な態度をとる場合、唯一後悔しない行動は『食ってゆくこと』くらいではないのか。

 

妄想に飲まれてしまうと、その妄想が叶ってからスタートするという考えに陥ってしまう。

つまり、それまで何もかも放棄する構えでいるという態度なのである。

 

必要なものは生活であるのに、生活を二の次にしてはならない。

 

自分を富豪と勘違いしてはならない。

 

はじめは単なる願いであったものが、いつの間にか妄想になり、知らぬ間にその妄想が自分の中で『当たり前』と考え出すと、その妄想が叶うまで何もしなくなるというパターン。

 

妄想が叶うことを前提に、またスタート地点にしてしまう時点で、生活を二の次にするような思考になっている。

妄想が叶わなければ、ふて腐れたまま何もいらないというような状態にまでなる。

 

自分の望みを書き出してみる。

努力の伴わぬ運任せの抽象的なものばかりだとしたら、生活を二の次にするような小児的思考になっている表れである。

 

手に入りそうにない、入る予定もない、もしくはそのための計画的な努力もしていない。

そもそも自分に向いていない。

これらはすべて妄想である。すがるべき予定ではない。

 

鬱を直そう

楽にしていよう。

それで何もしないでいたら、その間に生まれた妄想が叶うかのような錯覚に陥る。

 

楽にしようと思って、やりたいことをしていたら、それが基本線になってしまう。

 

妄想ではなく、常にエディティングを心掛ける。

 

妄想はどこまでも現在から切り離されたところで漂う。

エディティングは現実のものと何かをつなげる行い。

 

同じパターン、同じやり方を止めるということが自分を変えるということではないのか。

同じパターンで情況をよくしようとするのではなく。

 

『なになにできたら』、『なになにが手に入ったら』をスタート地点にして、結局何もせずに、今の生活を疎かにするのが妄想ということだ。

 

自分で顔つきを見ればわかるだろう。

意味のあることなのか否かが。

 

やっても意味なかったというよりも、やるべきではなかった。

 

自分が倫理など考えるような境涯ではない。

ただ他にすべきことがあるということ。

 

お金があれば、いつまでも『主役』でいられるから、老若男女、いくらでもお金を欲しがるのもわかる気がする。

 

皆が皆、何より消費者であるから、消費することで、経験し、知識を得、自信をつけようとする。

 

情報が多ければ、やりたいことが増える。

 

今や、情報とは、ばら撒かれた欲望に他ならない。

いつでもどこでも欲望の欠片をチラチラ見せられていたら堪らんよ。

さまざまな広告宣伝活動によって。

いちいち自制しないといけないから、それ自体ですでに疲れてしまっているという。

 

たいてい、本当に求めるものは陳列棚には並んでいない。

だけれど、ありそうに思える、または思い込まされるから、さまよう。

迷う。

 

置いてある。

自分も手にできそうだ。

 

できるできないではなく、正しいか正しくないかで動ける人は強いし頭もいいんだろうな。

 

できることから始めるのではなく、正しいことから始めるのです。

- ピーター・ドラッカー -

 

ナポレオンでもアレキサンダーでも、勝って満足したものは一人もいない。

- 夏目漱石 -

 

人は勝利で満足することは決してない。

勝利した人間は勝ち続けることでしか満足を得られない。

一度望みを叶えてしてしまった者は、次から次へと手にしなくてはならないような衝動に突き動かされ続ける。

 

満足。

そもそも満足を求めることが自分のためになっているのだろうか。

『満足した』という言葉のうちにはどことなく『それほど良いものではなかった』という心情がありはしまいか。

 

本当にもうやれることがない。

少なくとも自分一人では。

 

語るべきことは何もない。

それでいい。

 

食いたいもの。

天重→蕎麦屋の車海老

もりそば→小諸そばで十分

寿司→海鮮三崎港で十分

焼肉→チェーンではない店の上ロースと、上タンと、大盛りごはんで十分

 

画面上でネットを見続けていると、どうもそこにある情報が重要なものと思いこんでくる。

うきうきして、自分に何かすばらしいものを与えてくれるかのように感じてくる。

立ち上がって、青空でも見ればそんなことはないものを。

それは、現実で欲しいと思った対象に熱を上げて、思慮が他に及ばなくなるかの如く。

 

過去のことを振り返ってばかりいる。

 

つまり、恐怖を感じているんじゃないのか。

自分が得られない恐怖であったり、得られてもどうせ最後には躓くんじゃないかという恐怖であったり。

得られて嬉しいと思うよりも、むしろ安堵しているだけなのではないのか。

 

もう得られないという恐怖。

それを抑えてくれるのが経済力というわけか。

 

過去のことを思うな。

 

自分の境涯から目をそむけて、たとえばファッション雑誌を見て、自分も欲しがっていたって、思い通りになるはずがない。
ファッション雑誌や成功体験など、理論上の実験のような物だろう。

 

自分をかわいそうだとおもったら、才能を拗らせてしまう。

 

ノリでやる。
人生の穴埋めをしようと、無理をする。
悪口を言う。
状況を立て直せない。
わかってほしいと、すねる。
欲しい物を無理に欲しがる。
思考の向きをかえず、ぐずぐずと日々を過ごす。

 

後になるほど、慎重になる。それまでの失敗、無駄にした期間を取り戻そうとするから。

 

承認欲求も、営業スマイルもない所。承認欲求も、営業スマイルもない所。数字を追ったり、プレッシャーのない所。

 一人の人間、それがいかに自分が愛したり、信頼したりしていた人だとしていても、たった一人の批判で自分を否定してはならない。

 

手に入れられる人もいれば入れられない人もいる。
一番になりたいというのは、同時にそう言う世界に身を投じる事てはないのか。

 

『なんか、面白い事をやろう』は、人を疲れさせる。

 

結局、道化でしかない。

現実が気に入らないのなら、現実を変える努力をしないと。

なに、現状で楽しもうとしているんだ。

 

現状が気に入らないのに、現状で楽しもうという矛盾した精神。

メディアやネットの娯楽情報を無視して、努力するしかないものを。

 

鬱病の何が厭かというと、過去のことばかり思い出す。

考えることは過去に戻れたらという妄想になる。

思い出は一瞬で長くとどまることはなかったのに。

 

まっすぐ明日に向かいたいのに。

勇気がなくなる。

 

不器用すぎて、何回も同じような失敗を繰り返した後にようやく何かに気づく。

 

うまくいかない喜びを感じるようなロックさがなくなる。

 

鬱の直し方。

なんとかがんばって、まともな人を見て、まともな人と話し、仕事をする。

 

鬱のときの文章がまずいのは、言葉を表現の道具に貶めているからだと思う。

自然と湧き上がってくる言葉。言葉と言葉を紡いでゆくという行為。この言葉の次にはこの言葉しかないというぴたりとした感覚。

それらを鑑みずに自分が言いたいことを無理やり言葉に言わせているようなグロテスクな行為になってしまう。

言葉を失っているのかもしれない。

 

今現在、ものを覚えられないのに、過去のことは次々と鮮明に思い出す。

それが鬱。

 

凝視をしない。

 

今まで大事と思われていたことは全然大事ではないし、役にも立たなかった。

 

消費者としての、つまりお金を握りしめての娯楽は刺激でしかない。

『自分もやりたい』という思い付きを片付ける行為であり、寂しさが満たされることはない。

その刺激を与え続け、さらにエスカレートし続けられる能力、経済力や体力があればやればいい。

 

どういう状況が自分にとって楽しいものなのか。

 

もう、自分一人で楽しむことができない。

 

逆に言えば、もうお金がないと楽しいことができなくなっているんだよ。

それが鬱。

 

今までの失敗って、すべて欲を掻いたからじゃないの。

コピペされた欲望、義務化された欲望で。

目の前にあるから手を出す。

皆手にしているから手を出す。

それじゃあ、個性は失われてゆくに決まっている。

 

個性的になりたがっているくせに、目の前にあるから、または、皆が手にしているから手を出す、ということでは個性はむしろ薄まりはしないか。

 

今までの自分の躓きは、それまで投資したもの、つまりリソースを注ぎ込んできたものを手放すというか、やめてしまうことにあったんじゃないの。

いろいろと厭になったりして。

 

自分から辞めるのと、辞めさせられるのとでは全く違うだろう。

 

小児のころ、おもちゃ屋に行っては欲しいおもちゃを買ってもらっていた。

ただをこねてまで。

今、ネットで、百貨店で『いいな』と思ったら、手を伸ばさずにはいられない。

それって、恐ろしいことだぜ。

 

何も変わっていない。

数十年間何してたの。

精神が十歳と変わっていない。

本質的には。

 

おもちゃを買ってもらうだけ買ってもらって、別に宝物として扱わなかった。

欲しいおもちゃを買ってもらったら、小児は、喜びに溢れた表情をするものだが、買ってもらって、それが当たり前と感じて、雑に遊んで飽きたらそのまま。

で、捨てる、という。

何なんだろうな。

頭が貴族なんだろうな。

 

調子に乗る。

ひばりが丘の西友で買った三千円の靴と五百円ジャケット、東久留米のイトーヨーカドーで買った五百円スラックスで面接に行った。

歓迎されて、数年後、調子に乗って三越や丸井でブランド品の服を買う。しまいに三万五千円もする財布を買う。

 

過去の穴埋めをしているだけ。

その方法で治るわけがない。

 

 

情況が自分を守り、また後押しし、まともな人ばかりだったら、後悔も仕方のないものかもしれないけれど、そうでなかったのなら、得られなかったことや失ったことを自分のせいにして後悔することはない。

それは自分を過大評価しすぎだし、考え方まで歪められてしまっている。

 

あの日、あの場で片付いたこと。

 

あの日、終わったことを忘れたことが、躓きの原因。

 

後悔は戻りたがる姿。

本当に戻りたいのか。

 

あの日、あの場でしまったものを今更ひっくり返すのか。

 

鬱は認知の歪みというが、過去のもう片付いた思いで、きれいなまましまっていた過去さえもひっくり返そうとする。

 

そして、現在の快楽で塗りつぶそうとする。

 

品がないというのは、繊細さに欠けるということだ。

 

劣等感が肥大化すると、過去を現在の快楽で塗りつぶそうとする。

 

あの日、あのけしきのなかで何にサヨナラしたのか。

 

もういいよ。

もういいということに対して、何の問題もないよ。

 

過去はそっと閉じて、しまっておこう。

 

心の底からのよろこびを知らなければ、感触的なものスペック的なものにこだわるしかないのだろう。

 

結局、やれる範囲でやりたいことをやっただけの人生だった。

やったことさえ、あまりに虚しいし。

 

欲しいものに片っ端から手を出して。

 

後悔自体が矛盾であり、冷静に考えれば、情況や境涯を鑑みずに矛盾したことを考えている。

同時に今すべき努力をしたがらない姿ともいえる。

 

下手なプライドがすべきことや好機を隠してしまう。

 

後悔は、勉強しなかった。これに尽きる。

とどのつまりはすべき仕事やすべき勉強をしなかった。

 

本をいくら読んでもそれで食って行ける人はほとんどいない。

食ってゆくための勉強をし続けなくてはならなかった。

 

広報の基本は、倫理と、後は自分のために動かないということ。

自分の広報をしているのではなく、他人の広報をしているということ。

 

自分の為ではなく、他人の為に動くから食っていける。

 

とにかく自分を衰えさせるようなまねはよそう。

 

境涯が悲しくて、お笑いや漫画やゲームに慰めを見い出して、中学くらいから何の生産性もないもので慰めだして、結局そのまま何十年も来ただけか。

 

『皆、しているから自分もやりたい』で、満足にやれたことあるの?

マーケティングやメディア戦略を信じてしまって。

 

この二年間、慰めのことしかしていないし。

 

欲張って、今の自分を支えているものは何かを忘れないこと。

何か、欲望を満たしてくれそうなものが現れたら、それを手にすることで、今の生活の基盤となっているものが全くダメージを受けないだろうか、それを考える。

影響がありそうなら、途中からでも全力で引き返す。

 

一度、『おいしい』思いをすると、それを忘れられずに、一段も二段も贅沢な基準でしか行動しようとしなくなる。

その『おいしい』思いは結局、重荷となって、自分をどこにもやらない。

 

終わったことは分かっているのに、どこかでいつまでも待っている。

あの場を最後に出た後でも、またいつしか同じ門をくぐるものだと思っていた。

また、同じように、あの場で気の合う人たちと一緒にやれる日が来ると思っていた。

夢にまで見たのに。

何年たっても何もないことが、もう済んでしまったことを言い聞かせているのに、忘れられなかった。

 

どうせ、技術や知識以外は重荷になる。

 

仕事に集中するメリットは、社会の理不尽を見なくて済むことにある。

それに比べたら仕事上の理不尽など取るに足らない。

 

手にいられなかったものも、重荷になっていたかもしれない。

 

現実逃避ばかり。

 

終わったことがわからない。

卒業してもまだ通い続ける。

 

もう自分のことは済んだのだから、途切れなく仕事をし続けるしかない。

 

自分のことはもう済んだから、仕事をするだけ。

 

あとは仕事をするだけ。

 

救いたいと王子様気取りでいながら、その実、自分が救われたいだけ。

 

目標もない。ただ、時間だけが過ぎていく。

 

おれもやりたい?

やりたいことなんてないだろ。

 

だつて、何もないじゃん。

行きたいけど、行かない。

やりたいけど、やらない。

ほしいけど、いらない。

 

本当にそれをしたいのか。

本当にそれが欲しいのか。

そもそもやりたいこと、欲しいものがあるのか。

 

良かったときのことが忘れられない。

今でも、というか、辞めたときから、戻ることを考え続けていた。

いずれ戻るから、仕事をなかなか決めない。

戻ってきてくれと言われたら、すぐに戻りたいから、仕事を決めない。

新しい職場でも、どこか以前の良かった場のことが頭にあるから、そこの仕事を普通にすることではなく、いかに前の仕事場と似たような状況にすることを考え続けてしまう。

それが軋轢の原因となる。

それで結局辞めてしまい、その後も、それでもまだ良かった場に戻るようなことを考えている。

夢にまで見てしまう。

 

上書きできないと、その前に戻りたがるどころか、次々と過去に戻りたくなる。

 

前の恋人が忘れられなかったり、前の仕事場が忘れられなかったりする場合、知らず新たな恋人を前の恋人に似せようとし、新たな仕事場でいかに前の仕事場と似たような状況にしようとしてしまう。

 

過去を振り切るということの大変さ。

 

『娯楽、慰安、趣味、この三つと縁をきらにゃ人間は自由になれませんよ』
『悪の原理は何かと言うと、結果がわからなけりゃやらないんです。見込みを立ててやること、これが悪の原理です。時間的エンジョイですよ』稲垣足穂

悪魔ほど光明をこわがる

住まいの設計を読んでいたのも、かっこいいもの、強いものがすきなのも、全部「期待」のためにドーパミンが出ていただけか。
手に入れたら幸せになると思い込まされている。

 

善と悪も考え直し。
自分をそろそろ自由にしてやれ。

「できたことには興味がない。できないことに興味がある。」川上さん

自分のなかで決着していないものにけりをつける
「まだ決着していないものを物語りに入れ込む」川上さん

自分の造反さえ持ちこたえられぬ意気地なしの造反者

一日一日が何もなく過ぎていくのが、とっても寂しいんです。心のなかで何かを待っている。

中学から高校は混乱しっぱなしで、袋小路に入り込んだだけ。混乱に気づかず、小学校からのレールというか、同じ気分で進もうとして、そして、それをごまかすために娯楽に走った。いまは、今が違うということに気づいている。

「いまは、新たな知識や情報を頭に入れたくない」というときがある。
そういう時は、この状態のまま思考を進めたいという感じ。

おいおいそうなってきた。それを窺うたらいけません。

要するに、男性的なものが苦手だったコンプレックスからかっこいいものにあこがれ、立派になろうとしていた。
子供のころの自分を信じてみる。

私は感情的。感情が顔に出る。態度には出ない。 
もう一つ。情にほだされるときがある。親切にしてくれた人が居たら、その場に留まろうとする情がある。しかし、それは振り切らねばならない。

社会の枠に入れ込んで世を過ごす。

『男はそれだけ自然が似合わないんだよ。自然な男なんてかっこ悪いの』

人の期待に応えようとするのをやめろ。高校もそうだろ。

鬱になると、ことばを失う。
つまり翼を失う。
「自分に仕事ができると勘違いしてはならない。」

『楽しみなんていやなことをやったらいかんですよ。楽しむなんていうのは、自分自身の満足を目的とするからまさに、悪魔の仕業です。喜んだらええ、喜びは、他から与えられるもの。楽しみは内容がない。道徳的根拠がない』稲垣足穂

合っているか、間違っているか、あっていることばかり探しているからこうなった。

本当のことを言ってはいけない
本音を吐いてはいけない
思いを素直に伝えてはいけない

文学作品は教科書ではないのに、都合のよい教科書にしてしまう。

試練 苦しみやつらいことがあるたびに弱くなっていく。

あそこに住みたい ここに住みたい というのではなく、すでにそういう選択イベントがないんだろ。

『つまづいたとき自分に「何」を言っていますか?』p.218

とにかく、自分を表現する言葉を選び抜く。ネガティブな言葉は一切使わない。ポジティブな言葉に代える練習をつむ。

自分に厳しくしても意志力は強くならない。

 

みずから過去に取って代わる。

 

ネットに氾濫する情報を見れば、『自分もやりたい』、『自分も欲しい』と思わずにはいられなくなるが、たいていのものは難しく、その不可能さにむしろ哀しみが深まるのではないのか。

 

そしてその哀しみを慰めるためにまた、ネットで情報を探し続けるという。

 

出し惜しみをしない。

得ようとしない。

 

世界が自分に何をしたのか、それを考えたら、もう物欲しがる顔はしないだろう。

 

あまり物欲しがっていると、顔に出る。

 

いろんな言霊的な呪い的なものがあるけれど、それをふりきるには、出し惜しみをしない。得ようとしない。

 

慰めのものはいらない。

妄想をするな。

迷ったらしなくていい。

仕事は続ける。

プライベートを充実させようとしなくていい。

 

コンプレックスをどう乗り越えるのか。

活躍している人の記事を見て俯く自分をどう顔を上げさせるのか。

 

シンプルなデザインが好きな人は、飾りつけよりも、なにか、物の動きとか、仕組みに興味があるんじゃないの。

 

後は仕事して、そこでの需要に応じるだけ。

 

あまり自分の職業を決め込まなくていいよ。

 

過去は文字通り過ぎ去り、終わったこと。

 

欲を刺激される情報を見続けていたら、まともな思考する頭ではなくなるのは『意志の力』に限りがあるからということだろうか。

SNSやメディアに氾濫する情報を見ては、自分もやらなければ、手にしなければ気が済まなくなる所を自制する。

その都度、傲慢や嫉妬や貪欲を抑え込まなくてはならなくなる。

それで、へとへとになっているのではないのか。

見なければ済む話。

 

『どうしようか』、『いかんせん』が長く続くと脳がくたくたになる。

 

後悔なんてしていたら、小児にも勝てない。

 

若者を羨むのは、後悔ばかりしているから。

 

晴朗になることは、小児にはできない。

 

後悔。

本来であれば、手に入っていたはずのもの、今、手にしているはずのものがない。

それがあれば、いろいろなことができたのに。

他人を羨むのは、後悔ばかりしているから。

小児のころからの情況が順調であれば、手に入るはずだったものや収入は、しかし、それをすでに世界に差し出し、解き放っているってことだよ。

晴れがましいわ。

晴朗さは後悔を乗り越えた人間にしか纏えない。

 

小児(こども)の精神では手にできぬ世界に立とうとするのではなく、小児でも欲しがりそうなものを欲しがる大人たち。

 

ダンディズムは痩せ我慢ではないのか。

ノーマルな欲望だけではなく、後悔や哀しみさえ痩せ我慢して、顔を上げて背筋を伸ばして立ち上がっている姿。

俯くのではなく、むしろ空を見上げている痩せ我慢。

今の時代はもう流行らなくなっている痩せ我慢。

 

なりたいんじゃなくてそう吹き込まれただけ

 

もうこの世のものを欲しがらなくて済む解放感に包まれる。

 

でももう、そんなスタイルでは今立つのがやっとで、長く続けられるわけがない。

 

努力して先回りしてようやくまともに仕事ができる程度の人間という自覚。

 

 

鬱のころを振り返れば、自分の言葉を失っていたと思う。

鬱からの回復は自分の言葉を取り戻すことで示される。

完全に回復するということがないのであれば、自分の言葉で制し、抑えなくてはならない。

 

考えても未来がわかるわけがないから。

 

見つめるといけないのは、現実の物でも人でも、また未来も過去も同じ。

 

二十代になっても三十代になっても高校生同士の恋愛のようなことしか考えていなかった。

先のことを考えているようで考えていない。

相手を慰めに使っているだけ。

 

情況を知らず、あたかも富豪の如き振舞いをし、身の丈に合わないことで気を紛らわせる。

十分なお金を得ることで満足し、あたかも不老不死であるかのごとく、時間を軽んじ、漫然と日々を過ごす。

それは、この世界にいるという事実から目を背け、過去からも未来からも遠ざかろうとし、まだそれでもこの世界に私はいるということを拒み続ける姿。

人間は、時の上に立つものだろう。

 

いろいろあったけど、それでもまだ私は世界にいる。

 

終わっている現実にしがみつき、現実が終わったら引きこもって妄想でしがみつく。

 

妄想癖が付くと、『さようなら』ができなくなる。

 

プライベートも挙げて全力で仕事をしている人間が、プライベートを充実させようとすれば、その分、仕事が適当になるに決まっている

 

『この世で一番君が好き。何よりも大事』という構えでうまくいったためしがない。

 

もういいよ、すべて終わったことだ。

 

お金の計算するくらいなら娯楽などしないほうがいい。

 

すべての娯楽を止めよう、慰めのものを止めよう、そう思い、一夜明け、目が覚めたら、鬱がひどくなっていた。

 

結局、娯楽や旅行で『やること』を無理やり作っていたにすぎず、行かなくなったら『やること』が何もない自分に恐れをなしたんだろう。

 

慰めの物なんて、後になってしまえば意味のないことばかり。

 

やれる能力がないのに、やりたがることを妄想という。

 

体力があるなら、一日何十キロって走ってもいいけど、無理だろう。

体力がない人間が一度フルマラソンしたらどうなるか。

 

虚しいものに対して、労力を注ぎ込んだのが自分の人生の躓きなんじゃないの。

今更だけど。

 

いかに食べたものを自分なりに『消化』するか。

 

とにかくすべて前倒しでやる。

 

後悔自体がすでに妄想。

 

『仕事をしたらこうしよう、あれをしよう』などと考えてはならない。

ただ、何も考えず、条件だけ見てできそうならばエントリーするだけ。

 

何か、ネットに得なことがあると思っているんだよ。

だから開く。

面白いもの、役に立つ情報もたまにはあるが、大したものではないし、そもそもそれまでにどれほどの無駄な情報を見ているのか。

 

転ぶのが怖いから走るのを止めて、どうせ何も手に入らないと思って、歩くのさえ止めてしまっただけ。

 

吹き零れ。

実力を発揮できる場におらず、そのフォローもないがために能力を下げてしまう。

 

努力が足らなかったと後になって思う。

 

夢見たものを実際に手にした時の失望は、それを手にしなかった時の失望よりも大きい。

 

進路でも家でも物でも、姿を変え、名前を変えているだけでそれが欲望の対象であることに変わりはなければ、結果も変わらない。

 

マイナーチェンジでしかないものに目新しさを感じて、『今度こそ』と欲の欠片を拾い続けてしまう。

 

自分に何がどこまで必要なのか。

 

振り返って恋愛で最も楽しい時期はその萌芽の時であった。

意識したとたんに、気苦労が始まる。

後は手順を間違えずにこなしていく作業になる。

 

『上げて下げるのやめろ』とかいうが、そもそも自分の情況や境涯を鑑みずに欲望を追っていれば、いずれ下がるに決まっている。

対象に本気になるほどに情況を顧みなくなるから情況も下がるのも当たり前。

対象、世界から距離を取るのがふさわしい。

 

一度にたくさん言われても、一度に多くは言えない。

 

『あれもだめこれもだめ』と言われているんじゃなくて、『あれは厭これも嫌』と言っているだけ。

『でも、あの時のあれなら今できそうだ、今ならいいのに』と言うのも、今、何ら情況に影響を及ぼさない妄想に過ぎない。

 

必要なものはくれる。そうでないものはくれない。

欲を掻き始めたら取り上げられる。

それだけのこと。

 

結局、自分から求めて手にしたものって、何も残っていない気がする。

家も進路もそうだけど。

昔買いまくったブランドの服とか、アニメグッズとか。

 

言われた仕事をこなした時だけよかった。

 

もしかしたら、自分からこの世のものを求めるからノイローゼになるんじゃないの。

 

結局さ、一度や二度やったところで後になれば何も変わらない。

なんとなく覚えているだけで、何かが得ているわけではない。

今の自分の人間関係、情況の支えになっているのか。

 

自分では、そうそうやりたいことをしてきたようにも思えなず、むしろ我慢し続けたわけで。

我慢だけして、限界が来たら逃げ出して、何もしない人生だったといえる。

 

高校のとき遊びも勉強もしなかった。

それはなぜか。

自分から欲しいものがあって、それはすでに妄想なのに、それに固執して、それ以外を認めないから、妄想に浸るだけで、実際は何からしていいのかわからずに、慰めのものに走っていただけ。

 

今もそうじゃないの。

高校のときと似たような日常を過ごしているということは。

高校のとき、勉強をしなくてはならなかった。

それは早慶に入るための勉強ではなく、身の丈に合った進路に進むための勉強。

 

今、何を求めているのか。

 

自分が一番好きなのは金儲けじゃないかと思う時がある。

 

仕事をするのが怖い。

現実を見せられるのが厭だから。

もう終わったこと、もう自分には何もないことを示されるから。

 

高校のときに身の丈に合った進路に対する勉強ができなかったのは、もう自分には早慶に行く実力がないことを、認めたくなかったからか。

 

今も仕事をしないのは、もう自分には芸術家や研究者として食っていける実力もないただの平凡な人間に過ぎないことを認めたくないから。

それをごまかせるだけの付加価値があれば喜んでエントリーしてしまう。

それもやがて意味のないことと知ってやめてしまう。

 

それと同時に、以前のような楽しい状況が手に入らないということを認めたくないんだろうな。

 

快楽に浸り続ける人間には過去も未来も消えている。

 

歪んだ欲望を捨てて残ったものが自分。

 

何のためにこの世界にいるのか。もはや。

残っている能力で世界とどのようにかかわるか、そのためだろう。

 

ただそれだけで、ただそれだけのこと。

 

心が昔に戻るのなら、これまで捨てたものさえ無駄になる。

 

ものがないくせに、頭の中がものでいっぱいなら意味がない。

 

ものを捨てずにはいられないのは、たんに過去に耐えられないから。

何で耐えられないかといえば、過去から繋がる今が不安で仕方なく、熱中できることがないから。

 

厭なことがあった時に来ていた服を捨ててしまう。

精神的な『リスカ』。

 

過去の思い出とともにあるものを捨てれば、過去が消えると思い込みたいから。

 

自分で期待値を上げたらそりゃ下がるだろう。

 

刹那の快楽を求めても後になればほとんど何も残らない。

 

人にとって現在がいかに大切かがわかる。

 

いくら理屈を考えても進めわけではないな。

 

人間はその時々の身の丈より少し上のものを欲しがる。

 

自分がしてきたことはすべて『金持ちならいいよ』ということばかりだった。

 

何かが進まぬ時は、止められているというか、すべきでないことをしている。

あれを蕩尽と考えることによる乱数調整したということにしたらどうなのか。

 

悩み、後悔しているのは、自分があの時のものがあったら今これができたのに、という悔恨からだろう。

しかし、あの時が続いていたら、どのみち、別の躓き方をしていたんじゃないのか。

 

欲しいものがなければ後悔もしない。

 

思い返せば、無私の状態になって初めて、いつも活躍というか、楽しくなれた気がする。

我儘はもちろん、自慢や実力を示すのも止められる。

あくまで手伝いレベルや部外者レベルに立っていられる場合のみ、楽しく仕事をさせてもらえる。

 

自分が認められるのは、出し惜しみをしない。

無私の状態のときだけ。

 

トークとごはんもそのうち惰性になる。

 

境界線上で踏みとどまるのが最も楽しく、最も意欲がわく。

仕事でもアウトサイダーに踏みとどまってキーパーソンになろうとしないこと。

 

ごり押しをやめる。

 

何でも比較して優劣を決めたがるのも、どこか現実から目を背けているんだろう。

 

救いたいと考えた相手が皆が皆、自分より恵まれた環境であったということ。

救えるわけないし、自分の境涯がままならないのに自分より恵まれている人を救おうとかお笑い草である。

近くで見れば悲劇だし、遠くから見れば喜劇でしかない。

その後を見れば自分が救う必要なんて全くなかったし、単にその場で利用されていただけというのがわかるだろうよ。

 

飽きるというよりも逃げ出したくなる。

 

則天去私なんて凡人がやったら無気力におおわれるだけ。

 

自分は変わったと思っていたのに、変わっていなかったんだな。

 

今していることを見ればわかるだろう。

 

妄想をすると現実では何もしていないのに、活躍したり、仕事をしたりしている気になってしまう。

 

今日、夢で満天の星空を見た。

 

旅行というものはバカンスと旅とに分けて考えてみれば、前者は休息や娯楽であり、後者は道程を経た後に得られる達成感である。

しかし、両者とも済ませてみれば達成したという思い出に過ぎなくなる。

 

人は何かを成し遂げたいという欲望を持っている。

旅行もグルメも恋愛も成し遂げたいという欲望がある。

メディアや周りの者の発言を真に受けてしまうと、その成し遂げたいものの段階が上がり、また数を競うようになる。

 

旅行だって、何も知らなければ行きたいとも思わないだろう。

恋愛だって、知らなければそこそこで満足するだろう。

 

その成し遂げたいという欲求を消費することでしか解消できなくなる。

本来、勉強や仕事に注ぎ得るその欲求を。

 

『成し遂げたい』という欲求とそれを成し得たときの気持ちよさは、勉強や仕事の上で達成すれば成長にもつながるが、普通は、メディアや環境に影響されて、つい消費活動でその欲求を解消しようとする。

メディアなどにはその『目標』が楽しげに並べられ、また羨むようにデコレーションされているが、それがマーケティングである。

 

『やりたい』がどれだけ屈した姿になるか、たいてい自覚できない。

 

救ってほしいのか。

取り戻させてもらいたいのか。

それを仕事に求めているからいつまでも仕事をしないんだろうな。

 

後悔から始まっているわけで、自分を『確実に』救えるのは以前の場、すでにもうなくなっている場しかないから。

それじゃあ、いつまでも仕事をするわけない。

 

精神が肥大化どころか溶け出していく。

 

見るもの聞くもの悉くが羨ましいか、恐ろしいかばかり。

 

欲望が、またプライドが重荷になっている。

 

自分が結婚したがっていたのは、家庭が欲しかったんだろう。

しかし、自分の幼稚な精神では家族もまた慰めの対象にしかできなかったろう。

 

自分は本当に好きなものがなかったんだろうな。

下手に勉強できたから、そのほかの才能を磨こうとしなかった。

自分が恵まれていると勘違いし続けたんだろうな。

 

人並み以下の環境なのに。

 

小説家になろうとしたのも、日常的に変なことがあったから、それを書こうとしたんだが、それも腹が立ったからにすぎない。

自分が書いたものは、結局はストレス解消というか、不満をぶちまけたに過ぎない。

自慰行為か、くだを巻いているだけで、読み手のことを考えていないから。

 

服にしても、服が好きなのではなくて、あたかも王様のように、自分の羽振りを示すためのものだったから、金で買うこと以外の行動をしていない。

 

アニメや漫画もそう。

あれだけ読んでいながら職業に生かそうとしなかったのは、結局慰めのためで、好きではなかったのだろう。

 

ヒーローもののファンタジーや、根性もののドラマは、境涯が辛い人に、自分もやればできる。と思い違いをさせてしまうんだ。

 

結局、王様気分でいたんだろう。

好きなものがあるという話でも、一方は、上からまたは自分が座したまま、手に入るもので、単に自分を慰めていたにすぎず、

成功する方は、なにより愛がある。

 

世界に対して、『慰めてくれ』と言っていたにすぎない。

 

王様気分でいると、周りのもの、他人でさえ者扱いし、自分の気分でどうとでも扱おうとしてしまう。

それをできないはずがないと考えてしまう。

 

止めてくれた?

そんなわけない。単に、自分で情況を破壊しただけ。

 

王様気分でいたから、勉強ができなくなっても、挽回のための努力ができなかったんだろう。

 

情況の躓きにより、途中から王様気分が再び頭をもたげてしまったから、つまりは自分の才能を自分のために使いだしたから、つまりは周りのものを人を自分の慰めのためにしか見なくなっていた。

そしてただ情況が終わるのを悦に入ってみていただけ。

自分は悪くない、自分は当然のことをしているだけと思い込み続けて、何ら態度を変えようともしなかった。

 

王様気分だから、周りがしてくれる、自分が困っていても周りが助けてくれるという幻想を抱いていただけ。

 

何の役にも立たなかったといったのは、趣味でしたことではなく、王様気分の自分の精神だったはずじゃないのか。

 

自分は普通ではない、なら一般的なものを顧みずに、好きなことに邁進するしかない、という考えらなれるか。

 

自分が普通ではないのに、自分は普通どころか恵まれている才能もあると思い違いをしたのが今の状態だろう。

 

なんか普通の暮らしをしようとしているんだよ。

 

昔からさ、できなければサラリーマンになればいいとか、お金はそのうち稼げるとか。

 

それで挙句の果てに、ネットを見て慰めているんだろ。

王様になれなかった王様の心を。

 

だから王様気分でいたからだろ。

 

愛がないんだよ。

対象に。

 

文学でも野球でも漫画アニメでも。

自分に役立てばよし、そうじゃなければけなすだけという。

 

元をただせば、

欲しいものを買ってもらえた小児の時代

勉強ができて、早慶行くのが当たり前だった小学校、中学校の時代、

これが忘れられないんだろう。

 

それで来てしまって、

そのあと、自分を変えられたと思ったら、また王様気分になって。

 

『何で俺の言うことを聞かないんだよ、なんで、俺の思い通りにしないんだ』ってことだろう。

 

プライドが高いと『これでやってきた』、『これで勝ってきた』というだけでやり方を模索しようとしない。

そもそもそのやり方で、できていないし、勝っていないということさえ忘れてしまっている。

 

小児のときから甘やかされてしまった人間は愛がない。

そして、繁栄の体験にしがみついたままの人間は見合わぬプライドを捨てきれない。

ふとしたはずみに、その王様気分が出てきてしまう。

能力の割にうまくいかないのは、どこか王様気分でいるのだろう。

いつかその王様気分を捨て去り、キリスト教的な意味での復活をするかどうか。

 

王様は努力しない。

しても現実逃避のための努力に過ぎない。

愛がない。

究極の消費者でしかない、王様は。

 

王様の『好き』は、『よく慰めてもらえる』ということに過ぎない。

 

王様気分で周りを見てしまう者は、『好き』が仕事にまで発展しない。

 

自分の気分をぶちまけることが先に立つために、人々が好むものにまで作り上げられない。

 

付き合う人を変える。

住む場所を変える。

時間の使い方を変える。

 

楽になることに慣れすぎると、楽しくなる方法を忘れてしまう。

 

王様はすべてが自分のため。

道化はすべてが他人のため。

 

というか、後悔しているのなら、むしろその後悔の原因となった自分を振り切るしかないんじゃないの。

何が原因か。

王様気分なわけで。

 

慰めてもらいたい、救ってもらいたい、という考えだろう。

 

なんか、昨日は、元気が出た気がしたが、もう今朝になって鬱がひどいわ。

 

他人の言うことなんか無視して自分の安泰だけを目指していればこんなに苦しい人生にはならなかったろうよ。

 

陰鬱なものを抱えていたら、陰気になるだろう、そりゃ。

 

遊びもグルメも旅行もネットも何も鬱は治らなかった。

 

原因は小児のころから培ってきた王様気分、加えて、良かった場の良さが基準となって、それ以上でないとやる気にならなくなっていたという増長にある。

 

解決策は、出し惜しみをせず、得ようとしない。

 

『いらない』のではなく、得ようとしない。

 

『どうしようか』なんて考えている時点で、まだ抱えているんだろ。

 

あのころの『楽しそうなことがしたい』と、今の『楽しそうなことがしたい』じゃ純粋さが違うんだろうな。

 

昨日、王様気分とか、昔の繁栄を忘れられないのと同じとか言っていたけど、

もつと根本的なものなんだろうな。

 

今更、将来のこととか考えているし。

 

仕事で順調になって、情況がよくなったから将来のこととか考えだしたけど、それが躓き石だったのか。

 

当時ブラウザのブックマークと今のそれを比べたらどれほど今がこの世のものにまみれているかわかるんじゃないのか。

 

将来のことを今更考えている。

そりゃ今更考えたら後悔するに決まっている。

鬱になるに決まっている。

 

今更、遅いということをまず自覚すべき。

それなのに、いまさら将来のことを考えて、まだ二十代の人が考えるようなことを考えているから、混乱して鬱になる。

 

『やること』がないといいつつ、今の自分は『やること』がいっぱいで、『仕事探し』とか、それも将来、キャリアを考えて探している。

収入とか。

そしてその収入でしたいこととか。

 

いや、全然違う。

むしろ今のほうがよほどやることがないのに、『やること』があるかのように振る舞っているわ。

この期に及んで自己欺瞞に満ちた言動をしている。

 

あの頃、小説を書いていた。

小説さえ書ければ後は知らん、というくらいでやっていたっけ。

 

前もそうだけど、今に比べて情熱があった気がする。

王様気分を捨てたからといって、ロボットになっても意味はない。

 

楽しい場で得たものが今度は重荷になっているんだよ。

 

ギャラリーでさえ、夏場のプールでさえ、半ば義務になっている。

 

今の自分は逆に義務だらけなんじゃないのか。

いやいややっているだけ。

 

元気な自分ならこうするだろう、ということで無理にギャラリーに行っているし、また仕事を探している。

柳の下のどじょうに過ぎない。

 

ありもしない『将来』を今更考えているのか。

 

諦めた瞬間にそれまで求めていたものが生じる。

 

引っ越すと、その場が良くなるのも、もうその場が必要なく、意味がないからだろう。

 

要するにあきらめの境地か。

 

人を救うなどと考えてはいけない。
嘘が交じる。
出来ない時の言い訳になる。
救ってやるとか。
むしろできなさそうになってから思いつく欺瞞の言葉だろう。

 

 

たとえ、やりたい事をしたところで、自分の知能を上げるような努力や人付き合いをしなければ、いつ憂鬱になるか知れないだろう。

 

もう自分の境涯に、もう終わったことに対して、酔っているだけ。

自分の過去を肴に酔い、またおかずにして自慰行為をしているだけ。

 

自分の実力のなさを認めず、オカルト的なものに走ったり、ごまかしているだけ。

 

小児のころからの王様気分、自分を特別視することが根本の原因だろう。

自分はどうにかなるという正常化バイアスが抜けきれなかったんだよ。

 

自分を幸せにする能力がなかっただけ。

小説でも映像でも、他人の作品見て、『なぜ自分がこれができなかったのか』と思うことがいくらでもある、

ということは、自分に能力がなかったか、努力が足らなかったかだろう。

 

『どうせ何とかなる』で、したこと。

この、『どうせ何とかなる』でしたことを見ると、それで失ったものもあるが、何よりそれで追い求めたものが何の役にも立たなかったということだ。

 

自分が書いていたものは、『大変な自分を見てくれ』という小説に過ぎない。

 

単にネタを出しているだけだから、愚痴をこぼしているだけだし、ネタがなくなったら同じ。

 

自分は自分の内部にあるものだけで勝負してきたから、限界があるんだよ。

 

自分の仕事に邁進して、この世の物の誘惑を意に介さぬ人こそ羨ましい。

 

怖くてまともな会話ができないという状況に置かれてしまうと、人は次第にその人独自の言葉を失ってゆく。

鬱になって、家に引きこもってしまえば、なおさらである。

家に居ながらネットの言葉を大量に浴びたところで、それは生きた言葉ではないから、グーグルの翻訳と変わらない。

 

『何とかなる』でいい加減にしていたんじゃなくて、その時その時で精一杯考えていたんだよ。

それが後になれば馬鹿馬鹿しいことであっても。

 

『どうせ何とかなる』なんて考えていないよ。

今も。

むしろ怖くて何をしたらいいのかわからないんだよ。

何しても躓きそうで。

 

人の作品と自分との違いは、『前向き』かどうかにあるんじゃないのか。

自分の作品は『どうだ』という感じで、腹の立つ現象に対して『やっつけてやった』という感じがどこかあるんじゃないか。

 

そして意地の悪い連中は人の『前向きさ』をたたくんだよ。

 

結局一日何もしないか。

 

どうやら頭を使わないと鬱が出て来る気がする。

 

せっかくの土曜の夜に何もできない。

 

やっぱり多摩美大に行って芸術家になるのがよかった気がする。

 

やっぱり鬱が治らんな。

余計にひどくなっている気もするし。

 

なんか今日鬱がひどいな。

仕事したくないんだろうな。

 

いくらでも正解はあるんだろうな。

でも、それを見いだせないから、苦しんでいるんだろうな。

 

傾向として、鬱が酷くなる状態は、朝起きた後、何もせずにネットを見ている時なんだから、対策としては何かし続けるしかないが。

 

『やりたいこと』じゃなくて『やりたかったこと』ばかりだろ。

他人の作品を見ても『これやりたい』じゃなくて『こういうのやりたかった』と悔やんでいるだけ。

そこにあるのは可能性や希望でなく、後悔。自分の実力のなさからくる哀しみ。

 

今までもそう。

小説にしても進路にしても、『やりたい』の前に『これが欲しい』『こういうのやりたい』から出ているだけ。

羨んでいるだけだがら、そこに愛がないし、そもそもその後のことを考えていない。

 

自分の感覚で『やりたいこと』がないんだよ。

それじゃ芸術家になれるわけがない。

 

仕事をしたいという気にならない。

 

でも、自分でこんな仕打ちしたってさ、人格がよくなりゃしないよ。

余計に意地悪くなっているし。

昔の方がずっと人に親切で快活だった。

 

『お金があればやりたい』が、『なければする気がしない』というのは、自分がすでに単なる消費者になっている表れだろう。

 

しかし、自分がした今一つのことも、ほとんどが、自分が金持ちで仕事をしていたら、しなかったことだよな。

 

どうなんだろうな、つまり恵まれた境涯なら意地悪をしなかったということか。

 

自分がつらい境涯の人の気持ちを知ったところで何もできないし、そんな境涯になったところで、本来の仕事もできないし、どうにもならない。

 

前ならイライラしていたことが不安感に変わる。

 

仕事も次から次に出てくるものをどうしようかと毎日悩む。

 

もうやることがない状態で仕事をしたんだから、辞めたらやることがないことが浮き彫りになるだけか。

そんなことも先読みできなかったのか。

 

『他人に同情なんてするなと教わらなかったのか』

 

この間米5キロ買わなくてよかった。

 

なんかさ、迷うのは自分を見ていないからといういつものパターンのせいじゃないの。

 

自分を責めることで自分の情けなさや実力のなさを守っているのかもしれないな。

 

なんかまだ吹っ切れていないんだろうな。

まだ先のこととか考えているんだろうな。

 

いつまでもだらだらと生きているつもりでいるから、何が楽しいのかさえ分からずにネットばかり見ているんじゃないのか。

 

『今度は大丈夫』で何度躓いたんだよ。

 

『あの頃と違う』って毎日ネットしているくせに何言っているんだよ。

 

鬱が治らん。どんどんひどくなっている気がする。

 

将来のことを考えるからだろう。

 

『こういうことをして見たかった』『こういうものを作りたかった』という後悔と羨望しかない。

 

しかも今まで自分が欲しがったものはすべて本当に自分が欲しがったものじゃなくて、周りに影響されて自分も欲しくなったものだろう。

だからものにしろ進路にしろ続かない。

 

自分は小児のころから『怒られないため』、『褒められるから』していたにすぎず、本当に好きなことなんか何もなかったんだな。

小説だって結局誰も褒めてくれないから書かなくなったんだし。

 

なんか、仕事もあと一歩でできそうなものばかりだな。

人生もそんなんばかりかもな。

あと一歩、性格が強かったら。

あと一歩、周りが良かったら。

あと一歩、頭が良かったら。

あと一歩、生い立ちがましだったら。

全部あと一歩だから、ネタにもならんし、危機感もない。

 

気づけば、やりたいことが、『奇跡が起きた未来にやりたいこと』か、『過去に戻ったらやりたいこと』ばかりで頭がいっぱいになっている。

今、やりたいことはなんなのか。

今、やりたいことがつまらなさそうだから、考えたくもないんだろうな。

 

昔は、やることがなければ同じ参考書を繰り返し読んでいた。

 

単に自分に能力がなかったわけだから、後悔する必要ないだろ。

精一杯やったのに。

 

アウトサイダーとしてなら、別に後悔する必要ないだろ。むしろ順調だし。

 

アウトサイダーのくせに、インサイダーになろうとするから躓くだけ。

 

この世のものを追っている段階で、自由業だろうがインサイダーなんだよ。

 

今までの人生もアウトサイダーとしての自覚さえあれば、躓かなかったろう。

人並み以上のものを自分も欲しがって躓いただけだし。

 

高校も通信制とか大学も美大とか。

 

地位と金。

その結果はどうなったのか。

 

でも、仕事なんて、何を選んでも結局は何も変わらん気もするけどな。

情況と情熱が一致したときに発展し、さらにその発展した状況を受け入れる更なる状況が生じたときだけ、この境涯を抜け出せるんだろうけれど、それはもう奇跡の連続というほかない。

 

場の力で張り切ってやれたとしても、『ここを辞めたら何もないな』と、その時から思っていたし。

 

何をしてもその時ばかりで、終われば何もない。

それは仕事もそうだし、人と遊んだあとや旅行も同じ。

終わって残るのは読書くらいか。

やろうやろうとおもうにつれ、当の本人がぼんやりしてくる。
ヴィトケンシュタイン

 

過去にこれを遣ったらよかった、と思うのは、自分の可能性を生かせなかったという後悔にある。
そもそも自分の可能性がこの程度の状況しか為し得ないものだったとしたらどうであろう。
後悔は、情況が自分に協力的であった前提に基づいている。

 

『アンチは結果論でしかモノを言わない』

自分も自分の人生に対して結果論でしか言っていない気がする。

その時々の状況を無視している。

他人の言動、場の状態、自分の調子、その時の能力、天気でさえ結果を左右するだろうに。

そんなことで後悔をしていること自体が慰めに他ならない。

慰め癖がついてしまっているんだよ。

消費することで、他人とおしゃべりすることで、漫画やアニメやゲームによって。

後悔でさえ、慰めの種にしてしまっている。

 

それがここ二年の状態であり、二年前の辞めるか辞めないかのときも辞めたら後悔して慰めのネタが手に入ると頭のどこかで考えていたんじゃないのか。

 

本当に楽しめないのは、その人特有の『慰め癖』のせい。

まずはそれを抜かないと。

 

旅行にしてもごはんがおいしい。景色がきれい。温泉が癒しになるとか、そう思えずに、ただ作業的にこなして、帰ってきたら『行かなきゃよかった』というのは、根本原因は『慰め癖』にあるんじゃないのか。

 

浪費にしかなっていないと薄々気づきながら止められなかったのは、後悔して自分を慰めるという快感をしたかったんじゃないのか。

 

先のことをおっかなびっくり考えるんじゃなくて、今を楽しめばいいんだよ。

 

関係を構築しようとして、思い通りに行ったことがあるのか。

 

後悔をすることは自分を慰めているだけ。

 

後悔も結果論ばかり。

 

怖いんだよ、次に仕事をしたらもうその先に何もないことがわかってしまうから。

もう立ち止まることも振り返ることもできずに働き続けるしかないから。

からしゃがみこんで立ち上がろうとしないんだよ。

 

人々は自分の都合で動いているだけ。

 

楽しそうにしつつ、必死で優越感や欲望に生き馬の目を抜くようなことをし続けている。

昔々から未だに。

 

それを自分は上面で信頼してしまう。

所詮は都合でしか動いていないのに。

 

人生は旅のようなもの。

知らないことを知ることの意義。

妄想で天井まで想像できてしまうものは、もうしなくてもいいんじゃないか。

 

知っていることを知っても意味がない。

それこそ生きているとは言えず、バーチャルな世界でのシミュレーションに過ぎなくなる。

いいんだよ、躓いたって、手にできなくったって。

リアルな世界、先の見通せない世界、正解を知らない世界で立って生きていること自体に価値があるんだから。

 

効率よく、正解を取り続けたいだろうけど、自分なりのやり方で試行錯誤を重ねてゆくから、君は君でいられる。

 

言葉がその最たる例で、通常年を重ねるにつれ、自分なりの言葉というものが出来上がってくる。

それは、誰のものでもない、自分の言葉。

同じ母国語、同じ言葉を使っていても、人それぞれに微妙なニュアンスが違う。

それは、見て聞いてきたもの、何に躓いて、何を振り切ったかによって、それぞれに価値のある言葉。

それは、その人が自分なりに生きてきたあかしである。

 

グーグルなどの機械翻訳が正確ではあるが、どこか変なものであるのは、そこに時の積み重ねがなく、単なるデータの量による選別の言葉であるからだ。

将棋などのゲームではそれが強さに反映されるが、人の言葉は、強ければいいというものでもないし、むしろ弱さに特色が出ることもある。

また性格であればよいというものでもない。

女神転生というゲームがあってそこでは敵としてさまざまな『悪魔』が出てくるが、開発者はその『悪魔』の言葉を当時、機械翻訳を参考に考えていたと聞く。

 

機械翻訳は、まともな『人間』側から見れば、どこか異常な言葉の羅列であり、それが『悪魔』としての違和感を生じさせるのに一役買っていた。

 

新しい物事をするとき、試みと失敗を繰り返しながら次第に見通しを立てて、解決策や適切な方法を見いだしていくこと。

「試行」は試しに行うこと。「錯誤」は誤り・間違い。

という意味で、その字面からは錯誤の繰り返しであり、それが人の生き方であることを示していまいか。

 

つまり、未来予知の能力とは言わないまでも、仮に現在生じている大量のデータを集めて、最高の効率で『正解』を取り続けられる人間がいたとしたら、

それは全く陳腐で無個性で『データ』や『数字』以外に何もその人を表せるものがない、ロボットのような雰囲気を醸し出しているだろう。

 

試行錯誤する人間、

試行錯誤こそが人間なんだから、試行錯誤をしていくがいい。

 

いくら思考をしたところで、哲学者でもない人間はどこへもたどり着けない。

 

今までで一番鬱がひどいな。

日に日にひどくなる。

 

時計を見れば二時四十分、もう三時か。

 

うまいものは高いものだけ。

 

安くてうまいのは、トーストくらいか。

カップスープ。

果物。

 

睡眠時間を削ったらどうか。

 

何でこんなに苦しいんだ。

そんなに自分は我儘なのか。

快楽を貪った覚えはないし、本当に求めているものを手にした覚えもない。

 

もうくたくただわ。

ずっと仕事で悩んでいるし。

ずっと葛藤し続けているから、精神的なエネルギーが放出されっぱなし。

全然ないならまだましで、半端にできそうなことよりも少し難易度が高いものばかり出てくるから、悩みっぱなし。

もう疲れたわ。

これも自分を苦しめ続けているんだろうな。

 

本当は余裕なんてないのに、あるものと思い違いをしている。

 

だから『半端な余裕』といっている。

本当の余裕ではない。

 

ハローワーク通いも終わり。

 

予想より少なかったが。

 

結局、やっぱりというか、毎度というか、ハローワークに通っている間は仕事をしなかったな。

 

悲しんでうずくまっている間に、いろいろな可能性が零れ落ちていくんだな。

 

自分は自分の可能性を捨ててきただけだったな。

人に言われたことを気にして。

 

なんかあれだな。勉強も大事だが、あまりに勉強というものを信奉しすぎると、自分の持っている環境の強みが全然わからなくなるな。

その短所ばかり目について。

 

自分が偏差値高かったから、それに頼り切って、他の可能性を見なかったんだな。

でも、それに気付くのが芸術家なんだろう。

 

結局、自分はさ、進路でもなんでも自分なりの価値というものがなかったんだな。

進路も早慶とか誰でも価値があるもの、

恋愛も人気のある子か、近くにいて仲良くなる子とか。

 

『ルールを守る』ことを幼いころから言われ続けた人は、基本的に商売に向いていないと思う。

日本人の国際競争力の低下は、画一的な学校教育の成果もあるんじゃないか。

自分の経験からすれば、学校教育、偏差値重視の進路は、既存の価値観を重んじ、自分が持っている価値、環境や持ち物、趣味嗜好を軽んじさせるという効果があるとしか思えない。

 

だから放擲しろっての。

自分の価値を未来を自分で抱え込んでいるから苦しいんだよ。

もう腐っている過去の価値基準で動いているから。

 

認知の歪みなんだから自分で決められるわけはない。

 

もう無理だって。

これ三月まで何もしないと思う。

どうするか。

 

でもさ、こんだけできないということは、自分はこの数年、何も頑張ってこなかったということなんだろうな。

 

そんなはずはないのに。

 

やっぱりセンスというものがある。

受ける受けないとセンスのあるなしは同じといっていい。

 

自分でわかるだろう。

デザインのセンスがあったかどうかくらい。

 

近代文学が生み出した現代の言葉は既に時代とずれているのか。

だからといって、今の言葉が時代と見合っているのかといえばそうでもない。

映像やデザインのかっよさに比べて、言葉が一段下がっている気がしてならない。

言葉こそ最もかっこよいものであるはずなのに。

 

今の自分の文章は、昔に比べて、言葉選びや間が雑でねばりがなく、また格調もない。

特にユーモアがまるで感じられない。

あの手この手で褒めているだけ。

所詮、広報のような文章であったり、ポエムだったりする。

この数年で急速に進んだ気がするのは、みな、ネットやSNSに蔓延する言葉遣い、つまりは人格にのまれて、脳が変化したと思われる。

 

つまり疲れているんだよ。

 

作家であったはずの自分がライターになってしまった。

もはや映像のほうが上なのか。

 

より欲望に近いものではなく、より自分のためになるもの。

なぜかといえば、欲望に近づいたとしても、どの道手には入らないため。

 

抱え込むからつらいんだよ。

放擲しろっての。

 

この二週間、本当に何もしていないな。

 

抽象的な言葉しか使わない奴の言うことは聞かないほうがいい。

 

野毛山動物園のようなサイトデザインはほっとする。

なかよしショップのようなディスプレイも。

 

あまりに洗練されすぎると鬱になる。

いかがわしい商売ほどwebが派手になる。

 

仕事を始める前に心を整理整頓しないと、この状態で初めても前の職場と同じだろう。

 

意地が悪すぎ、イライラしすぎ。

 

食いたいものはプリン、アイス、蒸しパンくらいか。

あと果物とヨーグルト。

 

こんな状態で仕事しても単なる薬物療法と同じ。

前回の職場と同じ。

自分を苦しめているものに片を付けないと。

 

しかし、何で自分は可能性を止めてしまうのか。

 

変なプライドなのか。

 

欲しいものがあるから苦しいんだよ。

 

むしろ鬱が悪化したのは、より欲しいものが生じてしまったからだろう。

 

ふと思ったわ。

仮に自分が欲念を出さず、普通に普通に生きてきて、サラリーマンをし続けたとして、それで後悔しないと思うか。

自分がうまくやったと思うか。

どのみち叩かれていたんじゃないのか。

 

そもそも公共の場では、自分の権力も立場もつまり、場の力も通用しないわけだし。

 

皆、あれか、自分の傷つけられた心をいやす行動を繰り返しているのか。

まあ、自分もそうだけど。

外見はぎこちなくなり、不自然になり、心の中はグロテスクなものとなる。

 

恋愛でも人間関係でも仕事でも勉強でもいちいち復讐なんだろ。

そのやり方で小児のころから生きてきたんじゃないのか。

 

そりゃつまらなくなるわけだ。

 

自分もあれか、この何年間の傷をいやすためにうろうろしているのか。

 

過去のことしか話していない。

今何もしていないし。

 

とにかくいままでのことを忘れろ。

 

自分は最優先にできるものを求めているんだろう。

それが時には恋愛や漫画やアニメになるが、それを最優先にしてはならないんだよ。

仕事でそれを求めているが、今一つ、スキルが足らない、それがずっと続いている。

 

『おれもやりたい』ではなくて、『おれはやりたい』と言えるもの。

『お前らはできない、だが、おれはできる』というもの。

 

いじったりからかったりしないこと。

 

卑下もするな。

自信がないならやめとけ。

相手を窺うようなことをするな。

 

自分の全力を示すこと。

 

sycophancy is never atractive.

なわけで、どう考えても途中からおもねっていたから。

 

後悔もどうしても自分を正当化というか、美化したところでするから、しないほうがいい。

 

この状態でモスのフィッシュバーガーの写真を見たらよだれが出てきた。

 

なんか、やばいな。

感覚もいかれている。

 

そうか、前は、それまでの古い人格を捨てられたのか。

今何でできないんだ。

何もしていないからだろ。

 

しかし、英文解釈教室とか買ってもしょうがなかったんじゃないの。

 

なんか、全く興味がなくなっているな。

社会に。

 

事務は無理だろうけど、だからといって、民間の宣伝系もできるのかな。

自分、興味というものがないとやる気が出ないし。

 

決断できない状態が最も悪い。

それがずっと続いている。

 

鬱の原因は、なにかを成し遂げようとしているからではないのか。

以前、もうやることがなくなっていたというのは、その時点でそれまでの何かを成し遂げていたから空っぽになっていた。

 

しかし、仕事で活躍していた時のことが忘れられず、そのときのような活躍をしたいがため、つまり、『特別扱い』してもらいたいが、そのように振る舞えそうな仕事がなく、同時に自信もないから、全然できそうな仕事でもエントリーしないんだろう。

 

復讐したいんだろ。

前の躓きに対して。

 

何かを成し遂げようとするプレッシャーが決断できない状況を作り出している。

前は気楽だった。

もう何もないんだから、単純に楽そうなものをすればよかっただけ。

 

なんかやるほどに、知るほどに哀しみが増すな。

 

後、人を救うには、自分がまともじゃないと救えんよ。

毎度飲み込まれるのはそういうことだろう。

 

結局自分は本当にアウトサイダーだな。

 

そして、アウトサイダーであるにもかかわらず、性格が権威的というか、依存的というか、自分でとにかく何とかしよう、現状を打破しようという気がないからこうなっただけか。

 

性質が昔と変わっていないし。

同じ失敗を繰り返しすぎ。

 

なにがアウトサイダーだよ。

プレッシャーと闘ったり、面倒なことを一つずつ辛抱強く片付けられない性質と同時に、今活躍しているような連中レベルでバイタリティも実力もないだけだろ。

 

環境のせいにしているけどさ、大目に見てもらえた部分もあったんじゃないのか。

 

社会の中で立たねばならないんだよ。

貴族じゃないんだから。

 

小説だって、書きたいものを書いていただけじゃん。

それで売れるならいいよ。

でも売れないのに、特段、何もしなかったし。

 

成し遂げたいとか思っているけど、何かを成し遂げられるような性質でも能力でもないし。

 

貴族気分が抜けない。

自他の区別がつかない。

 

自分こそ学生レベル、サークルのノリで仕事していただけじゃん。

 

何も偉そうなことは言えまい。

さらに、何も人並みのものを欲しがって言い訳もない。

 

向いていないことはしないほうがいい。

 

『生きるってこういうことやぞ』

Youtuberとかその他、いろいろな職業を見ていると、生きるとはこういうことなのかと思う。

それが恥ずかしい、賤しいと思えるのなら、その改善をすべきは行政や富裕層で、自分が行政や富裕層気分で卑下している場合ではないんだよ。

自分にそんな資格はない。

 

より低いものを見て、優越に浸り、安心しようとしていただけ。

 

『救いたい』?

またきれいごとを言って、自分の欲望をごまかしている。

ビジョンも何もないし。

 

『救いたい』とか言っているけど、生きるため、人並みの生活を送るためにそれこそ必死で仕事をしている人のほうがまだ上なんじゃないのか。

職業に貴賤なしということがよくわかった気がする。

どれだけ必死になって、せめて人並みの生活を送りたがっているかにかかっている。

 

自分は、むしろ『救ってもらう』側だからな。

なに、増長しているんだ。

自分の状況を忘れて『救う』側に立とうとしたから、躓いたんだろ。

『救う』力などないから当然、躓く。

救われる側でしかないのに人を救いたいと思ってしまったんだよな。

 

そもそも『救う、救わない』で人との関係を考えたところでまともな関係になるわけがない。

 

『歓迎される場』とかいって、そりゃそうだけど、その考えを持つ時点で調子に乗っている。

むしろ『助かった』だろ。

『楽しそうなことをやりたい』と思ったけれど、そうじゃなければ何もしないわけではなかっただろう。

今も二十代、三十代の前半も、『楽しそうなことをやりたい』で止まって何もしないじゃないか。

 

自分は他人を救う側ではない。

救ってもらう側に過ぎない。

前のときも自分が救ってもらったのに、調子に乗って、実力を示すとか言っていただけ。

 

そう、自分は『救ってもらう』側なのに、『救いたい』と欲を掻いていた。

しかも心の中では『救ってもらいたい』と考えている。

それが小児のころからずっと来ていて。

で、救ってもらったら調子に乗る、という。

簡単にいうと、感謝の念をすぐに忘れる。

『有り難い』と。

 

弱音を吐かない、

仕事をし続ける。

自分のために時間を使わない。慰めのことをしない。

 

それに関しては今からでも遅くはないんだよ。

 

もうこの期に及んで何かを成し遂げようなどと思わないことだ。

情況はそこまで進んでしまっただけ。

何も賞を取ったり、何かを成し遂げようとしたりするだけが人生ではない。

 

『救われたい』と思ってばかりでは、今と変わらない。

ただ、難しくなさそうな仕事があればありがたくするだけ。

 

過去なんて悲しみと苦しみと顔色窺いと情けなさと恥ずかしさと怒りと嫉妬の集積でしかない。

戻りたくなんかないよ。

そんな奇跡の力を使えるのなら私は今使う。

後悔しているのはお金と、お金で買える優越感が欲しいから。

 

ここで欲しいものを諦める

 

代替行為よりももっと深い欲望。

 

実力を示そうとしたり羽振りのよさを見せつけたりすることは自分の魅力を損なう。

 

ある程度の期間や重さの鬱になったことがある人ならば鬱は甘えというよりも、捨てきれぬ欲望が重くのしかかっている状態であることに、ある日の黄昏に気付くだろう。

 

人の欲望のなんと美しく、それを手にしようとする者のなんと見苦しいことか。

 

金を稼ぐことで得られるものと金で買えるものとはかなり違う。

ただ単に大金を使うだけのものと自分の才覚で金を稼いだものとはやはり違う。

 

欲しいものはすべてお金で買えるものになってしまった。

 

以前は恋愛の対象、結婚家庭、賞、活躍すること、尊敬されること、そんなものばかり欲しがっていた。

 

要するに自慢であり、羨ましがられたいということ。

それを天に昇華する。

 

成績でも服でも資格でも家でも『どうだ』ということだったし。

 

お金で買えないものはいわばプレミア価格にすぎない。

実際は対価に合わないものばかり。

 

お金で買えるもので十分楽しい。

非凡な才能の持ち主は違うのかもしれない。

 

後悔することはない。

あのときに、気づいていればそれは素晴らしいが、自分の仕組まれたかのような境涯でそれができたとは思えぬ。

そんなウルトラシーができなかったといって落ち込むことはない。

 

漫画の読みすぎで自分に特殊能力があると思い込まされている。

 

稼ぎに応じて楽しむ。

楽しみのために稼ぐのは本末転倒。

 

恵まれていないのに恵まれていると勘違いしていた

 

変な道徳とか倫理とかに惑わされ、自分の性質も顧みず、つまり嘘をついて誤魔化してきただけ。

 

傲慢の元を神に差し出す。

 

やりたいのかやりたくないのかではなく、その姿になりたいのかなりたくないのかで判断できる。

 

欲望を垂れ流しているような者が得ているものを自分も欲しがり、手を出したくなる。

しかし、その者と同じ姿を取りたいのかと思えば真っ平御免と思うのではないか。

 

欲望でもなんでも垂れ流しているけしきは良いものではない。

 

拗れた欲望と自慢癖という傲慢を天に昇華する。

 

人を励ませるような仕事。

 

それでも、自分の能力を他人を励ますために生かすから更生になるのであって、自分の能力でもないのにただ他人のために仕事をするのは、ロボットのすることだろう。

 

過去に戻ってやり直す、取り戻したがる、つまり過去の穴埋めをしたがる癖が、今何をすべきかをわからなくさせる、つまり今の状況にいつまでも追いつけない状態を作り出す。

 

だから、後にならないとわからないんだよ。

 

自分にとっての理想の世界を妄想しだすと、今の世界との接点がなくなってゆく。

 

その時々で全力を尽くしただけ。

他人を助けようとしただけ。

理不尽に立ち向かい、躱しただけだ。

正気を保つために必死になっただけ。

 

自らの意志で理不尽に反逆するものとなっただけ。

 

何も間違ってはいない。

 

『今迄通り』好きにしたらいい。

今迄通り、その時々の重荷を捨てて、自らの意志を貫くがいい。

 

我慢なんかしても何も解決しない。

 

かっこよさは余裕のある人生を送れそうだと感じさせる。

しかしかっこよさはそれぞれの精いっぱいということであって、自分を蔑ろにした憧れはかっこよくない。

 

全能の力を得たとしても全智ではないと思う

 

愛の告白を受けたことのない人でも、『優しい』と言われたことはあるだろう。

それは褒め言葉であって、自信を持ってよいことなんだ。

 

優しい人、いい人は、見下されるし、出世もしづらいこと、それも事実だけれど、何か良いことをしても見返りを求めない、それが勲章なんだと思う。

そのいろいろな人から褒められた優しさに沿って生きていくことが自分なりの生き方になると思う。

 

妄想をするほどに自我が肥大化する。

現実ですべきことをせず、努力もしないようになる。

 

しかし、逆に言えば、妄想をコントロールすることによって現実の自分、自分の精神を引き締めることもできるのではないか。

 

欲望を制御できないのなら、逆に、徹底して欲望を妄想してみる。

そうして、その果てにまでたどり着いた時、さて、その欲望は本当に必要なのか、かけがえのないものなのか。

代わりはないのか。また、代わりのものとどれほどの差があるのか。

 

それは妄想の世界だが、その妄想で気づいた後にふと、自分がもう前まで求めていた欲望に特別の価値などないことに気付くのではなかろうか。

これを認知療法というものなのかはわからないが、妄想をさらにどんどん進めて、そんなことをしてどうするんだろうと思わないだろうか。

欲望が叶うほどの能力を手にしながら、わざわざするのだろうか。

それなら他に簡単に済むこともあるのではないか。

 

全智ではないという自覚ができると、自分が社会を変えるのがおこがましくなる。

妄想をしてみると、結局、自分は社会のルール内でしか能力を振るおうとしていないことがわかる。

それなら相応の生き方があるのではないか。

 

今の部屋も現代の建築からしたら屋根裏部屋レベルだろ。

普通にしていたらずっと屋根裏部屋のまま。

自分の心が弱いことを知っている人は、漫画やゲームの主人公に共感することはあまりなくて、むしろ倒される側のことをわからんでもないと思ってしまう。

同情はしないけど。

 

圧倒的不利な場合でも愛嬌やサービス、得をしようと思わぬことで逆転できたりする。

 

クラウドワークで募集しているライターなりデザインなりの仕事ができるのかどうか。

それが実際仕事に応募できるかどうかの目安となる。

で、自分はクラウドワークのまともなデザインの仕事を引き受けられないんだからデザイナーの仕事などできるわけがない。

 

読書も考えなくていい。

とにかくやることを減らすんだわ。

 

王様でも道化でもないんだよ。

舞台には立たない裏方なんだよ。

 

今可能なことを次々としていく。

先のことを今妄想するのではなく。

 

とりあえず、我欲を放擲する。

・王様気分(自慢、出世、羨ましがられたい、腹立ちまぎれの行為など)

・マンションが欲しい

これら、今までの人生で望んでいたことを諦めるかしたわ。

 

今の環境が良いわけはないが、とにかくずっとマンション欲しがっていたものな。

小学校のころから。

 

区切りにおいて、それまで自分を突き動かしていた我欲を放擲する。

 

妄想は、自分の実力どころか、性質まで置いてけぼりでしていることがほとんどである。

 

そういえば去年は寄付をしたんだな、その後今一つだったけど。

 

『今の』自分の為だけにすべての能力を使えばいいんだよ。

他人のためとか、まして『過去の』自分のためとか。

 

喉が痛くなって念のために安静にして、二日寝ていたら、頭の鬱がなくなったけど。

まだネット中毒が治っていないから、何とも言えないが、まあ、その日当たりでいろいろと心の片づけをしたし。

 

鬱は治っていないな。

仕事をしない限り治らん気がする。

 

気楽に考える。

何をすべきか。

と考えるのではなく、どれなら稼げるのか、食ってゆけるのか、それを考えればいいよ。

 

家が欲しい、マンションが欲しい。

人生の順調な段階としての計画ではなく、ずっと子供のころから思い続けてきた夢だったという場合、それは、不動産を所有したいのではなく、理想の自分が欲しかっただけということがある。

いつか、まともな家、マンションに引っ越したい。

本当にずっと思っていた。

それを諦めたということは、それは、もう自分のこの先に一人前の未来がない、一人前の人間として、ほかの人がしているような好きな人たちとのつながりもないんだな、ということになる。

 

今は、それが全くなくなってしまった。

それこそが希望だったのかもしれないな。

 

自分がその欲望をもし持たなかったらどうだったんだろう。

もっと自分の持っているものの価値を知ることができたかもしれない。

 

それを思うと、庶民レベル以下の家庭の子供たちはコンプレックスとの戦いもしなくちゃいけない。

 

『家が欲しくて』と芸能人になった人もいるが、単なる妄想の域を出ないままだと、努力もせず、好きなことも曖昧なままに来てしまう。

 

その妄想が当たり前となると、自分の部屋を飾り付けるということをしなくなる。

今もそうだけど『いつか引っ越したい』という願望が常に頭を支配していたから。

 

壁に何一つ飾らない、机に何一つ写真もオブジェも置かない。

それは、その部屋が好きではないから。できればすぐにでも引っ越したいから。

自分の部屋が好きじゃないということは、その時の自分が好きじゃないということ。

自分はずっと自分のことが好きじゃなかったということ。

 

自分の欲望の役に立たないから。

 

自分が好きじゃないから、困っていても仕事をしなくても、放っておく。

努力も仕事もせずに、未来につながらないような片付けばかりして。

物を捨てるのも、後悔し、過去のことをまとめているのも。

皆、片付け。

自分が好きじゃないから、今の自分、未来の自分のために努力がいるような何かしようとしない。

 

過去の自分に今の自分が復讐し続けているようなものだ。

 

自分が悪いわけではないのに。

 

家、マンションは、理想の自分の物質化だったのかもしれない。

 

住んだ家でも気に入らないところがあると、すべてを否定して、また引っ越したくなる。

完璧な家、完璧な自分じゃないと厭だったのではないか。

また、うまくいかないことを家のせいにして、自分の能力のせいと認めたくなかったんだろう。

家を変えれば、情況が良くなると考えていた。

そもそもマンションで自分を決めるのは、一般的な評価でないと、自信が持てなかった、それほど自分なりの好きなことがなかったんだろう。

 

物でも服でも何であれ、買えたから買った。

少しでも理想の自分に近づくために。

 

人形を侍らせて満足する虚構の王様ではないのか。

 

マンションを買うことを諦めるということは、もうこの半世紀追い続けた理想の自分を諦めるということに他ならない。

 

何より欲しかったのは、理想の自分、欲しいものを手に入れられる自分だし。

 

その夢が潰えたということ。

 

理想の自分なんて、実態は、欲望塗れの自分ということだし。

 

理想の自分は当然、いかしたマンションに住んでいるんだし、

理想の自分のわかりやすい象徴でもあるから欲しがるのも当たり前か。

 

いつごろから理想の自分を求めていたのか。

理想の自分を求めだしたということは、現実の自分で満足しなくなったということで、その乖離に苛立ち始めたということ。

 

苛立ちは、精神の痙攣であるから、表に出る行動としては、意地悪になってくる。

 

いろいろと周りを気にし始めた年頃のあたりで、思いやりにかけた者のことばを真に受けて、動揺してしまうということがある。

それで自他を比べてしまって、苛立ち始める。

それまでは、自然体でいられたものを、なんとか自分の実力を見せつけるようなことをし始めてしまう。

 

智慧の実』でも食ったかのごとく、それまで気づかなかった自分のコンプレックスに気付いてしまう。

 

それで、今の自分とは違う、『理想の自分』がいるということを思い始めて、その乖離にイライラしだす。

 

こういうことは、よほど恵まれていない人でない限り、たいていの人は経験するのではないか。

 

『追っても振り向いてくれない女を決して追うな』と、言われるが、追っても届かぬ理想の自分は、もう自分ではないから、放擲したほうがいい。

 

自分を支えるのは、今の自分と今のこの世界しかないという現実。

それで立つしかないのか。

 

子供のころ、何かのきっかけで、将来のことを考え出す時期がある。

受験とか、ただ女の子を好きになるだけじゃなくて、その先に結婚というものがあることとか。

遊びも明日のこと、先のこと、人間関係のことを考えながらしなくてはならなくなったりとか。

 

あまり先のことを考えなかった子供が、先のことを考え出して、情報が溢れていて、なんだか、今のことを楽しむのではなく、先のことを考えながらしなくてはならないというずれに苛立ち始める。

 

現代人の鬱と同じ構図ではないのか。

 

遊んでいればいい、勉強していればいい。

それだけで済んだのに、その勉強は何のためとか、その遊びも人間関係とか恋愛のためとかになってきた、

目的であったものが手段となってしまい、目的自体は遙か先の未来に遠ざかってしまった。

 

大人も、ただ仕事をしていればいい、休みの日は遊んでいればいい。

皆、同じようにしている。自分も同じようにしていれば済む。

一昔前はそのような状態だから鬱が少なかったんだろう。

 

ただ、人生の節目節目、年中行事も決まりきったものがあったから、それをこなせば、それで十分結果を出したことになる時代だった。

 

今は、自分で情報を集め、より良いもの、より安いもの、より自慢できるものを比較検討し続けている。

 

昔の人は『食っていければいい』、『お天道様に顔向けできていればいい』が最も重要で、後は考えなくて済んだ。

結婚相手でさえ、探してきてくれたし。

家の購入も周りが進めてくれたし。

 

就活もたとえば経済学部なら適当に銀行や商社を回るかで済んだ。

 

今はマニュアルで決まって、それに外れないようにチェック作業をしながら、同時に個性的になろうとして、『理想の自分』になろうとして、溢れる情報の海に自ら飛び込んでいるようなものだろう。

 

自他を比べだし、それで『理想の自分』を知ってしまって、それを追い求めだしたんだろう。

自他を比べだすと、自分が勝っているところで、増長し、劣っているところでコンプレックスを抱いて、その結果苛立ち始めて意地悪をするんだろう。

苛立ちは精神の痙攣に他ならない。

 

自分に対していいも悪いもないんだよ。

食っていければそれでいい。

存在に対しても。

○×で片付けられるわけがない。人間が。

それは独裁者の思考ではないか。

恐ろしいのは、鬱になると、その独裁者の思考を自分に向けてしまう。

その傾向が強いものほど自分にも向けてしまう。

 

しかし、他人に合わせるというのは疲れる。

仕事上の関係で直接間接かかわらずお金をもらわないとやってられないわ。

 

何十年もたってできないこと、手に入れられなかったことは、もう諦める。

諦めると拒否は違うが、諦めたらいい。

諦めるここと、今までできたことを書き出してみる。

 

『理想の自分』を諦めて、残っている今の自分こそが自分なんだから、それでできることをすればそれで十分。

 

もう、戦いは終わった。

それで残ったもので何とか立て直しというか、生きてゆくだけということ。

 

『理想の自分』とは、あらゆることで人に劣らず、個性的な魅力を持っている自分ということで、すでに矛盾している。

そのような人間は、この世界に存在していない。

存在しているかのように、表向き見せかけている人はいるが、それも見る側が勝手にそう思い込んでいるだけに過ぎない。

 

人は皆、努力をしている。

ただ、お金になる努力をしているかしていないかで、社会的なものが違ってくるということ。

 

自分がなんでもない存在だということに堪えられる人はまずいない。

 

『ひとそれぞれにどんな生活様式を選ぼうと、誰でも他人の情けに頼らずに食べていけるだけのものは必要である。』

 

この二年間、何をしていたかといえばさ、鬱のリハビリとかという口実で楽な仕事をしようとしていた。

それで、なんだかんだでやらなかった。

エントリーしなかったのは、それが口実だったということ。

 

人の身で、しかも今更、自分でお金を払っておっかなびっくりやるならやらないほうがいい。

 

自分の欲望と真正面から向き合った場合、実は『何かが欲しい』のではなく、『誰からも煩わせられない状況の中で生きてみたかった』ということに気づくことがある。

安心したかっただけ。

 

夜、蒲団に入って、『時間が止まってくれないかな』と思わなくて済む世界が欲しかっただけ。

 

安心していられない状況で育つと、小児のころから情況の対処で精一杯で、自分の好きなことなんて、自分で見いだせなかった。

そうなると、暇なときは慰めの遊びやテレビとかで費やし、欲しいものも、おもちゃ屋の陳列棚にあるものしか価値を見いだせなかったんだろう。

 

マンションが欲しいというのは、資産的な考えは全くなくて、今が厭だから引っ越したいだけ、つまり、自分にとってのエデンを求めてのことに過ぎなかった。

自分の言う『マンション欲しい』は、誰にも煩わせられることのない『エデン』のことに過ぎなかった。

 

隣近所に煩わせられない場所の謂いに他ならない。

 

おもちゃ屋の陳列棚のものを自分のものと思ってしまう小児の精神のまま大人になっている。

 

力を欲しがる。

力を得て、本当に何をするんだろうな。

 

今の望みを遠慮なく言ってみる。

 

全能の力を得るということは、神になるか無敵の妖怪になるか、それとも自ら悟り無になるか、どれかになるということなんだろう。

まともな精神は無になるしかない。

 

多くの人々が何を望んでいるか。

妖怪になりたがっているんだろうな。

好きなだけ飲み食いし、

欲しいものは何でも手に入れ、

色の欲を抑えず、

誰も責める者がいない状態。

そういう正体を皆、望んでいるんだろうな。

しかし、それは傍から見れば妖怪なんだわ。

 

つまり全能の力を得てまでなすべきは神になるほかないということになる。

そんなことができるのか。堪えられるのか。

なれたとしても、何かの拍子に逆上し、妖怪化しそう。

堕天使のように。

 

もちろん、今の自分の頭で考えているだけだから、実際はわからんが。

でも、人の身で力を得たところで、どうにもならない気がする。

でも、なら、力を得ないでいる人生が楽しいのかといえば、そうでもないから望むわけか。

 

力を得たところの帰結が所詮は虚しい境地からの無に過ぎないとしたら。

だから、今の自分しかいないということか。

『理想の自分』ではなく。

『理想の自分』は、神か妖怪か、『無』しかないんだよ。

 

それぞれ好きなアニメにでも当てはめてみればいい。

 

神の力を得た主人公、無敵の妖怪と化した主人公が楽しいそうに見えるのか。

また、エピローグで力を制御して普通の日常を送る主人公はいつまでもその状態を保てるのか。

どこか虚しさというか危うさに包まれていないだろうか。

 

力があるのに使わないということに人は堪えられないだろうし、

また、それを堪えられるように自らの精神を制御したとして、

なら、それは力を持っている意義があるのだろうか。

ただ、一人の人間の安堵のために全能のちからがあるのだろうか。

 

力を得ても使わないんじゃないのか。

初めは使うだろうが、頭もとてつもなく良くなっているわけだから、すぐに危うさに気付いて、制御するだろう。

それで、全能のちからを得ていながら使わぬことに堪え切れず、力を使えることを自らの力で忘れようとするのではないのか。

 

つらい境涯にある人が力を求めるのは仕方のないことだが。

 

たいていの妄想も、すべて全能の力がないと叶わない。

 

現実に堪えられないから妄想をする。

 

活躍すればするほど、それに憧れて、本来の道を擲ってしまい、そうしてどうにもならなくなる人がいる。

 

現実の人間はお伽噺のお姫様ではない。

『助けてやる』なんて、平凡な人間が奮起したところで、後悔が残るばかり。

 

たまに、『今の自分は自分の境涯にとって恵まれすぎている』と思うことがなくはない。

 

全能の力は絶対的なものだから、社会貢献の義務は生じない。

 

しかし、全能の力を得ることはない。

 

同様に、過去に戻ることも。

 

もうないんだよ。

 

この何年間、それにすがって生きていたのかもしれないが、もうないんだよ。

 

しかし、妄想にすがって、希望として生きてきたが、それがないことに今更気づいて、いまさら何をどうすればいいんだろう。

 

アニメのヒーローもゲームの人物も、またテレビや雑誌で見た暮らしぶりも、すべて他人事だったということ。

 

どうしようか。

むしろ鬱が良くなったからこそ、現実を見てしまったのか。

鬱の間は、妄想で誤魔化していただけか。

 

・正しい言葉遣い。

・否定的なことを言わない。意地の悪い行動をしない。

・奉仕の精神を持つこと

・能力を他人のために使うこと

・仕事をし続けること

・慰めを求めない

 

それでやってみたらいい。

今までのように欲に突き動かされて、『自分も』欲しいものは可能な限り手に入れるというう生き方で生きぬいたとしても

死がより怖くなるし、たぶん虚しさと苛立ちは消えない。

それはこの半世紀でわかったはず。

 

その欲を追い求める生き方を別世界に対して昇華してしまい、魂の更生をするつもりで最後まで生きたほうが、たぶんだけど、また違うけしきが見えるんじゃないのか。

 

このまま生きていても、情況も心の中も無様なだけ。

 

違う生き方をしたら情況はこのままかもしれないが、心は晴れやかになる可能性がある。

今の自分に残された唯一の可能性。

 

その生き方なら今の自分でも可能なはず。

これまでの生き方は、自分の能力では能力が足らなかったけれど。

 

だけど、気力がわかないな。

それならなおのこと結構といっていた哲学者もいたな。

やる気が出るということは、何かしらの下心があるからだろうな。

つまり、全く気力がなくなってしまった今が始めるにもっともふさわしい時期ということになる。

 

才能と精力を他人のために用いる時だけ、自らも幸せになれる。

 

そういやファウスト博士が全知全能を望んでいたな。

それでどうなったっけ。

 

ジャムを口に入れたとたん、めまいがした。

 

朝、目が覚めた時の不安感は消えたようだ。

頭は重いわけではないが、気力が全くない。

 

しかもこの場合、時間が解決するのでしなく、むしろ時間が過ぎるほどどうにもなくなるという。

それでいて、今何したらいいのかわからないという。

 

もうIllustratorも忘れちゃったよ。

 

妄想という手段はとるべきではない。

つらくても現実の手段で対処すべきだったのに。

毎度妄想で逃げてきたから、現実の対処の仕方がわからない。

それでつらいことがあっても、逃げ出すことしかできなかった。

 

これまでつらいことも堪えてきたのも、いつか力を得て世界を変えられるからだと信じてきたのに、それがただの妄想とわかって、生きる意義を失ってしまったんだな。

 

ゲームや漫画の物語の中で、胸のすくような話を見てしまうと、それで自分の心もすっきりしてしまい、現実の歪みを直そうとしなくなる。

 

脳は自他の区別をつけるのが苦手らしい。

 

しかし、所詮は人の身で何をどうしようが何も変わらないのかもしれない。

 

どれだけ活躍しようが、脳が健常者なら、どこかしら不安や後ろめたさがあって、堂々としている人はむしろその不安を振り切るためにやっている気がする。

それは自分も経験しているし。

 

それで得るものってなんだろうな、所詮は優越感に行きつくだけ。

そんなもののために、自他ともに苦しんでいるのか。

 

例えば、活躍していた頃の不安、賞を受けた時の不安を、誰も理解しなかったと思うが、それは、自分が隠していたからであり、それと同じく、自分が活躍している人を見て羨ましがっているが、それは彼らが隠しているものを見抜けないからにすぎないのではないか。

 

自分が都心にマンションを買ったとして、それで鬱が治るのか。

治るとも思えんが。

活躍したくらいで、まともな魂になるのか。

治るどころか、躓いたくらいだ。

 

しかし、自分が半世紀かけて求めていたものが、ことごとく虚しいものだったとは。

自分の周りを見回せばわかる。

自分が求めてきたものの結果。

この部屋が。

 

しかし、自分はさまざまな人を見てきたのに、それを見て、自分の行動の反面教師にできなかったな。

 

むしろ小説とか漫画の主人公が、自分の実際の行動に悪影響を与えてしまった。

自分が無茶をするときに、小説や漫画の人物を参考にしてしまった。

 

なんかもう他人のストーリーなどどうでもいいわな。

もう主人公面などする気がないわ。

 

しかし、身の程をわきまえてさ、二十歳から生きたらそりゃまともになるけど、でも、やってみることが重要なんじゃないのか。

合理的に考えすぎだろう。

やりもせずに、わかった風でいて、それはそれで傲慢になりそうだが。

 

御伽噺を本気にするという。

 

しかしもう何もないな。

過去の事は考えてもつらいだけだし。

これから何ができそうというものでなし。

 

しかし、今まで望んできたものが悉く虚しいものだとはな。

 

この世にいるうちに気づいただけで上等だわ。

 

鬱が治らんな。

しかし、思い返せばつらいことばかり。

 

今残っているものが本来の自分なら、どのような欲が残っているのか。

人生は、それだけで良かったのではないか。

ここまでやることがなくて残ったものを見出したからわかったわけで。

 

これでこそ情況に対抗できたんだと思う。

 

これまでの人生は、何よりプライドを大事にしてきたわけであるが、しかし、プライドを保つには、最初の良かった時が基準になり、そこから下がることを認められない。

実際は、下がって、もう以前のようにはなれないのに、それを基準とする。

そうなると、現実を認められなくなり、一段低い結果を受け入れられず、結果が出るのを先延ばしにする。

例えば、成績が下がって高校で早慶の附属に入れなかったから、進学校に進むという具合。

 

それで、プライドを重視したから、つまりマウントを取りたいがために、どんどんハードルを上げて、自分のしたいことなどそっちのけになってしまった。

 

その境涯から利益を得よう、活躍しようなどと考えていたから、ますます境涯に嵌っていた。

『欲しい』という欲望が商人の儲けになるように。

 

そんなブライドなど捨ててしまって、シンプルな望みのためだけに生きていればよかった。

それこそ、悪意をかわし、しなやかに生きるコツではなかったか。

多くの大衆はしがらみの中生きているのに、自分は自由に欲のために生きていられる。

それこそ今の日本に生まれた意義があるというものだろう。

 

今まで逆だったのではないか。

うまくいかないから自分を責めて、欲望を消す方向に行っていたろう。

それで、むしろ歪んだ欲望が出てきて、世界か厭になっただけ。

 

世界が厭なら欲求に忠実に生きたらいい。

もちろん、社会のルールの中で。

変な倫理や道徳はいらない。

 

ルールの中で動くから自由なのである。

 

なにかをしよう、得よう、自分の能力を生かして活躍したいとか、どこまで行っても傲慢ということなんだろう。

傲慢、嫉妬、怒りは許されず、むしろ貪欲、怠惰、飽食、色欲のほうが、傲慢や嫉妬、怒りが入らない限りは許されるとしか思えない。

 

そのうえで、謙遜し寛容になれば済んだ話。

 

宝くじで十億円当たったら気にならないものは全て嫉妬である。

 

嫉妬は神に任せるがよい。

 

なんか、欲を掻けば掻くほど、意地の良くない他人のためになっていた気がする。

 

もう過去はいいよ。

考えるのも面倒になってきた。

 

この状態ということは、このところ考えていたことは間違っていたということだわ。

 

もうつまり、これまでの魂では何をどう考えようがどうにもならぬ、

 

これがずっと培った自分の魂ということだよ。

今まで出一番ひどい魂の状態だと思う。

 

陳列棚があると、そこから選ばなくてはならない気分にさせられる。

それでどれだけ無駄なことをしたことか。

商店でもそうだし、また今ネットにあふれている『お得情報』とかもそうだろう。

 

権利でしかない、むしろ必要でもないのに、どこかしなくてはならない義務に感じてしまう。

 

もうこういうこともやめないか。

 

こんなこと考えている自分より動画をせっせと作っていた自分の方がはるかに上等だわ。

 

反省をやめろ。

 

反省癖がついて、反省をしているようで自分を慰めているだけ。

 

つまらぬ欲望でも叶え続けたら幸せだろう。

幸せとはその程度の話で、悲しき姿を取ろうとも本人は幸せなのである。

 

王様気分をやめるのも、単なる処世術、単に他人をかわすだけ。

 

要するに、職務放棄しなければいい。

 

ここまでならいいだろうか、この辺までならとか、探るのを辞めて放擲しろ。

 

自分の敵(だめにすもの)はなんだろうか。

自己顕示欲

承認欲求

損得勘定

節約

 

味方はなんだろう。

知的好奇心

一般教養

 

何の希望もない大晦日だな。

 

ここまで希望がないのは初めてか。

 

スーパーで大根を買ったはずがない。

籠に入れっぱなしで置いてきたのか。

 

ああ、どうしよう、正月になっちゃうよ。

 

鬱治っていないじゃん。

 

しかしやはり何十年も付き合ってきた魂とおさらばするのは悲しいものがある。

それがどれだけ情けなくても。

 

もう義務もないのに、やりたいことがないのが恐ろしい、この一年、何もしていないわ。

 

神社でお願いをして叶ったことがない。

何かに頼ろうとする時点で間違っているのか。

願い事でさえ、欺瞞が混じっている。

 

自分の意志でしたことに対して、後悔に沈んで、挙句、普通のサラリーマンやったほうが充実した人生を送れた、とか、鬱になっているわ、それ。

今に始まったことじゃないけど、自分の価値を否定し、認めないから、躓きがダメージになるんだよ。

 

一番の問題は、自分がもう自分に対してだけだとしても二十七のふりをすることができなくなったということ。

 

「答えのない大抵のことは哲学にできる」

自分は答えのないことを繰り返し考え続けただけ。しかも体系化できる能力も勉強もしていないから、

想念が流れてゆくだけ。

 

「うぬぼれは蛇のように忍び寄ってくる。そして、突然かみつく」

 

「わたしは読書をする。たくさん読書をして、多くの機会を逃している」

 

「ちやほやされたいか?

それはなぜ?

 自分自身でその理由がわかっているか?

 更にその先に目的や目標はあるか?

 無いならその欲求はただ身を滅ぼすだけだ」

 

何事も執着して重荷になってはいけない。

 

既に虚栄という最も恐ろしい病に侵されている

 

過去を振り切るにはどうしたらいいんだ。

過去の欲望や夢すべてと、虚栄心を捨てること。

我欲を捨て、己の能力を人のために使い、行動し続けること。

 

そもそも過去の欲望は固より、夢でさえ、その根に虚栄心がある。

夢は虚栄心を栄養とした歪んだ花を咲かせるしかなかった。

 

恋愛も虚栄心を含んでいる。

 

欲望をなくそうとすることも傲慢というもの。

 

『助けたい』というのも、また傲慢から生じている。

 

見るもの聞くものいちいち人を疲れさせる。

時代についていけないわ。

 

自分でなにかを決め込むというものが傲慢とみなされるんだろう。

意志を捨てろということなんだろう。

 

本当に、自分が欲しいと思ったものは、手に入らないか、手に入ったとしてもたいしたものではなく、むしろ罠に近いようなものが少なくなかった。

 

むしろストレスが高じてくると余計に傲慢になるというか、欲深くなるんだよな。

 

あんまり自分が人の人生に責を及ぼすようなことをするなよ。

誰に対してもアウトサイダーでいないと。

 

仕事を通じての協力関係ならいいけど。

誰かに対して『神』になろうとするのが傲慢なんだよ。

 

責任感、使命感、そういったものに突き動かされて、躓いてきたんじゃないの。

 

『次』などないとか言って、今が変形された『次』なんじゃないの。

 

いい加減簡単に成し遂げようとするのもやめておこう。

 

プライベートで成し遂げようとしない、ものを持たない、それで振り切れるよ。

道元がしたことだし。

 

いや、単に自分の欲望で動くだけの実力がないだけだし。

それを悔しがっているだけ。

今だって、別に叶えられる範囲なら叶えられるだろう。

 

分をわきまえて動いたらいいだけ。

 

なんで今回は大丈夫と思えるのか。

 

いい加減、自分がなんでもできるという妄想をやめたらいいよ。

根本はそのせいだから。

 

口実。

本質からずれ始める。

 

『何々だから』という口実で、虚しいものを手にしようとしたり、わざわざ遠回りする。

 

『やっぱりこの人も同じだ』と思われたくなければ、『救いたい』などと思わないことと、

アウトサイダー性を保つこと。

 

なんか、今のメディアは見ていて疲れるといったけど、自分もなんか疲れる存在なんじゃないのか。

教養の話とかさ、仕事の仕方とかさ、そんなことほとんどの人は雑談で求めていないだろう。

あと、過去のことばかりだし。

 

むしろ人が求めているのって、自己啓発的な励ましの話だったり、肩こり防止とか、そういう健康の話だったり、あとはグルメとか旅行とか音楽とか娯楽の話だろう。

 

特定の人を諦めるという話よりももっと根本的な話で、王子様気取りで特にお金を注ぎ込んで救った場合、その感謝がずっと続くわけではないし、最終的にはがっかりされておしまい。

このパターンに終わるだけだからやめておけということなんだ。

 

特にがっかりさせるというのが毎度のパターンで、自分はこれが最も堪えるだろう。

 

それでもいいなら注ぎ込んだらいいけど、いいわけがないし、それならまだ投資でもゲーム感覚でしたらどうか。

 

哀しいけど、それが実力だろう。

 

ノリで生きていればいいんじゃないの。

あまりに重く考えすぎだわ。

軽くしないと。

 

純情な人が欲望を持つと、利用されやすい。

 

下手の考え休むに似たり

 

やっぱり、性格は変わらないんだな。

なんとかして、行動によって、自分の性格の弱点を出ないようにする。

道元の言っていた、片時も油断できないということ。

 

なんか、頭が重いな。

 

自分の欲望を一度、直視する、

次に、その欲望は可能なのか、

次に可能ならどのように可能なのか、

その手段は今、もしくは近い将来の自分にあるのか、

さらにそれを手にした場合に、状況はどうなるのか、

自分の重荷になるのかならないのか、

それを考えつつ、行動する。

 

仕事も同じ。

自分は王様気分で職場にいるから、周りに迷惑をかけてしまう、

同時に今や自信もない、

だから、簡単でミスのない仕事をする。

それじゃあ、魂の更生にならないよ。

単にこの世を去ることで、逃げようとする姿を取ろうとしているだけ。

 

そうじゃなくて、少し背伸びするような仕事をして、そこで懸命にやりながら、なお増長せずに、出し惜しみをせず、お金以外に報酬を求めない姿を取るから魂の更生になるんだよ。

 

自分がすべきで、できなかったことをやるだけ。

逃げるんじゃなくて。

 

それが本当のかっこよさなんじゃあないの。

欲望を抑えて歪むのではなくてさ、欲望と真正面から向き合ったうえで、『まあいいか』と思える軽さを持てることが。

 

仕事も、『期待以上』を示すといいながら、自分のやりたいことをやろうとするのではなく、『100を100』やって、お金以上の報酬を求めない、尊敬されずとも拗ねないということ。

また、新たな仕事を進められたら、断らずにやることだ。

 

今の世界は、フレンドリーで健全なものしか受け入れない。

フレンドリーは共感されるということ。また優しいということ。

 

こんな考察、何の役にも立たないよ。

 

まともな人生のやり方を知らないできてしまったのか。

その場その場でやるだけという。

だから、明確な目標がなくなると何もしなくなるという。

勉強も小説もむしろ働くことや、受験勉強から逃げるための口実に過ぎなかったという。

 

仕事があるのがどれほどありがたいか。

普通に暮らすのがどれだけの気遣いと慎重さと勤勉の上に成り立っているか。

 

損得勘定で動くなよ。

『独り占めしたい』というのは、結局、得をしたいということなんだろう。

幼稚なだけ。

 

しかし、まあ、自分の欲望は真正面から見ないと。

何が最も欲しいのか。

何かを口実にしていないか、とか。

 

ある目の前の欲望が出てきた場合、それは一番大事な、たとえばお金、それよりも大事なのかということ。

 

結局、自分はそれでよかったんだな。

お金が大切、勤勉に働く、職務放棄をしないということは、小児のころ見てきたはずだったがな。

 

人並みのことを求めると悲しみが待っているだけ。

 

見栄も野望もない自分も見てみたかろう。

 

『ペルソナ能力は自分の心の本音、シャドウと向き合って制御する力さ、

制御できているんだから歪まない、自覚的な個人差はただの個性だ。』

 

自覚的で制御している欲望、それが個性。

 

自分の欲望を正面から見ず、様々な欺瞞で糊塗するから、目の前にその機会が現れた時に、制御できなくなる。

 

お金も貰うことを考えるのではなく、稼ぐことを考える。

お金に結びつける。

できないのなら、それは欺瞞で、経済を大切にすべきだろう。

 

どうも、ネット中毒は治っていないが、鬱は良くなった気がする。

気力も戻ってはいないが。

ここで、一度、フラットにして、ただ仕事をするだけにしたらいいよ。

 

鬱は良くなったのかもしれないが、どこか、精神がざわついて、自分がやれることがわからないままになっている。

仕事で言えば、エントリーして、面接まで行って、ようやく違うな、と思える状態。

 

実力を発揮したいじゃなくて、やりたいものをやったらいいよ。

 

結局、普通に暮らして、中流の収入を得て、世の中の現象を高みの見物していられるのが、勝ち組というものなんだろう。

 

今考えていること、これから考えていることも、どのみち間違いばかりなんだろうな。

 

今、ノイローゼになっている。

仕事辞めた後悔とか、

収入とか、

この先の希望のなさとか、

そういうので。

 

こういうものをすべてリセットしないとわからないんじゃないかな。

 

人はパニックになったら知能が下がるから。

 

なんか、世の中のものについていけないな。

 

好きじゃないことは続かないし、お金にもならんと思うよ。

 

あまりやけになって仕事を探しても仕方がない気がするけど。

 

いつも考えていることに脳はなってゆく。

 

こんなことばかり考えていたら、不毛な重箱の隅をつつくような『カーゴカルト』用の頭になるだけ。

 

なんか、いやなことを次々に思い出すよ。

 

精神がつらいときに自分に嘘をついてはいない。

 

人間扱いしてもらえる場に行きたいんだろうな。

 

自分の人に対する依存ぶりも信頼できる人がほしかったんだろうな。

 

鬱になると肉体を無視する。

こんな意見ばかり述べていても何にもならない。どこにも到達しない。

 

自分の価値観を持たないようにされてしまったのか。

自分の価値を自ら捨てるように仕向けられたというわけか。

 

怒りで思考のブレイクスルーが起きることもある。

過去を断ち切ろうと、物を捨て、人間関係を捨て、残ったものはトラウマだけだった。

 

食べたいものがないと、お腹も空かないな。

 

ああ、もう女々しいな。

過ぎたことをいつまでも愚図愚図と悔やんて、その時に戻りたがったり、今現在、できないことを愚図愚図と嘆いたり、そんな状態で将来の欲得さえ心配している。

 

ずっとこれだわ。

広い意味なら中学くらいからずっとこれだわ。

 

活躍を夢見て、好きな人に好かれようとして、また周りから何も言われないようにして、残ったのが、トラウマか。

 

三十代のとき、小説を書いていて、何もしないでいた時、毎日毎日テレビを見ていたよな。

それで夕方になってごはんを食べて、寝て朝起きて洗濯して、その繰り返し。

高校の時も同じ。

 

何も変わっていない。

 

偉そうなのも変わっていないし。

 

自分が間違ったことだけ、それ以外に何もわからない。

 

人は願いを叶えた後、いつかは絶望とまで行かずとも、落胆を味わう。

 

落胆でとどめられるか、絶望まで落ち込むか、人格の強さによる。

 

何も望まず、今あるものを喜びとともに利用する。

 

人間は、尊厳よりも安寧を求めるんだな。

 

しかし、こんな有様じゃ、今まで、期待してくれた人、親切にしてくれた人、世話をしてくれた人、すべてを台無しにしているようなものか。

 

毎日、何もしていないが、精神をすり減らしているから、すぐに眠られる。

 

しかし、今、儲かるのが虚業といわれているものなのか。

大衆から幅広くお金を集めるのがいいんだろうな。

 

活躍している人の記事を参考にしようと読むが、自分のできなさ加減を思い知らされるだけでいやになるな。

 

小児のころ、勉強して、安定した人生を送るべきだった。

 

じっとしていても、自分の性格は変わらない。だったら今の自分は何ができるだろうと考えたときに、向き合って自分をとことん知ろうと思った。なぜこんな状態になってしまったのか、って。

 

自分の実力を示すようなことも楽しいけど、

それって、やっぱり個人的なものにとどまる。

作品はしょせん自分だけのもの。

 

でも、誰かと協力して作ったり、誰かに教えたりしたものは、自分だけのものじゃないし、賞賛というよりも感謝をされるし。

 

賞賛よりも感謝。

 

人はないものねだりをするから、じゃあ、安定を求めて生きたら、もっと自分に正直に生きればよかったと思ったんじゃないのかな。

自分は自分の環境、境涯で、正直に生きてみた。

『正直に生きるプラン』を半世紀かけてやってみた。

そうしたら、叩かれたり、躓いたり、情けない思いをしたりしたわけで、ためしにやってみただけ。

そうすれば、もう、その方面(プラン)はいいということになる。

 

じゃあ、今度は別の『プラン』ということになる。

 

自分に正直に生きて後悔しないというのは、試行錯誤をしなかった人生が、やはりどこか物足りたような物足りなさを感じるからじゃないのか。

 

自分を否定してきた相手、自分は良くないことをしたんだという後悔、

しかし、自分は本当にそんなに良くないことをしたんだろうか。

良いことを全くしなかったろうか。

自分は助けたり、感謝をされたことが全くない人間なのだろうか。

 

自分の欠点や欲望がどういう状況で湧き起って、どういうときに自分らしくない姿を取るのか。

自分らしくない姿はどうして周りから叩かれるのか。

それを自覚していれば自分の欲望や欠点も制御できる。

制御できる欲望は自分の力となる。

 

自分が大切な人を救えなかったとして、自分の無力を詰り、世界を呪うのが自分のやることなのだろうか。

 

普通に考える。

人生迷うが、普通に考えたらわかる。

欲しくて仕方のないものも、普通に考える。

本当に手に入るのか。普通に考えて。

 

仕事場の人間関係の躓きで、一気に自分が否定された感じがして、やめた後、本来自由になったのに、鬱になったのだろう。

ありのままの素直な自分を受け入れられなかった、それこそ小児からの苦しみが。

 

鬱になると自分に対して無神経になる。

自分のつらさで頭がいっぱいになることに慣れてしまう。

 

後悔の原因を作ったのは、確かに自分の判断力のなさもあるだろうが、

今の自分にできることは、それを許すことなんじゃないのか。

 

許す方がなじることよりも難しいのは、自分に対しても同じ。

 

『しなくてはならない』ことはもう何もない。

そう言い聞かせる。

 

そう、他人の意見に引きずられてつらい思いをした過去は文字通り、過ぎ去ったものなのだから、優しい心で見送ればいい。

つらい思いをしてもなんとか生きてきた自分に対して。

 

心無い人は、何かにつけて人を幸せにさせないような言動を取ってくるが、気にしなくていい。

もうそんな時間はない。

 

なんら遠慮なく、照れもせず、自由に幸せを感じていい。

自分を責めることや幸せになることでうしろめたさを感じなくていい。

 

普段から明るく陽気にしていることが、一人の人を救うことになる。

 

幸せになるコツは幸せなふりをすること。

楽しくなるコツは楽しそうなふりをすること。

 

ただ、そのコツは物質や自慢といういわばお飾り的なものではなく、微笑みやきれいな言葉で人を褒めたり励ましたりするような、人間的な優しさを用いたものの方が効果がある。

自分の内面から出ているから、魂がきれいになる。

 

鬱が治って楽しいことを振り返る。

・やる気のある人との仕事→自分がやる気があればやる気がある人が近づいてくる。やる気を出して叩かれるような場は転職した方がよい。

・気の合う人と一杯やる→懸命に仕事をするほど楽しくなる。

・ユーモアや人を励ますようなものを書くこと→自分の場合はむしろ仕事を通しての方が自我が出ない。

・ひととのごはん→懸命に仕事をするほど楽しくなる。

・自分の能力や存在を人を励ましたり、成長させたり、困難を乗り越えたりすることに使うこと。

仕事を通ししてするのが一番良い。決して自分を相手に与えるのではない。→仕事を懸命にすること。出し惜しみをしないこと。

 

これくらいだな。

じゃあ、これをやっていこうよ。

 

小説は、結局、文句をユーモアで包んでいただけだものな。

だから反応が全くなかったし。

小説を書いた後の、あのやりきった感覚もむしろつらい過去に復讐し終えた感覚だったのかもしれないな。

 

曲がりなりにも商業誌で掲載されて、SNSに全く反応がなかったのも原動力が復讐心だったからな。

 

その仕事、作品は何が原動力になっているのか。

恨み、腹立ちまぎれ、

出世、名誉

この辺のものは結局どれだけ上手でも世の役にも立たないし、むしろ本人の魂をむしばむと思われる。

 

世の中は華やかなものが目に付くように仕向けられているから、うらやましくなるのは仕方がないけど、シンプルに生きた方がいいよ。

 

人を励まし、手助けするのが一番楽しい。

自分が結果を残さなくても、その人がしてくれるかもしれないし。

 

今の時代は一昔前と違って、生活費を稼ぎながら好きなことができるし、さらには出版社やテレビを通さずに公けにもできる。

幸せになりやすい時代なのに、むしろ鬱になる人が多いのは、情報過多に尽きる。

身近なところでは同級生や親の一言や行為などがある。

心無い人は、何も考えずに人を詰るようなことを言う。

どこか不安がある人はそれを気にして、また一つ自分の人生を狂わせてしまう。

 

一言何も考えずに人に投げつけるのが、簡単かつ快感である行為なのは、ネットの掲示板が動画中心の時代になっても一向に減らないことでわかる。

その動画でさえ、コメントだらけなのである。

 

親が子に、上司が部下に、上級生が下級生に、また同級同士でもより優しい相手に対して、無責任で傷つける一言をなんとたやすく気軽にいうことか。

 

それは、相手の幸せな世界に罅を入れる行為になるのに。

人はそれが気持ちの良い行為だからやめられないのである。

結局、一言投げつけるような物言いをする人は、自分が常に焦燥感から精神が痙攣しているから、まともな会話の言葉をはぐくむことができないのだろう。

 

またWEBなどを通して、活躍している人を見る、またはアドバイスしている人の話を聞く。

やらなきゃいけない焦燥感で頭がいっぱいになって、本来は、好きなことをするための情報収集がいつの間にかお金儲けのための情報収集になり、やる前からプレッシャーになり、またやることの多さに嫌気がさしてしまう。

 

人は最期の時、ようやく穏やかになれるらしい。

それは、もうこの世の競争だとか栄誉だとかから解放される、損得勘定からの解放なのだろう。

 

自分の周りをお気に入りモノだけでそろえる。

特にプライベートは。

服、家具、人間関係、

それで楽しくなる。

 

今まで自分の原動力は、損得勘定だったな。

進学も向いている、向いていない、やりたいことがあるというのではなく、より偏差値の高いところに入りたがる。

自分の偏差値よりも高いところなら得をした。

低ければ損をした。

 

人生でも、つらい目にあったことを『損』と考え、それを『得』にするにはどうしたらいいのか。

 

世の中のものをそうした自分の慰めか、得するものはないかと目を皿にしている。

常に『得したい』と、中腰である。

そうしているうちに自分の好きなこともつまり自分のことなど放ったらかしになる。

 

逆にいえば、意地悪とか復讐とか損得じゃなくて、人を励ましたいとか、楽しそうなことをしたいと思っていればいいんじゃないの。

そういう状態なら、それなりの扉が開くし。

意地悪な精神でいたら、それ相応の扉しかないだろう。

そもそも人は自分のもとめている情報を知りたがる心理があるからそれも当然のこと。

 

清算とか今まで考えて来たけど、『幸せになるには』と考えれば、結局、行動は同じ。

人を励ますということを考えれば、おのずと意地悪なことはしないだろう。

 

認知の歪みをたださないと。

 

認知の歪み→清算とか考え出す。

損得勘定→損したくない。得たい。人が得ているなら自分も得たい。

結果、自分がすでに得ているものに価値を見出さず、簡単に手放してしまう。

損得で動いているのに、損をするようなこうどうをとってしまう。

 

幸せになるには、を考えれば、まず、自分の周りに何があるのか。

どれを捨てるというよりも、どれが必要なのか。

本当にそれは必要なのか、ひとつひとつ考えてみる。

 

人に最も影響をあたえるのは、楽しみだけを求めてする行動。

 

人間を幸福にするものは何か。

自己を幸福にするために人間は何をなしうるか。

 

人でも物でも欲しがって、様々な手段を講じで手にして自分の慰めにしたがる。

それは普通の欲望に思える。

しかし、慰めで動いて、したことや買ったもので、良かったもの、せめて慰めになったものはあったろうか。

手にしたときはそうかもしれないが、後にすべてが苦しみの種、害にまでなったのではないのか。

 

恋愛も漫画やアニメもゲームもブランド品も。

そのときすべきことを放棄させ、自分の大切なものをわからなくさせる結果となった。

 

先のことを考えず、今を懸命に生きる。

それなら慰めのものなど考える間もないはず。

 

小児のころから人の顔を窺って生きてきたから、。

自分は情況ばかり見て、相手を見ていないのかもしれない。

 

しかし、意地悪が出てきて、相手の欲と違うことをしたり、上の者にいらぬ反発したりとか、そういうことできるということは、相手の欲を見抜いているんだから、そうしてあげればいいよ。

 

短所であった自分の性質を長所に変える。

相手の望みを見抜くということ。

人がいやなことを言わないこと。

・王様気分、王子様気取りをやめる

・意地悪をしない 自分に対しても

・慰めをやめる、妄想をしない・今すべきことを

・正しい言葉遣い。

・否定的なことを言わない。意地の悪い行動をしない。

・奉仕の精神を持つこと

・能力を他人のために使うこと

・仕事をし続けること

・慰めを求めない

・遠慮はしない・照れない

・頂けるものは頂くが自分から求めない

・機嫌よくしている

 

それを懸命にやることが自分にとっての懸命に生きることになるんじゃないのか。

これを『清算』として行うのではなくて、自分が楽しくなるためにする。

過去を水に流すことは、何より自分を許すこと。

頑張って、必死にやったんだろう。

後悔をしないこともまた自分を許すこと。

自分を許したら、自分が楽しくなるために行動をすればいいよ。

 

自分も人を苦しめたかもしれないが、自分は全く人に親切にしなかったのかといえばそんなわけはない。

 

差し出す欲望でさえもう何もない。

 

『今はもうできないこと』にこだわり引きずる行為も楽しい行為とは言えない。

慰めはその時ばかり甘く感じるが、精神の肥大化につながる行為である。

 

『だって今生きているんだから』

理由はそれだけでいいよ。

 

欲をかくな。

そもそも今まで自分が望んだものが手に入ったことがあったか。

あったとしてもそれは価値があったのか。

それを考えればわかるだろう。

 

なにをどう考えようが机上の空論をこねくり回しているだけだわ。

 

やりたいことと、自分の現況と開きがありすぎで、どうにもならん。

 

20代株初心者向けのテンプレ

 ・まず生活資金30万を確保する。

楽天証券でつみたてNISAを始める。SP500インデックス投資信託を月33333円、ifreeNASDAQ100を特定口座で16667円楽天カード決済でつみたてる。

・ボーナスは全部NASDAQ投資信託に入れる。

・基本自炊のみ、外食はしない。スーパーは西友を利用。

・キャリアから格安スマホに乗り換える。

東京電力エネオス電気、東京ガスエネオスガスに切り替える。

・風俗と酒は基本NG。

・彼女を作らない。彼女いるなら損切りする。

Amazonプライムに入る。

・支払いはカード、クレカのみ。現金は基本NG。

・マイナポイント事業に申し込む。(5000ポイント還元)

楽天市場ふるさと納税をする。

楽天証券でイデコを始める。SP500インデックス投資信託を月23000円つみたてる。

 

でも、ちょっとこういう人生も試してみたかった。

 

しかし、そういう人生の方がたやすかった気がするのにな。

どうしてハードモードを選んだか。

やらないと気が済まないタイプだからだろう。

 

とにかく思いが強すぎるんだろ。

 

分散させないと。

 

緊急事態宣言は、過去など関係なしに現状を変える必要あるからされるもの。

 

もう過去は関係ない。大事なのは現状。

 

でもまあ、うまくいかなかったとはいえ、人間がどういうものであるか、それはよくわかった。

知らなくてもよかったのだろうけど。

 

王様気分は、自分の代わりはいないという周りの持て囃しを真に受けること。

 

自分の代わりなどいくらでもいるわけだから、日々成長して、昨日の自分を超えないと。

 

自分は一途な人間かと思っていたら、そうではないようだ。

昔、プロ野球選手とテレビのアナウンサーの夫婦が『生まれ変わったら別の人と結婚したい』と言っていたのを驚いて見ていたけど、今なら、それがわかる気がする。

 

自分は自由にさせてはいけない。

仕事をする。

まともな人とかかわる。

休みは読書か、勉強、

余ったお金は投資に回す。

ネットはむしろスマホだけ。

これがいいんだろうな。

 

耳を塞いで両手が塞がっているときの方が勉強がはかどるとか、いかに、自分の意思がろくなことに使われているかがわかる。

 

今の時代は、この世を去り行く人と接する機会が少なくなっているから、皆、後悔ばかりして、穴埋めしたがっているのか。

 

皆、自分を許せない、自分を好きじゃないのかな。

 

負い目をゆるすことは、自分の人格性の放素である
シモーヌ・ヴエーユ

 

自分のことを許さない者もいるかもしれない。

しかし自分で自分を許さないと、今、かかわっている人たち、これからかかわる人たちをないがしろにすることなんじゃないのか。

 

もちろん、前と同じ行動をとるのは良くないが、違う自分になるのなら、むしろ世の中は歓迎だろう。

 

自分はつまり『智慧の実』を食うといけないんだな。

知らなくていいんだよ。

 

現在に全力で、過去はもちろん、先のことも考えてはいけない。

しかし、そうなると、楽しい仕事をしないと成り立たないが。

 

『今度はうまくやる』の意味が少し前と全然違っているのは、自分の欲望を真正面から見ることができるようになったから。

何が大事で何がいらないものなのかわかったから。

 

自分が世界とどのように付き合えばよいのか、少し見えてきた気がする。

 

過去のことも自分が考えなくていいよ。

先のことも何か欲しがって企図する必要もない。

 

自分がどれだけ懊悩しようとも、必要があれば縁ができる。

ただそれだけ。

 

自分で選べないというのはストレスだけど、自分で選んだ結果、もっとストレスになったから。

 

昔は自分が承認欲求を満たす側でなく、満たされる側になりたくなった。

それで仕事を辞めてしまう。

つまらん欲望だ。

 

なんか、英語の勉強も現実逃避なんだろうな。

今、やっとしても英文解釈教室なんてレベル高すぎだし、まだDUOをした方がいいのにな。

 

そういえば、中学のころは新聞の株式欄見ていたのにな。

何で、その興味がはぐくまれなかったのかな。

 

自分がしていること、しようとしていることを茶化すやつの意見は聞かなくていい。

 

人が最期に欲望を捨て、自分を許し、感謝をして過ごすのは、もう人生が終わるからか、事実上すでに終わっているからか。

 

インターネットも15年くらい前までの個人が好きで作っているようなサイトが多かった。
広告もなくて、ましてアフィもなくて。
知識を得るにもそういうサイトの方が安心して、集中できた。
Youtubeもせいぜい安心して見られたのは10年くらい前までで、今は広告やその裏で動くお金が気になって、安心して見ていられなくなってしまった。

皆、よく平気で見ていられるな。
鬱じゃないからかな。

 

人が欲望を捨てられないのは、いつまでも生きているつもりだから。

『足らない自分』、『うまくできなかった自分』を許せないのは、これから先、そのような欠点がある自分として生きていくのがつらく、不安だから。

 

しかし、もうすでに人生は終わったのだと考えれば、できない自分も許せるのではないのだろうか。

 

そう、そして自分はまだ『生きるつもり』でいたわけだ。

 

もう終わりという自覚があれば、好きなことをするんじゃないのかな。

 

今、英語を勉強しても何のモチベーションにもならないんだよな。

だから、遅々として進まないんだろう。

さすがに何のモチベーションもないものは無理なんじゃないの。

 

バラ色の幻想をなかなか捨てきれなかった。

 

今の自分さ、ほとんど唯一の取り柄の『楽しそうにしている』ことさえしていないな。

 

人に頼れなければ、ただの人であり、人間とは呼べない。

 

もう、この世でやりたいことがもう代替行為なんだよな。

すべてが。

だからこれほどお金が欲しいんだろ。

お金はあらゆる代替行為を可能にするから。

 

もう自分の人生などどこかへ行ってしまったんだよ。

 

欲に目がくらむのをよす。

意地悪な言動をしない。

楽しそうにしている。

簡単に言えばこれだけの話なのにな。

 

こんな、魂の抜けたような抜け殻のような人生を送るのか。

 

多かれ少なかれ悲しみは生ずるだろうが、そこは切り替えないといけない。

 

自分は飽きっぽい、欲望も忘れっぽいし。

 

まだ、自分は今度こそ完璧に生きられると勘違いしている。

単にあまりに効果のない戦術を変えるというだけで、これでもう負けなしというわけがない。

これからも試行錯誤は続くんだよ。

生きているんだから。

人生はそういうもの。

ゲームの意志のないスキルやスペックのみあるような人形を操るゲームとは違うんだよ、人生は。

 

かなり大幅に変更するけど、何も白旗を上げろと言っているわけではない。

 

これからだって何度も躓くんだろう。

だからこそ、好きなことを持たないと、少しでも自信のあることを続けないと、とてもじゃないが、この世界にとどまれなくなる。

 

自分を理論的に説得しなくていいんだよ。

 

『幸せになろう』

『楽しいことをしよう』

『うれしいことをしよう』

これを自分に言い聞かせる。

脳は最初は半信半疑に聞くが、そのうち信じ込むから。

 

 

『幸せになろう』

『楽しいことをしよう』

『うれしいことをしよう』

これらに理由はいらない。

あえて言えば、まだ生きているから。

 

幸せになることや、自分を許すことを論理的に考えなくていい。

仕事や勉強じゃないんだから。

 

夢で自分の情けない姿を見るたびに、謙遜の美徳は、自分がしようとしても卑屈になるだけなのか。

 

自分は経済活動において、生計を立てる手段よりも消費活動を大事にしてしまった。

 

You are best fitted.

自分も人もこれを言われると張り切る。

 

ちょっとした厭なことがあったら、心の中で『幸せになろう』、『楽しいことをしよう』と自分を言い聞かせると、少しだけ憤怒が抑えられ、自暴自棄の行動を防げる。

 

『幸せになろう』と考え続けることで最適な選択ができるのではないか。

今までのように『ネタ集め』とか、おそらく心の奥底で思っていた、自分を苦しめることで周りに構ってもらおうとしたり、自分は大変なのだから、気を使ってほしいといった、悲しい願望からくる選択を避けられるのではないか。

 

否定的な人生観を繰り返すことにより、それを信じてしまい、立ち止まって、ではどうすればよいのかとゆっくり考えようともしなくなる。

 

いろいろなことを身をもって知るから、他人にも伝えられる。

 

これからも、物事の良い面を見よう。

 

悪い面を見たり、意地悪が向いていないよ。

 

やっぱり『次』のこととか考えてしごとを探していたな。

スキルを身に着けて、とか。

 

別に自分は悪くないだろ。

じゃあ、周りがまともだったのか、といえば、そんなわけはない。

 

だからもう、自分を許していいんだよ。

 

自分を責め、鬱になる。

それさえ、慰めの行為に他ならない。

 

歯止めがなければ人間の欲望は止まらなくなるということわかった。

 

何か職務的なことで好きなことを探していたが、そうじゃなくて、もっと大きな視点から、職務にこだわらず、その時々でできる仕事をする方がよほど気楽で自由になれるんじゃないのかな。

 

受験もそうだけど、先のことを考えても仕方ない。

むしろ先のことを考えるから憂鬱になり、ストレスで慰めのものを求めだしたんだろう。

先のことを考えないから、今、将来そっちのけで慰めに走るのではなくて、

先のことを考えるから、ストレスで、慰めに走るんだろう。

なぜストレスになるのかは、自分の理想と現実の実力との差に乖離があることを自分でも多かれ少なかれ感じていて、

しかし、同時に自分の実力が目的に足らず、したがって、一段も二段も下がる暮らしや目標、将来の進路にしなくてはならない怖さを認められないから。

 

性格が変わっていない。

ずっとその時その時の過去を引きずって、穴埋めしか考えていない。

 

この一年も全く自由になれなかったのは、

毎日毎日、むしろ先のことを考えていたわけで、同時に過去の穴埋めとしての未来を妄想していたわけで、

先のことなど考えずに、できそうなことをしていればそれで済んだのにな。

 

それは必要なのかを考えてお金を使う。

 

稼ぎたかっている人、有名になりたがっている人が商売人、ペテン師にとっての鴨となる。

魂が浮ついて中腰だから。

 

自分もそうだな、次々と興味を移していってさ。

 

この社会は、多少のことをやらかそうが『職務放棄』さえしなければいい。

子供であれば勉強して、高校、大学へと通うこと。

有能な人間ならばさらにそれが許される。別の場であっても。

つまり、『お金儲けに協力する』のであれば許されるということ。

逆に言えば、人々は『お金儲けに協力』しない人間は、ほとんど聖人君子でなければ許さず、尊敬もしないということである。

 

必要もないのに自分を責めてしまい、仕事が手につかなくなる。そんなことは誰も望んでいないし、そのやり方はあまりに短絡で純情で、つまり幼すぎる。

 

しかし、本当に、半世紀かけて世の中の仕組み、それを構成している人間というものがよくわかった気がする。

 

とにかく懸命に働く以外に方法はないんだな、この世界は。

まともに考えていてもおかしくなるだけか。

 

脳はどうやら自分と他人、現実と妄想の区別をするのが思ったよりも得意ではないらしい。

それで、有名人に会いたがり、また活躍を応援したりする。

それが自分の現実に何のかかわりもなくても。

 

その能力があるから、フィクションに感動したり、義憤に駆られたりするのだろうか。

 

もったいないよな。

限りある人生をつまらないことで費やすのは。

これで、じゃあ何をやるのか。

ジョブズペプシの人を『砂糖水を売るのか、世界を変えたいのか』で口説いたけど、

確かにな、Youtubeも経済的には夢があるけど。

で、作る動画はなんなんだろうか。

 

ふと思ったが、自分が好きな人たち、

荒俣宏

鹿島茂

高山宏は、

別にいわゆるクリエイティブなものと何の縁もないな。

 

忘れていたけど思い出した。

何で自分が前の職場で動画製作を拒否していたか。

自分が好きな人たちが、動画を作らないから。

共通するのは皆、アナログで仕事をしているんだよな。

 

数字とか、マーケティングとか、商売とか、そんなものを気にしている人たちじゃなかった。

投資は少しはしているかもしれないけど、投資するくらいなら本買うわという人たちだし。

 

まあ、それを目指してこうなったんだけど。

いや、違うだろう。

こうなったのは、環境と、自分の歪んだ欲望のせいだろ。

 

自分の好きな人たちは、不思議と銅臭を感じない。

阿っている姿とは無縁である。

何より楽しそうにしている。

 

今、流行りのものでも、好きで作っているんじゃなくて、なんか、それを作っている自分がかっこいいから作るし、自分も作れるから作る。

そういう感じに見えるものがあるが、それは自分のデザインや動画と同じだな。

だからどこか嫌味があったり、大衆受け狙いがわかるようなものになる。

 

自分が素材やタイポスをこねくり回してポスター作っているようなもので、それは作業なんじゃないのか。

 

漫画でも昔と違う気がする。

どこか、技術力とか、絵の上手さとか、構成力とか、デザインでも『どうだ』という自慢がある気がする。

嫌味っぽいというか。

もしくはお金を求めている、つまりどうにか受けようとしているような感じがする。

昔は、もっと皆、好きにやっていた気がする。

アナログの時代は。

 

世界は良くはなってきていると思うけど、一昔前よりも、自分を大切にしなくなっている気がする。

あと、文句ばかりで親切とか、他人を心配するとか、そういう感情が薄らいできている気がする。

大切にしているのは、自分じゃなくて、自分の羽振りとか、そういう相対的なものばかりになってきている気がする。

 

いかに自分をうまく操作して、なるべく多くの宝物を拾って、金を稼いで、経験値を上げてとか、そういう対し方になっている気がする。

自分と人生に。

 

何でも数字でするのが、テストの受けすぎとか思っていたけど、ゲームのやりすぎなんじゃないのか。

自分をうまく操作することを考えているのは。

 

それで、うまく操作できず、自分に正直な人は、はじかれてしまうんだよな。

 

こちらがオープンに対等に雑談をしようと思っても、愚痴や文句に終始してしまう人が少なくない。

会話までが何かを恐れているというか、ロボットと話しているというか。

ロボットであることに耐え切れず、歪んでしまうのだろうか。

不安というか、精神の痙攣に耐え切れずに。

オープンな人間と対等に話したら、自分の昏い精神があらわになるのが怖かったのだろうか。

 

自分もすでに自分をロボット化していたのか。

いつから。

金勘定をしだしたころからじゃないの。

かつての上司が昼に自分と話していた時、ほとんど愚痴か文句ばかりだった。

あと、蕎麦屋のテレビ見て意見を言うだけ。

でも、自分も最後の半年、同じことをしていたな。

人と話すとき、ほとんど愚痴か文句ばかりになっていたな。

しかも『助けてくれ』オーラみたいなものだして。

 

それは雑談をしているんじゃなくて、感情を吐き出しているだけだから。

たとえ、それが趣味や娯楽の話であっても。

 

戻りたいと思って後悔していると、それを消すために娯楽などで慰めることで上書きする。

しかし、その方法は、あの場所を一生引きずるということだよ。

あの場所を忘れられないから、慰め続けるということだ。

それはもう、自分を信頼しなくなっているんだよな。

後悔さえ乗り越えられないような役に立たないと言っているようなものだ。

 

過去のあの場所がもう昏い思い出になったまましがみついている。

それは、あの場を忘れていないということ。

過去を乗り越えられていない。

後悔を引きずっている。

 

あの場所は、自分には辞めた後、ますます楽園に見えたのだろうけど、

いわば、メガテンⅡのファクトリーのように、皆、仕事はするし、秩序もあるけど、

皆、何かに怯えながら、どこか重苦しい黄昏のような場所だったんじゃないの。

アンバーな空のもと。

目を覚まして見れば。

 

そうか、自分はなんなら、ファクトリーで働くような人間になろうとしていたのか。

これからの人生。

 

そりゃ、苦しみも悩みもないだろうけどな。

 

世界はなんも変わらん。重苦しいままだよ。

 

もう自分から離してしまえばよかったのに。

自分をロボット化させたような場なんだし。

そうすればもう少し自由に仕事も去年も一昨年も探せただろうに。

 

しかし、生き方がロボット化した人間に自由にしゃべらせたら文句と愚痴、あとは娯楽、食欲や性欲の話になるんだな。

 

クリエイティブなことは好きなものじゃないと無理だろう。

 

仕事はただひたすら自分のためだけ。

そうしないと、何かに影響を及ぼす。

今まで、他人のために動いて、あくまで仕事の一環として、同時に自分もやりたいのなら別だが、躓かなかったためしがあったろうか。

 

あくまでも仕事は自分にふさわしい、やりたい仕事をするしかない。

 

性格が変わったとか、意志が強くなったとか、思わない方がいい。

 

しかし、情況を見れば、自分のしてきたことが、未来につながらない自慰行為だったんだな、と言うことがわかる。
ゲームが好きでゲーム関連のクリエイターになったり、アニメが好きで、その業界に入ったり、
サイト作りが好きでWEB関連の仕事をしたり、そういう風になぜなれなかったのかな。

 

 

うまくいかなかったからと言って、自分の感性を捨てることはないだろう。

 

今まで、自分の価値を知らず、持ち物を捨ててきたから後悔してたんじゃないの。

今まで培ったものを捨てるなよ。

 

自分も嫌味っぽい人間だったんだろうな。

 

また、欲得でおかしくなっていて、自分を取り戻したのか、

それとも、幼稚さを捨て、お金の大切さを知ったということなのか。

どちらなんだろう。

 

期待が大きいほど、そそいだものが大きいほど、失望も深い。

当たり前のことだ。

 

『夢見ているもののすべてを得た場合の失望は、それが手に入らない場合よりもさらに深い』

 

組織内とか仕事ならば仕方がないけど、結局は、自分の都合で動くしかない。

それを知らずに、自他の区別をしないで動くと躓く。

結局、救ってやるというのも、社会制度として救うのなら良いよ。

こういう制度があるよ、とアドバイスをする。

人を救うのなら、制度を利用して救う以外はやりようがない。

 

むしろ制度を逸脱しようとするから歪むのではないのか。

教育機関とか。

 

しかし、自分は食べ物があっても、それをどう料理するか、いつ食うか、と考えてしまい、

やるべき勉強よりもそちらを優先させ、それで一日、何かした気になってしまう。

 

人に対して、厳しいことを伝えるメールを出す場合、一晩おいて、読み直す。

それを出したらどうなのか、それを自分が受け取ったらどう感じるのか。

 

失敗は、もう一度より懸命に始めるための機会に過ぎない。

顔を上げていられることをする。

最後まで行くのではなく、ただし、引き返す勇気も必要。

 

ネットから離れ、慰めをせず、勉強をしている自分にそのつど『これでいいんだよ、これで』、『これだよ、これ』と言い聞かせる。

たとえば辞書を引いているときなど。

今一つのことを思ってしまったら、すぐに『楽しいことをしよう』と頭の中で言ってみる。

 

ひとをだましてもいけないし、だまされてもいけない、

 

努力は応用が利く。

単に正解を得るだけでは得られない、自分だけのものが手に入る。

『正解』をなんら努力もせずに得られる能力があったとして、

空いた時間にすることはごく一般的な欲望の垂れ流しである。

スキップをするほどに自分は薄まってゆく。

 

自分の力、自分自身が通用したという快感に酔いしれることで、現世の不安を上書きしようとしている。

 

『駄目』という言葉を面と向かって言う人はどうかと思う。

子供に向かって言う言葉である。

 

こういうことではなくて、もっと彩り豊かなものを書こうよ。

 

多くの人は、たやすく優劣を決め込んだり、善悪を判断したりするが、

真面目に比較対象を研究したり、古今の哲学書を読み漁った上で言っているのではないことは、より信頼できる人、より人格的に優れている人に聞けば分かる。

 

自意識過剰からの不安、そして承認欲求

 

自分を苦しめ、つらい思いをさせた者を決して許さないがために、自分は幸せになろうとしなかったんだろうな。

『お前らが苦しめた人間はこうなっているんだぞ』というアピールだったんだろうな。

 

かわいそうすぎるわ。

 

もう自分を許してやれよ。

本当に。

もうここまで来たんだし。

もう十分だ。

 

未知の領域を恐怖と考えるか、興味の対象と考えるか。

因習を安らぎの箱舟と考えるか、暗い閉鎖空間と考えるか。

 

自分で自分の活動に枠をはめる。

 

何が善なのか。

頭がはっきりし、うしろめたさも嫌そうな顔もしないこと。

 

勉強も場合によっては、慰めや現実逃避として、していることもある。

ネットなどで慰めている行為よりはるかにまし。

 

今更細かいところを穿り回しても詮無きこと。

すべて縁としか思えないわ。

 

不安なんだろけど、カーゴカルトは卒業しようよ。

 

カーゴカルトは『知らないのに知っていると思い込むこと』の典型例だし。

 

自分の情況なら、欺瞞や偽善も避けられるだろう。

『救いたい』は、欲望を隠しているのだから、その『救いたい』に隠された欺瞞を外して、欲望だけと向かい合ったらいいよ。

 

自分が他人から分裂症気味に思われてきたのは、この欺瞞による行動のうちに常に欲望があったからだろう。

 

この情況で、自分が世のため人のために行動しなくても、誰も何とも思わないから。

 

食ってゆくことだけを考えたらいい。

 

 

あれもこれも自分の問題にしない。
それが自由奔放であろう。

 

そこにある状況、情報、言葉の羅列は、自分が反応すべきものなのか。

 

何かのため、という時点で嘘が交じる。

 

現在から過去を見れば、必然のようであるけれども、過去から現在を見れば、偶然の結果が表れている。

 

世の中には、栄養剤のふりをして、毒である物も少なくない。世の中には、栄養剤のふりをして、毒である物も少なくない。しかも、そう言う物は、ある程度の関わりののちに気づくが、その時は、引き返せなくなっている。

 

人間関係も、あまりに力を込めて握れば、ヒビが入る。

 

禅宗が、何を言っているのかわからない、もしくは、どうとでも解釈できるのは、世界がその様なものであるからだろう。

 

うまくいかなかったと、そこで落ち込んで、もう何もしないじゃあ、今までと同じ、それでまた後悔とか反省という名の自慰行為に過ぎない。

それで仮に何もしなくなったとしても、何の役にも立たない人間になるだけ。

行動しないと。

それらを自覚したうえで、そういう場に立ちながら、なお踏みとどまるから、まともな成長につながるんじゃないのか。

 

斜に構えて、批評的な言説を述べて、そういうことを自覚して終わりではなくて、行動する。

 

対象や場に対して、ぎりぎりまでしかも焦らずに、アプローチした後で、冷静な判断を下せるか、『切り替え』ができるか、次のステップに進めるか、それが一つの課題なんだろう。

最初から関係性をまったく求めないのは、アウトサイダーでもなんでもない。

単なる孤独な魂を作るだけ。

本気でやる。本気で情熱を注ぎながら、自分を冷静に見ること。

もう一つは、仕事場であって、ある程度頼りにされるような仕事場で、傲慢な言動を取るかとらないか。

 

一切、欲望を持たない、仕事も楽なのにして細々と暮らす、なんていうのは、情況から逃げ出す行為だろう。

それは過去を振り切るのでもないし、自分の弱い部分に触れないようにしているだけ。

 

なんか、こういうことをまとめるのも面倒だわ。

ほんと、サラリーマンでもしていればと思う。

もううんざり。

 

『世の中を良くしたい』も、しょせん自分の都合で気分の良くなる世の中にしたいだけ。

その力があるのならしたらいいが、ない内は自分のことだけを考えたらいいよ。

 

人間は、自分の欲しい情報を優先的に見ようとする。

そこから、『幸せになろう』と自分を励ませば、それに沿った情報を見るようになる。

逆も同じである。

 

愛想笑いはやめる。

 

『時に周囲にみられる悲しい状況に落胆してはいけない』

 

中学くらいから、道化になってしまって自分の進路など考えられなかったな。

 

いくらでも方法はあったのにな。

 

『失敗を予期している人はそのとおり失敗する』

 

なんか、鬱なのかもしれないが、もうなんかクリエイティブなこととか、ネタとかそういうのはもう疲れたよ。

 

真面目に働いて、あとは消費者でいいよ。

 

なんか、自分の作品で世の中を良くしたいとか、他人を励ましたいとか思っていたけど、何にもならないよ。

真面目に働いたほうがよほど人の助けになったと思う。

 

こんなになるほど、自分は頑張らなかったのかな。

頑張りもある態度のところまでいかないと、意味がなくなるのか。

 

その場に対して独特の貢献をしたい

その場を少しでも変えたい、

その貢献に対して、尊敬を受けたい

 

もうそういうのはいいよ。

 

答えがあるはずのない問いに答えようとして堂々巡りをしている。

自分に対しても質問は適切にしないと。

 

何より自分に甘えているんだよ。

 

カーゴカルトを信ずる社会のように、答えなどない質問を自分にしているわけなんだよ。

 

必ずしも好意的とは言えない世界の中で生き続けてゆく。

 

こうなったのも、成績の良かった時の気分を維持したくて、道化になることで注目を浴びようとしたんだな。

 

あまり、『好きでやっている』という態度も出さない方が良い場所も少なくない。

妬みを生じさせかねない。

なにより食っていくため。

生活のためにやっている人たちの前で、むしろ趣味でやっているような態度をとればどうなるか。

よく考えたら、小説だけじゃない、何もかも生活も何となく趣味や遊びでやっている感じなんだよ。

じゃあ、何が目的だったのか、それは慰めであり、自分の傲慢を満足させる行為だったんだよ。

 

有名なデザイナーでも有名な詩人でも現代の人は好きでやっているんじゃなくて、はっきりと食ってゆくためとか、服を買いたいからとか言っているし。

『好きなことで生きていく』との謂いは、面白半分で趣味をやっていくことではなくて、食っていくために最も稼げることが好きなことにつながるということなんだろう。

 

好きなこと、センスを大事にして、自分の正義や道徳や倫理で動いて、この状態だから。

この期に及んでまだ、文学だのクリエイティブだの言うのか。

別に食っていけるのならいいけど。

 

今更だけど、食ってゆくために持てる能力をすべて注ごう。

自分の気分とかそういうのじゃなくてさ。

 

趣味にいいも悪いもないんだよ。

いかに食ってゆくかがすべてなんだよ。

 

いま、こうなった自分が楽しいのならいいよ。

それでも自分を貫いたという自信があるのならいいよ。

 

何かに殉じるのも、一つの宗教的心理なんだろうな。

大人になるにつれ、引き返す力がなくなるから『今更やめられない』になるんだよ。

プライドの問題とか、注いだリソースが無駄になるのが怖いとかで、止められないことはこの世の中にいくらでもある。

それを逆手に商売している場合もあるし。

戦争をした将校クラスの連中が、戦後商売で成功した話を聞いて、前は其の転身の軽さに違和感さえあったが、そういう人は頭がいいから、洗脳されず、最も食ってゆけることをしただけなんだろう。

戦前はそれが軍人だっただけで。

 

見習わないと。

 

正義も倫理もない。

あるのは制度だけ。

 

特に宗教にはまるのは、純情な人や、社会で不安を抱えている立場にある人々だが、

そういう人たちにだって傲慢やプライドはあるわけで、

どこかでほかの連中に対抗できる手段を探していて、それが宗教なんだろうな。

 

アイドルなんて、そのものずばり偶像だが、それで成り立つ商売だし。

 

純文学は素晴らしい。

人間のこの世界の心理を言葉で追う。

そうした言葉に惑わされてきたのも、売れなくなってからだろう。

最初はただ、書くことしか考えていなかった。

 

食ってゆくために仕事をする、

さらには、自分の現在持っている可能性を生かすような仕事をするのが生きている人間の義務。

それを理解しないと。

食ってゆくために仕事をするのは、この世界の義務だから。

そこに理由もないし、食ってゆくための仕事に付け加える理由も考えても仕方がないんだよ。

なぜなら、通常の範囲内で最も稼げる仕事というものは、最も評価される仕事、最も歓迎され貢献している仕事だから。

 

自分は職務放棄をしたからいけなかった。ただそれだけ。

人間関係は別に責任など感じる必要はなかった。

とっとと切り替えて、とっとと仕事に戻らないといけなかった。

 

むしろ『自己犠牲』とか、『ヒロイズム(英雄的行動)』とかいう言葉こそ規制したらどうか、せめてR18にしろ。

純情な人はそれで食い物にされるから。

報酬を顧みずに好きなことをやるとか。

 

人前では感情を出さない方が相手にダメージを与えられる。

 

なんで、自分はあの環境で、社会に貢献だの寄与だの育ちのいい人間がやるべき考えに至ったのか。

自分の境涯じゃ無理だったな。

 

自分は賢者になりたかった。

この世界のこと、仕組みを知りたかった。

しかし、やってみて知り得たのはサラリーマンの教養を少し超える程度に過ぎなかった。

あまりに欲望が勝ったのだった。

それならば、最初から欲望と向き合って、食ってゆく身を探ることをすればよかった。

 

自分をかわいそうにさせることで、他人にまともに接してもらいたかったんだな。

 

漠然とした恐怖や不安に名前を与えることで、それが存在しているかのように感ずる。

 

むしろおとなしくサラリーマンしている方がよほど社会に貢献できただろう。

 

人を救うべきは、余裕のある人間か、もしくは社会制度に任せたらいいよ。

 

自分を救えていない人間が救おうとしても、どこか欺瞞が混じる。

 

いらいらしている人間は、自分の尊厳が損なわれているのを感じながら、自分の能力のなさでその生活をやめられないから。

 

自分の願いが叶わなかったのは、それに欺瞞が混じっていたからかだろうか。

ただの欲望や優越感を満たすために、社会制度や仕事、娯楽さえも利用することしか考えていなかったのだろう。

 

願いが純粋じゃないと叶わない。

さして叶った後も、その初心を忘れてはいけない。

 

勉強は忘れてからやるよりも、忘れる前に繰り返し学ぶことがコツである。

 

自分の需要を自分で決め込まない。

 

なんか、photoshopもごく基本操作しか覚えていないよ。

 

考えるほど、経験をつむほど、ばらばらの事実が投げ出されたまま。

 

自分からかけ離れた欲望。

 

野心も欲望も好奇心も批評性もなく、穏やかにそこにある。

 

もう偉そうな言葉を言うのを止そう。
自分ができているのならいいけど、こんな状態だし。

 

この世界での方針は決めたけれど、じゃあ、今の自分の精神力、体力、技術、知識、気力、性格でどれほどのことができるのだろうか。

 

自分がこの世界で、それでも楽しいことをするにはどうしたらいいいのだろう。

 

過去にはもうどこにも戻れない。

当たり前のこと。

 

もう戻る気などさらさら無いという確固たる意志。

 

できそうな仕事をやろう。

背伸びしなくていいものを。

依頼は断らないけど。

 

そんなに人の心が変えられるか。

自分の性格が変わるか。

 

様々なタイプの人とかかわり協力することで、自分のいろいろな面が見えるし、伸びる。

 

『ずるい』と思って自分もやりたがる。

 

毎日通うところがあるだけでありがたい。

 

トークがもりあがるのは、自分がこういうのが好き、ということ、場をちゃかすのはもてない。


どんな世界であってもマジだった方が泣く事になる

甲本ヒロト
『不幸はなにも生まないね。不幸とか苦労とかは人をどんどんダメにする。苦労話とかする奴は「俺はこんなにだめなんだぜ!」って、言って今まで何をしてきたかをひけらす人でしょ。ひけらかして自分の価値を認めさせようとするわけだ。そんなのは最低だ。』

ヨハン・エッカーマン
『人は青春の過ちを老年に持ち込んではならない。老年は老年の欠点があるのだから』 
自分で自分を暗くしてはいけない。


興味ないのに理系の学部にすすむ
人の好きなものを貶す
常識を疑う
自信をなくす
インキャの友達とつるむ
何も考えずに髪にワックスつけるの
自分は他人と違うという思い込み
人との会話で常に否定から入る
悪天候時の外出
最上位以外の法科大学院への進学。
女に「何歳だと思う?」って聞かれて
マジレスは止めとけ
論理的に人生を考えること
完全にムダ
感情のままに生きるべし

 

 

悪いところを一つ直すために、良いところをすべて台無しにする


カフカ
せめて夜の安息をください。

カミュ
体験を重ねても賢くはならない。ただ巧みになるだけだ。だか何に巧みになるというのか?

 

なんで、中学でも高校でも塾でもあんなにつらい目に合っていたのに、逃げ出さなかっだろう。
逃げ出すことを情けないと思い込まされていたんだろう。幼いころから、周りの人を見下そうとする連中に。
人生、損ばかりしていたことが分かっただけ。
芸人ならたたかれ馬鹿にされて会社員以上のお金がもらえるし、人気もあるからいいけど、
なんもないじゃん。
それどころか、人生をどこかにやってしまっただけ。


馬鹿馬鹿しい。
自分のためだけに生きるのが結局、正解だし、尊敬もされるじゃん。経済的にも安定だし。

 

自分など示さなくていい。

悔いのない生き方は後悔の繰り返し。


ジョン・マンデヴィル
人間の強い習慣、嗜好を変えるのはさらに強い欲望だけである
それを自分は成長したとごかい思い違いをする。

 

小説にしても、自分のものは、『自分探し』としての行為にすぎず、読者を考えて書かれた『小説』になっていなかった。

 

ネット中毒になるということはさみしさを感じている。
はじめは記事やネタを探していたものが、コメントを探すようになっている。
それはコミュニケーションに飢えているということだと思う。

逆から見れば、ネットのコメント、まとめサイトのコメントをいちいち見るのが億劫になってきたのであれば、それは鬱が良くなっているということ。

 

世界が滅びに向かっているのを見ながら踊り続けたようなもの。
絶望の空の下、希望の花が咲いていた。
そして、空を見ないようにしていた。

 

西洋人は、自分を可笑しくする事をひどく嫌う。

 

でも、やっぱり、寺田寅彦と、芥川龍之介と、内田百閒の随筆だけで十分な気がする。
書くために読んでいるけど。
音楽は、クラッシックやジャズの外は、ビートルズとボブデュラン。あとはBGM系。
美術はあまりない。デザインぽいのが好き。浮世絵とかも構図が面白いものくらいかな。
せつない感じの絵は好き。

 

史記本紀夏生本
爾の事を視よ(そなたの仕事に全力をつくせ) 
周本紀
勉めよや夫子、再びす可からず、三たびす可からず 
項羽本紀
大行(たいこう)は細謹(さいきん)を顧みず 大礼は小譲(しょうじよう)を辞せず 
老子
之を歙めんと将欲せば必ずしばらく之を張る。之を弱めんとまさに欲せば、必ずしばらく之を強くす。之を廃せんとまさに欲せば必ずしばらく之を興す。之を奪はんとまさに欲せば、必ずしばらくこれに與ふ。是を微明といふ。柔弱は剛強に勝つ。魚は淵より脱すべからず。国の利器は以て人に示すべからず。
「自分が変わらなくば、怖くて一歩も進めないってか。


自分を捨てなければ怖くて前を向けないってのか。そんなに何もかも思い通りに行かなきゃ気が済まないのか

 

昨日、クルミと松の実と人参、椎茸のスパゲティを食った。

 

力は集中してこその力。

分散ばかりだったな。

 

台湾、越南、タイ、トルコ、東欧、北欧、英、フェロー諸島アイスランドくらいかな、行ってみたいのは。
あとバリ島は民族学的に行ってみても良かったと思う。
きほんは、祭やクリスマスの時期に行くと面白いかと。

 

我慢をしてまで楽をしたい。

 

ヒルティ
心が疲れきっているとき、動物が病気のとき本能的にそうするように引き篭もっていなさい。

 

自分の出自や能力にコンプレックスを感じ、それを「現在」をないがしろにしてまで、「学歴」で埋めようとし、それで埋めきれないと見るや半分ギャグ、半分当時は本気の「宗教の資格」にいき、それでも救われぬから、資格に走り、純文学という肩書の立派な職業につこうとし、それでもなりきれぬから、今度は、哲学書などの思想で自分の弱さを埋めようとしていたわけで、それがこの2月3日まで続いていたという。そもそも、選び方が「自分の弱さ」をうめる、他人に弱いところを見せたくないというやりかただったのであり、「ほめて」「楽しく」やらねば伸びない性質というのをわかっていなかったのだろう。
いつごろか、高校の時か、商店街にできた古本屋で背伸びして、「坊ちゃん」を100円くらいで買ったのだが読み通さなかった。全く勘がよかったのである。そもそもその時は、現代文の偏差値が70を超えていたのだから、別に興味もないものを読む必要はなかったのである。しかし、国語の勉強などせず、古典は苦手、小説も星進一と、イギリスの推理小説くらいしか読まなかった、ほかは、ポパイなどの雑誌とジャンプくらいだったのに、70を超えて、間違えるのは、漢字と文学史くらいだったのは、なんでだろう。ちなみに、高2からは理系になった。

 

ずっと、「自分は正しい、変じゃない、情けなくない」とのPR活動をしていたにすぎなかったかもしれない。

 

神様に違いはない。

 

ヒルティ
あなたの義務を行いなさい。できるならば楽しい気分で。出来なければ、そうした気分なしでもよい。この方が一層ほむべきことであり、一層大きな実りがある。暗い無気力に屈服してはならない。

 

中三の時に家庭教師の先生がわざわざ来てくれて、合格祈願の鉛筆をくれた。
それまで2年もご無沙汰してしまっていたのに。
それで、受かったというのに報告にもいかなかったな。ほとんど隣に住んでいると言うのに。
せめて、3年間先生についていれば、少しはまともになったかもしれない。
進路も含めて最も真摯に相談相手をしてくれただろうに。
先生だって、まだ大学生だからそんなに人生経験があったわけじゃなかっただろうけど、
自分に必要だったのは、自分が普通にしていても相手をしてくれて、しかも年上の相談相手だったのだろうに。
中二から混乱し始めて、いい人たちと付き合わなくなったのも、自分を捨てようとしていたんだろう。
中学で十分失敗したから、もう失敗する必要はなかったのに。
あれ以上の失敗は、つまりは歪ませることにしかならなかったのに。

 

小説を書いているけど、今までのって、「あったかもしれない自分」を書いているだけ。
それはそれで一つの芸術なのかもしれないけど、失敗したという意識があるから書き続けているんだろうし。

 

可能性がある限りは、生きるだろう。
しかし、あると思い込んでいるにすぎない可能性は可能性と言えるのか。

 

昼過ぎにいきなり曇ったと思ったら、風が強くなり、埃のような花びらのような雪が舞いはじめた。
風が止むと、雨のように落ちてくるから、霙に近いと思う。

 

個人でピアノと水泳でもやっていればいいだけの青春。

 

一度死んだ人間に恐れること等あるものか。門田

 

「自己投影的なsentimaentalismに屈しないように。そして、人間に生来備わる自然を神話的な顕現として捉える見方に、風景を結びつけることのないように。」リルケ

 

『仕事の先回り』とか言って、自分でやっていたことが、ただの自慰行為だったということが今になってわかる。
辞めてしまえば、何にもならないし、それをもって、他の場で活躍できるのかと思えば、そんなことはない。
イデア勝負とか言ってままごとのようなことをしている間に、3DCGでも、コンピューターでも、webでも勉強していた方がまだお金になったろう。

 

『世界はあまいとつらいを用意している』

『生まれ変わるなら、生きているうちに』

福田恒在

生きる喜びとは主役を演じることを意味しない。


プライドなんて捨てるだけ捨てて、それでも捨てられなかったほんの一握り。
それだけしっかり握りしめてればいいのよ。

 

現実は、時を止められない。5年前が6年前7年前にどんどん過ぎていく。何もしていない。何もできていない。何もつかんでいない。何も立ち上がっていない。何も一人で立てていない。

 

狭いのはいや。夢で出てくるんだ。せまい階段。せまい扉。せまい居酒屋。

 

『出口というのは徹底的な方向の変化であり、時には新しい軌道へ向う文字どおりの出発』

 

何の役にも立たないものは、なにひとつ人に返す義務などあるはずがない 

 

ウォルター・バジョット

いわゆる哲学の体系は、青年や無思慮な人間を引き付けやすいが、
現実の世界は、このような抽象原理では説明しきれないほど矛盾に満ちている。
教養ある人間は、たとえ演繹的な哲学体系ではなくとも、暗示や示唆から、
小さな真実であろうと汲み取るものである。

真理を求める意思と情熱が強力であればあるだけ、人はそれだけ自己欺瞞に陥り、
その願望があたかも唯一の真理であるかのごとき錯覚を抱きやすい。
そして、人間がいかに複雑な実在であるかを忘れがちになる。
したがって、人間が最も恐れねばならないことは、「意思の破壊力」である。

 


ジョージ・ギッシング

『人々はお金で貴いものは買えないという。
 そういう決り文句こそ、貧乏を経験した事の無い何よりの証拠だ。』 

フランシス・ベーコン

『富を軽蔑する人間をあまり信ずるな。富を得ることに絶望した人間が富を軽蔑するのだ。こういう人間がたまたま富を得ると、一番始末が悪い人間に成る。』 

バーナード・ショウ

『人間の第一の義務は、貧困と縁を切ることだ。』



ヒルティ
一度過去に決まりをつけなければならない。怒りもなく、後悔の思いもなく、過去の帳簿を閉じて、もはやそれを開けてはならない。たくさんの事がもう起こる必要がなく、永久に片づいてしまったことに感謝しなさい。すでにこの地上で過去のあらゆる苦しい思い出から完全に解放されるのは、その前にすべての自分の過ちを正直に認め、本当に悔い改めた者だけだというのである。

 

そうしよう、そうしよう、さて、どうしよう。

 

「ああせいせいした。どうもからだにちょうど合うほど稼いでいるくらい、いいことはありませんな」


人はめいめい自ら耕すべき土地を持っている。 賢治

 

しってるつもり 無知の科学
個人は独力で意思決定をするものではない。選択肢を考え、提示し、アドバイスを与えるのは他者である。


ドラクロワ
「幸福になる事をもはや強いられていないというのは、なんと幸せな事か」

 

スタンダール

「私は自分の欠点に従おう。私は十年も誠実に、あらゆる貴族制を論難してきたのだから、いまでは自分の貴族的志向に従う事にしよう。」

 

 

哲学書でも教養として押さえておくだけにとどめるべきものであって、感情移入して、自分を苦しめた大衆を貶める理由の後押しとして考えてはならない。

それこそ、自分がルサンチマンで動いている姿になっている。

 

洗練された人が、最近はやりの食べ物を前にして、『ふうん、こういうものが流行っているのか』と、感心し、また関心も示しつつ、しかし、ただそれだけにとどめて、自分の食べたいものを食べる姿が、まともな人格というもの。

 

自分が哲学書を読んでいたのは感情移入していただけ。

自分の正しさを理論的に後押ししてもらいたかった、そしてそういう読み方をしていたから、カントのような、大衆の悪口が書いていないものは、理解できなかったんだろう。

 

悔しくて悲しかったんだろう。

だから、哲学書も慰めだったし、文学も慰めになるようなものしか読めなかった。

それで、こころとか、それからとか、ああいう純情なだけなのに、周りのうまく世を渡っている人々に馬鹿者扱いされて、苦しむ主人公を見ていられなかったんだろう。

 

権威ある人に自分に代わって倒してもらいたかっんだよな。

 

腹いせになるもの、慰めになるものしか見てこなかった。

 

やっぱり過去のこと、過去の穴埋めをし続けていただけか。

 

小児の頃から教育されてきた道徳や倫理観など、虚構に過ぎない。
それを踏まえたうえでの身のこなしとなるが、まじめで繊細な人に通り一遍の倫理や道徳観など植え付けたところで、抑圧されるばかり。

 

文学、哲学、漫画、アニメ、ゲーム、プロ野球、偏差値、テレビ、お笑い、雑誌、出版業界、皆、自分のような意志の弱い人間にとって、なんだったのだろう。

感情移入させるようなものは離れた方がいい。

 

時代についていけないというのは、もう自分に可能性がないことを感じているということ。

 

食ってゆける仕事を見つけたら、右も左も見ず、専心するのが賢明なんだろうな。

 

さすがに命がけの人は嫉妬しないな。

 

むしろ無責任を全うした方が、様々な人々に迷惑を掛けなかった気がする。

 

自分を苦しめたのはカーゴカルトだよ。

関係ないんだよ。

 

後悔しなかったこと。

すべてを後悔している。

 

なんだよ、後悔するような人生じゃないじゃん。

後悔ばかりなら。

 

自分の好きなことは、雑談と知識とまともな仕事なんだな。

知識も資格とかネタとかじゃなくて、体系化された知識

 

知識にしても自分のルサンチマンを晴らすためではなくて、知識欲を満たすため。

 

自分の欲望と純粋に向き合う。

 

過去に戻りたがっていたのも、結局、躓かなかったら手にしていた収入を惜しんでいるだけに過ぎないし。

過去に戻るよりも宝くじに当たった方がうれしいし。

その程度の暗い過去なんだけど。

 

別に過去に戻って、うまくできなかった人たちと関係を改善したいとか、そんなことは毛頭する気がないわ。

むしろダメージ受けたのはこっちだし。

 

とりあえず明るく振る舞う。

 

心が昔に戻るのなら、これまで捨てたものさえ無駄になる。

 

人間であればよりよい将来を夢見るのは当然のことであるが、

自分の場合、仕事を続けながらというもっとも重要なことをしなかったし、

またその夢見る将来があまりにファンタジーすぎた。

 

これほど後悔にまみれた過去、しかし、まとも仕事にありつけたら水に流せる程度の過去、

それならもう忘れてしまえよ。

 

ここまで考えてきたものは、いわば過去から感情などを外して、技術的な知識のみ取り出したようなもので、

それでもういいだろ。

 

もし、メフィストフェレスと契約をしたら過去に戻るか。

戻るわけがない。

なら、それが答えだよ。

 

ずっと戻りたいと思っていたけど、

それは実のところ、本来得るはずだったものを取り戻したかったというだけ。

それだけの後悔に過ぎなかった。

メフィストフェレスと契約をしたら、自分を苦しめた連中をこの世から消したいか。

別に、どうでもいい。何もかかわる気もないわ。

それが答えだよ。

どうでもいいんだよ、もう。

 

『うまくできなかった自分』というもの、本来の収入を得られなかったということに過ぎない。それで後悔したり、許せなくなっていただけ。

 

自分を苦しめた連中を許せないのも、別に人間的な尊厳がどうのこうのというのではなくて、そのストレスにより、やるべきことができなかったり、自分が手にするはずのものを放棄してしまった、そのことが許せないんだろう。

すべてはお金の問題に過ぎない。

 

全能の力を得たら、今まで憧れていた職業につくか。

ならない気がするな。

クリエイティブなことはむしろ一切しない気がする。

 

ということは、自分がクリエイティブなことをしていたのは、お金のため、楽に稼げるため、またはコンプレックスを解消するための優越感とか、ルサンチマンとかの感情のために過ぎなかったか。

力を得たら魂が揺さぶられるようなことも起きないんだから、書く必要がない。

そして、今まで自分が書いたものは、世の役に立っていない。

『天職』とかいう言葉で誤魔化してきただけ。

 

少し前までは、賞とか、思うような小説を書いて、売れたいとか、

なんならか映像作品とかも作って賞を取りたいとか考えていたけど、

その頃は、まだ、優越感に浸りたいということと、自分の持っているものをすべて生かして、お金にしたいと考えていただけ。

 

自分の欲望と真正面から向き合ったら、そんなことする気にもならない。

もちろん社会制度をよくするとかも。

自分のすることではない。

 

なんか、えらい遠回りしたけど、自分の欲望を理解したら、やりたいことがよくわかったわ。

 

欺瞞だらけだったな。

 

ダンテの煉獄編で、キリスト教以前の賢者たちが、空もないような荒れ地に閉じ込められているものの、お互いに知的な会話をして、それなりに楽しく暮らしているような描写があったが、あれも、たとえて言うのなら、過去の場所に戻って、そこで安心して暮らして行くようなものだろう。

いわば、給料がいいし、自由だし、あの場は楽しいし、自分の能力を生かせるから、居心地がよいのだけれど、どのみち、煉獄だろう。

知らず知らずに魂が衰退していきそう。

 

本当はもっと自由で晴れた空があるのに、欺瞞によって自分を楽しいからということでその場にいさせ続けるという行為なんじゃないのか。

 

もっといろいろな世界があるのに、

『哲学者』たちは自分たちが知的な行為をしていればそれが義務であり、喜びであると、そういう欺瞞、口実で煉獄にいさせられることを肯定してしまっている。

その時点で魂は自由を失っているのに、あの場の『哲学者』たちはそれに気づいていない。

自己満足と自己欺瞞の繰り返し。

協力して仕事をするということでもない。

むしろ昔の自分だよ。

好きな職にいるということで満足して、いや欲望をごまかして、その世界を出ようとしなかった。

何の欲望も叶えられないのに。

しかも仕事もしないから世界が広がらず、思考もパターン化していったし。

『哲学者』たちもあんな閉鎖空間に居続けたら、いずれ頭も働かなくなるだろうに。

ただの頑固者のようになるだけではないのか。


critic
1(文芸・美術などの)批評家,評論家; (古文書などの)鑑定家.
2批判する人; いつもあら捜しをする人.

 

昔に戻りたいという後悔は、自ら煉獄に行こうとすることなんじゃないの。

冷静に見て、あそこは天国だったか。

力を得たら戻りたいか。

そんなわけはない。

 

幸せになりたいのなら幸せが寄ってくるような行いをし続けないと。

 

 

過去に戻りたいというのは、オープンな世界にいるのに、わざわざ世界を閉鎖空間にするようなものだろう。

自分で柵を作り、その範囲しか見なくなっている。

ストーカーと同じ。

いわば自分の運命に対するストーカーといえる。

そう、そして『ストーカー』にとっては、煉獄の閉鎖空間こそが理想の世界というか、求めている世界なんだよ。

ループ物のフィクションもそうだけど、

力がありながらどんどん興味の対象が細かく、狭いところに向かっていく。

ほかにもっと楽しいこともすべきこともあるだろうに、

『使命感』で自分を閉じ込めてしまっている。

 

世界は広く、空は青い。

多くの人々とかかわり、仕事をすること、

自分の欲望と向き合って、自己欺瞞に陥らないこと。

大事なことは食ってゆくことで、執着すべきものなどないこと。

動く姿こそ人の姿なんだよ。

 

終身雇用もあれはあれで異常なんだろうな、本来の人間の姿から見れば。

ずっと同じ場所にいて、狂わないわけがないだろう。

権力を持てば必ず腐るということも、そりゃ煉獄みたいな閉鎖空間にいたら、

性欲や食欲、または愚痴などでストレスを発散させるくらいしかやることも見当たらないだろうし。

 

どのみち辞めるべきだったんだよ。

もう少しいても良かったけど、今頃辞めているだろう。

正気ならな。

 

やっぱ鬱だったんだな。

今の考えなら、サラリーマンをしてもロボット化はしまい。

しかし、初めから、そのやり方でやっていたら、自分の弱い意志ではロボット化していたろう。

 

自分が仕事の場に行くことで何かしらの良い影響も与えられるだろう。

 

それでいいじゃん。

 

仕事場ではおそれず、照れず、顔を上げていられる仕事を。

 

自分がその場に行けば何かしらの良い影響を与えられる、その思いが出てくれば、ようやく自信を取り戻したということになる。

もちろんこれからは謙遜の美徳とともに。

 

そしてそれができそうな場こそ、やりたい仕事ということになる。

 

自分の欲望と向き合うと、欲望も頑ななところもなくなる。

 

熱を帯びてきたら、それがそんなに必要なのか、そう考えてみる。

 

過去に戻れるくらいの奇跡が起きるのなら、むしろ今若返りたいわ。

 

後ろめたさもまた植えつけられる。

過去に戻ろうとしていたのも、後ろめたさかもな。

 

本当に戻りたいのか。

単に若返りたいだけじゃないのか。

 

自分が息をしていられるところ

いつもびくびくしていた気がするわ。

 

もう批評的な文学、哲学にはおさらばだな。

 

見立てはともかく、シュールな笑いに興味はない。

前、数学者の人で二十年ごとに違うことをやる人がいたが、一度の人生で違う生き方をするのも面白いのではないか。

うがった見方やシュールな笑いより、きれいなものを。

 

いろいろな場を見物気分で見る。

それが自分のような性格の魂を腐らせないやり方。

 

目標も現実的なものの方が達成感もあるし、効率も良い。

欲望にしても、繰り返し言い聞かせることで脳の意識さえ変えられる。


見栄も虚栄もない自分。
ひねくれていない自分。
ただ食ってゆくことに全力を注いだらどうなるか、それを見てみたい。

 

できない自分をみとめて、そのできない自分でどう生きていくかを考えよう。

 

自虐とかもつかれたわ

 

人生に良いも良くないもない。

後悔などする必要はない。

今、あることがすべてであり、それ以上でも以下でもない。

ただ、これからは自分の目標(食ってゆくこと)が定まったのだから、生き方の戦術を変えるというだけ。

 

もう偉そうなことは言わんよ。
特に自己啓発系のものは。
偉そうなことばかり言っていたんだし。
もう自己啓発本とか仕事の話とか、読むことはない。

読んでも文化史とか美学とか都市論の話だけ。
あと、脳科学くらいか。

かっこいいことばとか、面白い言葉、ロマンある言葉、そういうものを収集していればいいよ。

脳科学も自制できなきゃ意味ないし。

 

だからいまやっていのは精霊流しのようなもの。

単にかっこいいと思えるもの、センスのありそうなものを見て語るだけ。

 

様々な星のめぐりあわせがあった。

ただそれだけのこと。

 

そうか、もともとハイリスク・ノーリターンでやっていたんじゃないのか。
十年前のあの日から、そこからハイリスク・ノーリターンでやっただけ。
それを忘れたから、つまり自分の魂を手放すようなことをしたから、再び終わってしまったんだよ。
もう一度この世を去って、ハイリスク・ノーリターンで生きていられたのに、報酬を求めたから、狂ったのか。
幽霊は自分がこの世にいると思い違いをしているそうだが、自分もこの世の普通の一人と思い違いしていたんだよ。
この三年くらい。
生きていると勘違いしている幽霊のようなものだったから、たださまよっていただけか。

再びこの世界で立ちたければハイリスク・ノーリターンを思い出すしかない。
そもそもあの時以前に戻りたい、その頃のものを取り戻したいって言っているのは、前世に戻りたいと言っているようなものだろう。
うつになると、自分のキーワードを忘れている。

 

全然違う。

 

精神が浄化されているんじゃなくて、蝕まれてんじゃないのか。

自分がこのような状況になったのは、勉強を妨げた連中、性格がひねくれるようにコンプレックスを植え付けた連中のせいだから。
別にハイリスク・ノーリターンという行動理念を忘れたからではない。
それを忘れてはいけない。

自分のせいにした方が簡単だから、自分のせいにしたがるけど、そうすると、根本の原因を忘れて、同じこと繰り返す。

自分が従うべき行動理念を忘れていたとか、欲張ったから、とか、そういうパターンで片づけるから、同じことを繰り返すんだよ。

どこまでお人よしなのだろうか。

自分は歪めさせられて、人生をどこかへやってしまったんだよ。

それがまず第一に自覚すること。

それで、同時に仕事をつづけることとか、謙遜して生きこととか、そのような考えのもとに動くということ。

食ってゆくという原則を踏まえたうえで、例えば、ハイリスク・ノーリターンとかいうのならいいよ。

人にとって重要なことは、なにより、食ってゆくこと。
それも、できる限り自分の能力を生かして、生計を立てること。
学生までなら、そのために必要なものを手に入れるために勉強すること。

それを邪魔されたからこうなったんだよ。

背伸びしていた、あまりに高望みのことをしていたならともかく。

そもそもあの程度の環境で将来有望視されるほど勉強ができたわけで、何もサポートがなくても、邪魔さえされなければできる才能はあったのに。

『自分は無傷だし、周りは悪い人はいない』という安楽を求める心理が、結果を正当化させるために、過去の外見を変えたがる。

自分の心を守るために仕方のない場合もあるだろうが、あまりたやすく自分の『ミス』のせいにすると、また何かの拍子に増長して、躓きやすくなる。

鬱になった原因を自分に帰すようなたやすいことをしてはいけない。

自分のせいにするのは、お行儀がよすぎるよ。
なんで、そこまでお行儀よくしているの。
自分をこういう状況にした世界でさ。

 

パルワー・リットン

「一番騙しやすい人間は、自分自身である。」


『鬱が治った』と言うのではなく、『冬眠終了』と言ってみる。

汝が前途は多望なり。
氣力と希望とは再び我胸に入り來れり。

live twice
もう一度生きよう。

 

自分に責任はない。
むしろ損をした。
それ以上でも以下でもない。

 

とにかく、もう他人を批判すのはうんざりだ。
それよりもっと自分を非難するのはもう嫌だ。

自分を責めるくらいなら、まだ嫉妬とか憤怒の方が健全に思えてくる。

 

シンプルに生きよう。
自分の気分や慰めではなく、自分のためだけに生きよう。
お金にならない、自分を傷つけるような我慢はよそう。
自分の能力を自己満足ではなく、仕事に生かそう。
そして、過去を片づけをした分、広い心を持とう。

 

人の領域に手を出して、自分のプライベートに入れようとするのではなく、関係性を保ち、はぐくむことを考える。

そうして、関係性を保ち、周りの人が目標に向かうのを手助けする。

自分は特に何かを成し遂げたり、何者かになったりするわけではない。

ただ、関係性を深めて、周りを良くするのが仕事。

 

カミュ
大切なのは、美学ではなくて、心の向きなのだ。
できればもっと良い人間になりたい、ということ以外には、もはや何も分からぬとは何ということだ。

・慰めをやめる、妄想をしない・今すべきことを

・正しい言葉遣い。

・否定的なことを言わない。意地の悪い行動をしない。

・奉仕の精神を持つこと

・能力を他人のために使うこと

・食ってゆくために仕事をする。それ以外を考えない。

・仕事をし続けること

・慰めを求めない

・遠慮はしない・照れない

・頂けるものは頂くが自分から求めない

・機嫌よくしている

・仕事をやれるありがたさ

・自分から偉そうなことの一切を手放したい。

 

カフカ
なぜこんな一覧表を作るのかわからない。これはまるでぼくに似合わないことだ!

 

 

沈んでいたものが再び表れ出ることは、「よみがえり」と言って差し支えはありません。

 

しかし、このような考察など間違っているのだろう。

 


1/29
一昨日、IHクッキングヒーターが壊れる。
三時ごろにお茶を煮出した時になんか冷たいなと思ったがそのまま飲む。
夜の七時にパスタを茹でる。
しばらくしてようやく気付く。
動いているだけで、熱がでない。

スーパーに行こうかと思ったが、明日にする。
翌日、面倒になり、家にいることにする。
と言っても、火を使わないで食えるものがとろろ昆布しかない。
とろろ昆布は食おうと思えば食えるが止す。

他に調理器具はトースターしかない。
スポーツドリンクで一日過ごす。
ヨドバシでIHを注文する。
今週だけでエントリー10受からず。
あくる日、今年初めて外出。
一年ぶりに歯医者にクリーニングに行く。
すき家で朝食を食べようと思ったが、歯ブラシを忘れてそのまま行く。
ジュンク堂に行って、池袋の焼肉屋で44時間ぶりの飯を食う。

 

本屋で美しきものを見ていたいと思う。
イデア勝負みたいなもの、ネタ的なものはもういいよ。
デザインでも、自分が作れそうなものにひかれていたけど、むしろ自分ができなさそうな繊細で美しいものを見ていたい。

そもそも鬱は認知の歪みなわけであるならば、脳の素直な思考や感覚を面白さを求めるあまりにあえてずらして考えるようなことをしていたら、脳に負担がかかりすぎるのではないか。

今は、様々なジャンルのもの、エンターテイメントでも、お店に並ぶ物でも、あまりに『オリジナリティ』をだそうと、重箱の隅をつつくようなアイデアで競うような気がする。そう文房具屋の店先で思った。

せっかくここまで来たから、違う人生を歩んでみたいというのはある。

 

あまりずらしてゆく手精神に負担になるんだろうな。
面白いこととか。
うまいこというのがもてはやされる、大喜利みたいな社会だけど、それはたぶん脳によくないよ。

違う人生を歩みたいとか言っていたし、面白いものから美しいものにシフトしたらどうか。
それだと退屈だから人は刺激を求めるんだろうが。

 

欲動に突き動かされていたら通らんよ。

『何もいらない』じゃなくて、『もう何もない』と言う感覚。
拗ねる姿ではなく、晴朗な姿。


様々な人が、『うまくいくコツ』を本でも動画でも進めているが、それも商売とはいうものの、それが結果として、人々を鬩ぎあいの世界に送り込んでいるということを理解したうえでしているのだろうか。
『工夫しなければいけない』、『アピールのコツ』などと言って、技術だけではなくて、『生き方』、『コミュニケーションの仕方』なども常にあたらしいものを教え続けられたら、
大方の人はくたくたになるんじゃないのか。
それだから、鬱も増える。
成功している人は、その自分の成功こそが自慢の種であり、商売なのだから、有難いかのようにはなして、それを平気で若者に伝えているが、今や、親の世代が、学校教育で慣れきっている世代なのだから、それを制する人、『品がない』の一言で説得して止められる人がいない。

一昔前なら『騙り』と思われているような者のやり方を『研究者』や、『礼儀作法の講師』までが参考し、レクチャーしている時代になってしまって、
それにかかわらずに済む身分が恵まれていると思う。

新しい技術が出る度に、新しい『マナー』や『コツ』を考え出し、それをいちいち真に受けていたら、その技術そのものを便利に利用して、まともな技術や産業、または文化芸術を発展させる前に、ついていくだけでくたくたになるのではないか。

リアルも、何かの行動のたびに、『ああした方がいい』、『こうした方がいい』と言われた場合を考えたら、うんざりしてくるだろう。
それがいくら親身になっての言葉だとしても。

一つの技術が出るたびに、それを覚えるだけではなく、そのために気をつけなくてはならないことが増える。
一つ一つに専門家とは言わないが、営業や宣伝はできるレベルまで学ぶ必要があるかのように喧伝される。
結局、自分を保ち、普通に暮らして行けるのかは、いかに『吹き込まれなかったか』にかかっていると、この年になって今更つくづく思う。

 

個性個性とあおりながら、皆が皆、似たような人間にさせようとしているように見える。

星新一の話しを思い出す。
技術が進んで、空中に家を立てるということがスタータスとなった世界で、皆が皆、空中に家を建てた挙句に、
それに加わらなかった人が広々とした地上の土地を得たという話を。

お金のためにイベントを作り出し、お金のために煽動が行われる。

もちろん、お金は大切であるが、精神を肥大化させるほどのものが必要だろうか。

誰も経済的に困っておらず、しんろにさいして、お金のことを考えずに済むような社会ならそれも一つの生き方であろうが。

 

言うほど恵まれている人間なんていないよ。

 

2/8

真面目に生きよう。

 

自分のすべきことやすべきでないことをあれこれ決め込まない方がいい。
自分のことをあれこれいじらない方がいい。
『反省』と称して、自分を遊び道具に使っているようなもの。
決め込んだ方が楽に思えるんだろうけど、曖昧な自分にも耐えて慣れないと。
なぜなら世界自体が曖昧なものだから。

あまり自分を精神的貴族と思い込まない方がいい。

わざわざ精神的大衆になろうとすることもないけれど。

 

なんか、もう疲れたな。
時代についていけないよ。

静かに平和にできることだけしていたい。

 

デザインでも動画でも小説でもなんでも商業に結びついてしまっているし。
お金がチラチラ見えているものばかり。

商業に結びついているのは、当たり前だけど、今は、それが『自分にも可能性があったかもしれない』という気持ちにもさせて、対象そのものにのめりこんで感動したり楽しんだりすることができなくなってしまった。

大抵のものが、楽しそうに見せているように見えて、常に頭のどこかにお金のことがあるとまでは言わないが、どこか、形にすることを優先させている気がする。
本当に、それをしたかったのかな。作りたかったのかな。


静かに本を読んでいたい。

 

もう一切無理する気がないよ。

 

良く考えたら自分のことを褒めてくれたのは、民俗学の先生だけだよな。
神道系なんて誰からも褒められたことないし。

 

なんか、やっぱりさ、自分の人生は、地道に物欲しがらず、余計なことをせずに、過去を取り戻そうとせず、新しいことも求めず、派手な世界を避け、休まずに仕事をし続けることでしか無事でいられなかったのかもな。

 

Somehow all those reasons sound rather strained ...
何か、全部、こじつけって感じがするんだけど・・・。


何かを得ようとするのは止そう。
ただ、期待を裏切らないように仕事をするだけ。

 

欲の少なさそうな人はほっとする。
なら自分がすればいい。

 

なら、誘惑に負けず、挑発にも乗らなかった自分がいたとして、それで何を手にしたんだろうな。
欲望を叶える手段が増しただけで、何も変わらなかった気がする。

 

小児のころからメディアにも周りの人間にも惑わされずに普通に暮らしたかった。


礼儀正しく思いやりを持つ。
ただそれだけで良かった。

 

ここまで生きてきただけでよくやったわけだから、わざわざ過去に戻りたがるような公開をするにはあたらない。安楽に満ちた世界ではないし。

先に進んだ方がいい。