小児のころは家が少しだけ裕福でおもちゃを自由に買ってもらい、しかも一人っ子でわがままに育ち、小学校のころから勉強がとてもできて学年トップクラス。
人を王様気分にさせるのに最適な環境と言える。
こどものときのepisode 大人がめんどうだからこどもを枠にはめたがる。 その枠をはずす。自分の枠を見出す仕事。普段の言葉遣い。
そこから情況が傾いても、身についた王様気分は抜けず、情況を認められないまま、半端な進学校に進みながら、漫画でもゲームでもなんでも使って、慰める。
それで青年期も過ごしてしまう。
さんざんおもちゃをかってもらってもらった小児に何が残ったのだろう。
自分は人一倍の努力なんてできるような人間ではないから、なんとか継続することはするようにしているとは考えない。
現状、最適な進路選択を選ぶのではなく、過去の良い時を基準として、将来を選択しようとするが、自分の実力と乖離ができているから、何もしないと同然の日々を過ごしてしまう。
たびたび、立ち直れそうな場を得るものの、しばらくすると身についた王様気分が頭をもたげて、本人は普通にしているつもりが、『何で俺の言うことを聞かないんだよ、なんで、俺の思い通りにならないんだ』と、情況を破壊するかのような行動をとってしまい、その場を離れる。
後悔は募る。
その後も、戻りたいと思いながらも慰めの物を見ているだけで過ごしてしまう。
ようやく、自分が根拠のない王様気分でいたことを知る。
自分に対する興味がなくなるのに反比例して、世俗の陳列棚を欲しがり出す。
王様は努力しない。
しても現実逃避のための努力に過ぎない。
愛がない。
究極の消費者でしかない、王様は。
憤慨癖。逆境を乗り越えたことがない。
そこには心理の問題はない。現実の、特殊な、具体的なrelationがあるだけ。
王様の『好き』は、『よく慰めてもらえる』ということに過ぎない。
周りの人間も自分の気分を良くしてくれるかが重要になる。
人形を侍らせて満足する虚構の王様というわけである。
王様の恋愛は、相手にお人形さんになってもらいたいだけ。
王様気分で周りを見てしまう者は、『好き』が仕事にまで発展しない。
自分の気分をぶちまけることが先に立つために、人々が好むものにまで作り上げられない。
プライドが高いと『これでやってきた』、『これで勝ってきた』というだけでやり方を模索しようとしない。
そもそもそのやり方で、できていないし、勝っていないということさえ忘れてしまっている。
小児のときから甘やかされてしまった人間は愛がない。
そして、繁栄の体験にしがみついたままの人間は見合わぬプライドを捨てきれない。
ふとしたはずみに、その王様気分が出てきてしまう。
能力の割にうまくいかないのは、どこか王様気分でいるのだろう。
王様気分もまた環境に左右されたしまった人間の運命であるかのようにも思える。
いつかその王様気分を捨て去り、キリスト教的な意味での復活をするかどうか。
王様気分でいると、自分の代わりはいないという周りの持て囃しを真に受ける。
自分の代わりなどいくらでもいるわけだから、日々成長して、昨日の自分を超えないと。
王様気分の根幹には『わかってほしい』という嘆きがある。
しかし、人間の心や気持ちは今の所でデジタルデータに変換して、移し合う事が出来ない以上、『分ってほしい』という姿はほどほどにしないと。
多くの人間は「正しさ」よりも「同意」を欲しがっている 。
『自立とは依存しないことではなく、依存先を増やすことだ』
自己肥大自己正当化自己陶酔の精神的傾向の強い人間が権力を欲しがる、と銀河英雄伝説あたりに書いてあった気がする。
ルールを外れたがる。
それは、ルールを外れる行為そのものに酔う事で、劣等感に苛まれる現実から逸脱する行為であり、それは青少年の逸脱行為がそもそも劣等感に苛まれ、どこかで優越感を求める姿と変わらない。
劣等感に苛まれ、優越感を求める。
すでに持っている大切なものを見ずに、煌びやかなものを欲望に突き動かされながら手にしようとする。
それは、手にした瞬間、目くるめきの感覚を与えるが、途端に虚しい物と変り果て、さらなる優越感に浸れそうなものを求める。
越えてはいけない一線を越えるのも、全ては空しい物を知らず、煌びやかな物によって、優越に浸ろうとする欲望に突き動かされてのことに過ぎない。
制御が外れている。
そして、幼稚な精神は、虚しさに堪えきれない。
その経験はあくまで個人的なものであるから、共有できない所に、もどかしさがあり、
そこから、優越、劣等の感覚が生じる。
それに反して、知識のネットワークを自分に持つというやり方は、新しいことを知り、さらに点と点とが結びつくような感覚は自分の頭が晴々もするし、何よりその知識自体は、言語を介する者であるから、共有ができるところから、
優越、劣等の感覚が少なくなる。
鬱状態や劣等感を拗らせると線引きが分からなくなる。
鬱状態では、越えてもいい線を躊躇い、劣等感は、時に越えるべきではない線を越えてしまう。
自分がどうこうすればどうにかなるものではないのに、自分に意識が強くと鬱になりやすい。
鬱は、意識のコントロールが効かずに、ストレス対象ばかりに向いてしまう。
人間関係も、あまりに力を込めて握れば、ヒビが入る。
他人に期待しすぎるのは、依存することにほかならず、思い通りに行かなければ、厳しく当たるばかりとなる。
他人に対して厳しいのは、自分が本当にやりたいことをやっていないからだろう。
上手くいっていた時も人の好意に支えられていただけに過ぎない。
手に入れられる人もいれば入れられない人もいる。
一番になりたいというのは、同時にそう言う世界に身を投じる事てはないのか。
世界がこわいから、一番になりたがる。
権力も、自分の権限で仕事をしていればいいけど、権力として、人を従えようとすると、人は、不純なものを抱えるようになる。
幸せな状況になるほどに、やるべきことや注意しなくちゃいけないこと、また抑制しなくちゃいけないことも増していくのであれば、毎度、失敗するのもわからないでもない。
欲望や変な責任感で、やることが増えまくるわけで、当初、その幸運を手に入れた自分の良さを発揮する余裕が無くなるのだろう。
人を責めるのはたやすい。
自分を責めるのはもっとたやすい。
不安におびえ怒りや妬みにさいなまれ、混乱して人を苦しめるような事を続けたら、鬼になるって昔話にもあるだろう。
心の奥底の恐怖に気づくまいとして踊っている。
『人工的室内的境域に対する反発・畏怖・軽信・凝視・混同・否定などが入り混じって少年の人格にあずかっている』
可能性のうちにある、これでよかったのである。
人はすでに持っているものを失うのがいやなのである。
人は目標にふさわしい行動を取る機会が訪れただけでいい気分になってしまい、実際に目標に達したような満足感を覚えてしまう。
愛されたいという要求は、自惚れの最たるものである。
『わかってほしい』を止めないと。
なにかに熱中していると、世界に無頓着になっている。
王様は、自他の区別がついていないから、善意にも悪意にも無防備なところがある。
中井正一
人間は人間を馬鹿にしてはならない
王様は、目に付いたものを自分のものにしたがる。
自制できずに、コレクションをしてしまう。
自分に思いやりが足りない人ほど相手に思いやりを求める。
親は万能ではない。
立ち向かう心
悪徳を栄えさせない
そうか、そうか、つまり君はそんなやつなんだな
ヘルマン・ヘッセ『少年の日の思い出』
王様は、気に入ったもの、人を王宮に入れることしか考えていない。
『欲しい』とおもったら、情況を鑑みずにものをてにし、また相手のことなど考えずに自分のプライベートに入れようとする。
自分は動かないまま、相手だけを動かそうとする。
自分のことがわかるようになるころには、人生に飽きているだろう。
感情的だとか、子供だとかいうのは、何か気に入らないと、ルール内というか、より大きな力で凌駕しようとする。
そうではなくて、別の方向性を示して見せるとか。
王様気分的な小説。
情況が恵まれていない設定にしているが、世界に自分しかいない。
周りの人を自分の世界に呼び込んで、相手をしてもらう。
その主人公は、その相手にも自分と同じ、いや、それ以上の広い世界を持っていることを知らないかのように。
すべては行動力。
行動力を妨げているのはプライド。王様気分。
奇跡や人の好意を実力相応と思い上がる。
眼の前にあるもの、なんでも欲しがっていた。
躓くという経験がないから躓いた時に投げ出すしかなくなってしまう。
『でもインタビューとか読んでると、代わりはいくらでもいるって柳田含めてみんな言ってるよね』
マシソン「(マイコラスに)いつまでメジャーリーガーのつもりでいるんだ!俺たちはNPB選手なんだぞ」
それ以降、マイコラスは覚醒し、活躍したという。
しかし、このような考察など間違っているのだろう。