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noise&randomness

慰めの文化の蔓延

『インプットがなければアウトプットもない』と言われる。

しかし、インプットだけでアウトプットがなければ知識も滞ってしまう。

アウトプットをしないと、アルゴリズム(記憶)が獲得されない。

書くことも一つの手ではあるし、また会話もそのアウトプットにふさわしい。

 

自分の知力を上げたければ、まともな人との雑談をするとよい。

すこし背伸びした相手との会話において、ばらばらであった知識がつながってゆく快感を得ることがある。

 

会話には会話の流れと言うものがある。

 

雑談が苦手な人はその流れをつかむのが苦手なのだろう。

しかし、そのようなひとでも、雑談が得意な人と話せば、普通に会話できてしまう。

 

それは、雑談の得意な人と言うのは、相手の表情や口調を察し、相手を会話において躓かせないようにフォローする力があるためである。

 

 

Youtubeにおいて、ライブ配信と言うものを見ていた。

配信する人は、視聴者が入力して送ったコメントを読み、それにまたコメントを言っていた。

配信者が何かをやっている風景を見ているだけのものもあるのであろうが、それは、ただ、コメントのやり取りに終始しているように見えていた。

 

それはあたかも喫茶店で知人とだべっているのかのようでもあり、また居酒屋やバーなどで、カウンターの向こう側の人とやり取りしているかのようでもあった。

 

本来、口に出して言うべき言葉を、文字で表し、『会話』として感じているが、それは『会話』なのであろうか。
現代ほど、言葉を一言二言だけで相手に向けてしまい、すぐに相手の文字になった言葉を受け取るという事を人はしてきたことがないのではない。

 

しかも、その言葉なるものは、一度、キーボードや画面上に触れて、さらにぶつ切りにされたひらがなを集めて、再び画面上で言葉に直しているわけである。

 

それを皆、器用にこなしているようである。

 

通常の会話と違って、コメントを入力し、画面に出てから、『向こう側の人』は反応するから、タイムラグが出るものではあるが、中には、会話の流れにあまり関係ない、自分から見れば突拍子もないようなコメントをしているようなものもあったが、配信者はそれに対しても、丁寧にコメントをしていた。

 

リアルでは、雑談が苦手な人間は、その場の話の流れや状態を見ることができずに、突拍子もないことを言ってしまいがちである。

それは本人は普通のことと思っているが、その場の人たちは何で突然その話なの、ということになる。

 

ところが、Youtuber、またはそれの外見だけをCGにしたVtuberと呼ばれる相手ならば、

多少突拍子もないことを言ったとしても、それを丁寧に応じてもらえる。

 

相手が一人ということ、文字で入力すること、他にもたくさん視聴者はいてコメントを『書く』ということ、そのことからもともとタイミングがずれるような形式の場なのである。

 

自分のような雑談は得意であるが、相手はせいぜい二、三人までと言うような人間、同時に取り留めのない話をしていながら、頭の片隅では何かしらのゴールを目指しているような人間には、あたかも聖徳太子のごとく、次々と多数の相手から寄せられる切れ切れのコメントを相手にするような能力はうらやましくさえあるが、配信する人は、何のためらいもなさそうに、いきなりあいさつしようが前の話題に戻ろうが、構ってくれるのである。

 

ライブ配信においては、お金を相手に与えることもできることから、これをキャバクラなどと見立てる意見もある。

 

昔から水商売と言うものは、客の愚痴を聞き、慰めることで商いをしているものであるが、そのような場が苦手な人であっても、Youtubeライブ配信ならば、気軽に場に参加できるし、コメントも言えるのである。

 

カメラは人と関わらずに、なお人と関わることもできる、不思議なメディアであるが、それを利用しているライブ配信も同じ効能がある。

 

また、配信者としても、相手の顔が見えず、人格もない、いわば人工知能とチャットするようなゲーム感覚の面白さもあるのかもしれない。

 

そうして日々の憂さを晴らすような場として機能しているのだと思う。

 

近頃の漫画でもライトノベルと呼ばれる若年層向けのの読み物でも、最近の主人公は、初めから無敵で、挫折もしないようである。
挫折をして、人間的に成長するのは、むしろ脇役である。

 

そのようなものが求められて位と言うことは、読み手もまた、現実世界の慰めの物として消費しているのであろう。

 

『コンプレックス』とは、呪いを現代風に言い直したものではないか。

現実世界でのいわゆる『マウント合戦』は、相手に呪いの言葉を投げつけて、ありもしない悩みを与えているようなものであろう。

 

そのような慰めの場と言うもの時代ごとに変遷があれ、いつの時代も需要はある。

 

あらゆる娯楽、道楽、メディア、お喋り、祭り、年中行事、物から思想に至るまで慰めとして利用されていないものはないほどである。

 

文化史もまた、慰めと言う点から語れそうである。

 

本来祭りと言うものは、聖なる日と言うことで、その日は祭儀に捧げる日であるから日常から切り離して日として丸ごと聖化していたのであるが、それも時代が下って、技術により、自然から社会を守れるようになってくれば、意義も薄れ、人々が日常の労働から解放されるという風に変わってきた。

 

技術が進めば、娯楽も増す。

技術が進むごとに人も忙しくなり、また、慰めの種類も増すようである。

 

『成し遂げたい』という欲求とそれをなしえたときの気持ちよさは、勉強や仕事の上で達成すれば成長にもつながるが、普通は、メディアや環境に影響されて難してために、つい消費活動でその欲求を解消しようとするのである。

 

哲学の根本は拒否にあるというが、なかなか忙しい時代にはそれも難しいようである。

 

知の驕り、自分は為し得るという欲望。
コレクションの欲望、他人より知っているという欲望、ぬきんでようとする欲望、
それは、不毛な欲望であり、愛とは何の関係もないばかりか、肉欲の愛さえも関係がない。

 

ピンボール研究書「ボーナス・ライト」の序文はこのように語っている。

あなたがピンボール・マシーンから得るものは殆ど何もない。数値に置き換えられたプライドだけだ。
失うものは実にいっぱいある。歴代大統領の銅像が全部建てられるくらいの銅貨と、取り返すことのできぬ貴重な時間だ。
あなたがピンボール・マシンの前で孤独な消耗をつづけているあいだに、ある者はプルーストを読み続けているかもしれない。
またある者はドライブ・イン・シアターでガール・フレンドと『勇気ある追跡』を眺めながらヘビー・ペッティングに励んでいるかもしれない。
そして彼らは時代を洞察する作家となり、あるいは幸せな夫婦となるかもしれない。
しかし、ピンボール・マシンはあなたを何処にも連れて行きはしない。リプレイのランプを灯すだけだ。リプレイ、リプレイ、リプレイ……、
まるでピンボール・ゲームそのもがある永劫性を目指しているようにさえ思えてくる。
永劫性については我々は多くを知らぬ。しかしその影を推し測ることはできる。
ピンボールの目的は自己表現にあるのではなく、自己変革にある。エゴの拡大にではなく、縮小にある。分析にではなく、包括にある。
もしあなたが自己表現やエゴの拡大や分析を目指せば、あなたは反則ランプによって容赦なき報復を受けるだろう。

 

本当の「キャラ崩壊」は、逆とか、ブラックな性格にするものではなく、
そのキャラならある得るという性格や行動描写を論理的にしかも長々と描いてしまう事だろう。
余りに乖離しているものなら、それは、二次創作として、つまりフィクションとして意識せられるが、
そうでない場合は、そのキャラの性格を奪われてしまうという感覚になる。
自分の好きなキャラは、自分の思った通りに想像していたいのに、それができなくなるというわけだ。
「女の過去を問うのは無粋」と言う事があるが、好きなキャラの知りたくもない過去を聞かされている感じ。

それはそれとして、二次創作において、好きなキャラが過去に誰かを好きになっていたことなど、ファンは知りたくないだろう。
現在、アニメや漫画が人気なのは、現実のアイドルが偶像としての役割を果たしえなくなってきたのもあるだろう。
それに対して、アニメや漫画のキャラは「過去」もプライベートもないから、安心して恋愛感情を注ぎ込めるというわけなんだろう。

 

消費活動というものが、どうもプライドを保つためのその場しのぎの行為になっているようである。

 

服はファストファッション、電化製品その他の物はは安い海外製、日々ポイントを集めて節約。
そうしていながら、『幸せを買う』と称して、お金を虚業と呼ばれるものに費やしてしまう。
そのような風潮が広まる国はどうなるのだろうか。
そうして集められたお金は『あぶく銭』としてしか認識されないだろう。
祖手も国を支える産業や慈善事業に使われるとは思えない。

 

自ら、忙しく、またせせこましくしていながら、慰めを求める。

それに気づきながらやめられないのは、精神疾患なんだろうが、今のメディア、その戦略が、人々を精神疾患にするような方向に仕向けてきた結果なのかもしれない。

その欲望の解消方法に欺瞞は混ざっていないだろうか。

どこか、格好つけていたり、諦めを誤魔化していたり、そう吹き込まれた挙句の『幸せを買う』行為なのではないか。

 

寂しいから、自己主張をする。
寂しいから、自分の気分に見合ったコメントを探す。

 

一昔くらい前だったか、テレビ広告を作っている人が、『視聴者を偏差値40だと思って作れ』と言う発言が話題になっていたが、
今のCMは、それに加えて子供向けのような雰囲気さえ醸し出していることはないだろうか。
売れればそれがCMの目的であるから仕方のないことであろうが。

 


なぜプライベートで欲望を求めたり、慰めにお金を費やすのか。
パブリックでさみしい思いをしているためである。
学生なら学校、大人なら今はほとんど仕事であろうが、それらの場でさみしい思いをするから、その空隙を埋めるために欲望に入る。
欲望でお金を使ってしまうから、好きな仕事よりもお金や自尊心を優先させる仕事しかできない。
そうなると、もう欲望でしか慰められなくなる。

 

しかし、このような考察など間違っているのだろう。