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noise&randomness

マスターのような人

ニコニコ動画は、映像の上に見ている人々が思い付きのコメントを載せる機能があり、見ていると面白いものがある。

そのような動画の一つにジャズ音楽を聞かせる動画があるが、

それがあたかもジャス喫茶やジャズバーなどで音楽を聴いているかのようなノリになっている。

純粋に曲に対するコメントもあるが、『マスター、コーヒーを』とか、『マスター、ジンライムを』などという具合に客としてのノリが多い。

 

 

また、バーと言えばマスターという連想から、『マスター、勉強に集中できないんだ』とか、『マスター、好きな人ができたんだ』など、人生相談のノリでしているコメントもあって面白い。

いくつかのコメントに対しては、マスターのノリで『気分転換にこの曲はどうでしょう』とか、『若い人はうらやましいですね』と、コメントをつけている。

 

それぞれ、その場での会話をバーチャルな空間ではあるが楽しんでいるようで微笑ましい。

そこでは文字だけのやり取りが行われ、SNSなどとは違って、皆、役になりきっているようにも見える。

 

そこでの相談事は、いまのネットにありがちなものではなく、どこか穏やかなものさえ感じられる。

 

そこには、理想のバーのマスターがいるのであり、客もまた理想のバーの客になろうとしている。

 

バーのマスターとは、どのような人であろうか。

相談に乗りやすい。

マスターに自我がない、もしくは個性があまりない。

あくまでカウンターを挟んでの関係だから、のめりこむことはない。

利害関係がない。

 

人は、どこかでマスターのような人を求めていることはないだろうか。

 

Youtuberに対して、Vtuberというものがある。

見た目はアニメのようなCGであるが、実際は人が動いているらしい。

そのVtuberが人気であるのは、見ている人が、コメントをすると、相手にしてくれるところにあるらしい。

それがうれしくて、『スパチャ』と称したいわばお賽銭のように料金を払う仕組みらしい。

 

あれもまた言いたいことを投げて、それに反応してくれるのであれば、マスターの一形態と言える。

 

消費者は、店員のつまり他人の人格を考慮したがらない。

だからこそマスターの需要があるのではないか。

 

人はお願い事を神様にするし、悩みを宗教者に聞いてもらうことをしてきたが、

現代には、マスター的な人も求められているのではないか。

 

悩みがないように見える若い人でも、それぞれに悩みを抱えている。

進路であったり、恋愛であったり、家庭や人間関係であったり。

そうした人の悩みはどこへ行くべきなのだろうか。

 

今や、多くの人が、基本的に消費者であるわけだから、畏敬の念を持ちながら我欲を外さねばならないような対象に帰依するのではなく、

消費者である自分はそのままに、こちらが客として扱われるような相談相手が欲しいのではないか。

 


自制ができないと、人は、『欲しいもの』を見たらそれが人でも物でも、手をのばして、自分の領域、プライベートに入れたがります。

相手の情況より、自分の『欲しい』を優先させようとします。

 

ところが、マスターは、手を伸ばして、自分の領域に相手を入れようとしません。

カウンターがありますからね。

あくまでお客さんとの関係性をカウンター越しに保ったまま進めていくわけです。

 

このカウンターという装置がお互いの距離感を保ちます。

大学などの事務局のカウンターもそうですね。

 

この場合、お客さんもカウンターがあるから、良い距離感を保てます。

 

 

よく、ゲームの主人公で、自分は特に夢や目標はないんだけども、関係した周りの友人たちの成長を促し、夢を叶えることを応援しているようなものがあります。

まあ、主人公ですから当たり前ですが、そういう人は周りに人が集まってきます。

そうして、周りを成長させ、自分は周りを成長させることで成長する。

マスターはともに行動するわけではなく、話を聞くだけです。

 

話を聞くだけなのですが、人間はなにをしたいかと言えば、コミュニケーションをしたがっている。

記述の発展とともに進化するメディアが、ほとんどコメント文化と言っていいものになっている。

何であれ、いつでも、コミュニケーションをとりたい。

ただ、距離は保ちたい。

 

皆が皆、自分の人生で主役になりたがっている中で、カウンター越しに静かに話を聞いてくれるマスター、現代で必要とされていると思います。

 

万物に神が宿る。

『悩める人の数だけマスターがいる。』