昔の5分間番組のようなものをYoutubeにしたらどうか。
建築紹介
料理紹介
工場見学
職人技。
淡々と見せるだけでも面白いだろう。
ゴミの出ない学園祭。
飾りは草花と、最小限の案内。
アイデアを出す場合、両極端に振ってみる。
あそこまで地味なら、寧ろ地味で質素を売りにしたらいい。
狂気を感じるレベルでこだわるとか。
顔を出さない学校案内
制約がいくつかあるなら、その制約の一つを外して考える。
どうしても看板が必要で、それがゴミになるのなら、果たして看板は必要なのか。
全員招待客なのに。
Youtubeでうまくいくためには、偉そうにしないこともコツではないか。
あのメディアが、一つには承認欲求を満たすことで成功しているわけだし。
承認欲求→ライブ、スパチャ
優越感、慰め→お笑い
性欲、慰め→色物
自分が以前勤めていた学校の動画を改めてみて見たが、
生徒は楽しくしているのだろうが、ある一定の範囲を出ていない動画をその都度あげているだけに見える。
学校の広報も子供相手になるから、作り手としては発展しづらいのかも知れない。
頭の方の発展も含めて。
商品と違って、開発できるわけではない。
学校にとっての商品は進学実績だから。
あくまでも生徒の学校生活をイベントも含めてただ紹介しているだけだから、編集や研究者や芸術家と違って対象から離れているわけでもないし、
生徒自体の『活動』を映しているから、そこに個性がないまま、同時にさらにてもとまで寄り、生徒が何か手作りでする風景を淡々と名が撮影するわけでもない。
意外と、制作風景は見てしまうが、学校の動画では、その制作の質もあるが、そこまで『物』にクローズアップできずに、半端な焦点で撮影してしまっている気がする。
Youtubeで見られているのは、やっぱり何かに特化したものだろう。
音楽でも映像でも、料理でもコントでもさらにはエロでも。
そこには『寄り』がある。
体操の動画でも実際は、引いて取っているけど、そこには役に立つ体操紹介という『寄り』がある。
言い方を変えれば特化している。
さらにいえば、Youtubeは時間配分が決まっていないから、TVでいえば一つのコーナーで作られる。
そこがYoutubeとTVの最大の違いであり、Youtubeはこの何年かで、他人が映像を見る際の感覚を変えてしまった。
だから、映画にしても、これまでのような実写ではなく、アニメがはやる。
アニメは、クロースアップの手法を実写よりもずっと相性がよく、また利用しているから。
どんどん視聴者が比喩的な意味での近視眼になっている。
面白いと思う映像は対象から精神的には離れていながら、映像自体は、リアルな『物』のクローズアップになっている。
『生徒が楽しそう』では、対象との距離が半端なまま。
なぜなら、今の視聴者は消費者であるから、ただ楽しそうな人を見ても何も感じない。
自分が憧れるレベルのかっこいい人が、もしくはたいていこちらだが、自分が見て楽しめないと見はしまい。
ダンス動画が女子だけなぜ異常な再生数があるのかそれでわかる。
『再生』ということも一つのキーワードであり、
TVは見るだけ。
Youtubeは、面白かったら再生をする。
あの再生数は、見た人数ではない。
面白かったら、もしくは役に立つなら、同じ人間が繰り返し見ているのらしい。
特に子供は驚くほど繰り返して見ている。
技術が進んでゆくにつれ、行動するのが便利になるし、鍛錬も効率よく出来るようになる。空間は居心地がよくなる。しかし、たまにソファーと壁の隙間に入り込んだり、画数の多い字を手で書きたくなったりするように、人には、揺らぎが必要である。歩くのさえ、左右に揺れなければ前に進めない。そこで、下らぬもの、意味のないものがはやる。
人は、『自分が我慢したりできなかったりしたことを人がやるのを見聞きするとストレスを感じる』のである。
何のために生きているのかという確固たる概念なしには、人間は生きてゆくことを潔しとせぬだろうし、人間は神よりはむしろ奇蹟を求めている。
「イケボじゃなくても不快にならない声
ずっと楽しそうにテンション維持
キャラを崩さない
面白さよりね楽しいのが大事』
『子供がやりたそうな事をやる
人の悪口を言わない
下品な言葉遣いをしない 』
『やりたい事を楽しそうにやっているチャンネルは伸びる』
『視聴してほしければ
子供向けに徹してヒカキンみたいにバカなことをやり続けるか
専門性を出して知識欲を刺激して、それに真摯に対応するかの二択しかない』