CheatCut

noise&randomness

近時片々

ちなみに、唐揚げは、本来、「空揚げ」だそうです。

天ぷらのように衣をつけて揚げないので「空揚げ」だと、昔、聞いたか、読んだかしたことがあります。

記憶は、ないまぜになって、教養とか、常識とか言うものになってゆくのかもしれません。

思い出は、ないまぜになって、人の何を作り上げてしまうのでしょうか。

 

 

子供の頃は、かき氷といえば、簡単なものでした。
氷を削って、銀の小さなひしゃくでシロッブがかけられていましたね。
商店街のおでん屋が、夏になると俄然(がぜん)としてかき氷屋に変化していたのを覚えています。
かき氷は、アイスクリームにない涼味がありますね。
と思ったら、氷の下からアイスクリームが顔を出しました。
氷の下には、アイスクリームと練乳、ストロベリーソースがありました。
放課後、30分で売り切れてしまうのも、むべなるかな。
せっかく、焼きそばと、かき氷が揃ったので、並べてみました。

江ノ島リゾート気分です。

 

お暑うございます。

盛夏と言って差し支えのない気候になっています。

通勤で汗をかくことになります。

むしろ、午前9時には、仕事を終えたい人も多くあろうかと思います。

 

さて、今日のお昼は、スペシャルカレーです。
カレーも、夏っぽい料理ですね。
個人的には、むしろ、ハモとかうなぎとか食べても一向に構いません。
染付けの鉢に氷を盛って、笹の葉を敷いた上に、湯通ししたハモをのせて、清々しい景色を演出したいですね。
さて、今日のお昼の現実は、カレーです。

広報は、食べることと、喋ることの両立が苦手なので、今日は少なめにしました。

育ち盛りの人たち向けになっています。

たくさん食べてください。

もしくは、たんと召し上がれ。

 

今日は、お弁当にしてもらったのですが、食べ終わって、器が残りますね。
こういう器って、使い捨ての便利さのためにデザインされているのでしょうが、うまくできていますよね。
特に味噌汁のコップ。
空になった容器を両手で支えて掲げてみたり。底を眺めてみたり。
「プラ」っていう銘がありますな。
持って帰ってもいいんですかね。

 

最初の海がハワイですか。
で出し快調ですね。

 

 

広報には、エビアンとボルビックの違いがわからないのですが、ノンオイル梅とノンオイル青じその違いはわかります。

 

七夕になれば、笹を上げて、短冊をくくりつけます。
それぞれの願いは、どのようなものでしょうか。
切なき思いは、あふれ出します。
できれば、屋根を越えて掲げたいですよね。
天に届かせないと。

 

甘酸っぱいものが込み上げてくる中、甘酸っぱいものを食べてみたり。

 

パンプキンサラダは、この店で初めて食べました。
かぼちゃを最近食べていなかったことを思い出しました。
口に入れた時に思い出すことって、あるよね。
夏のはるけき思い出とか。

 

この頃は、朝の4時半に目が覚めると、ニイニイゼミが暁を告げていますね。
わたしは、二度寝に入ります。
もう少し、夢を見ていたいのです。

 

 

ナスとパプリカ、モッツァレラのジェノベーゼ風は、ナスでなくて、ズッキーニかもしれません。
こうなってしまうと、わたしには、ナスなのか、ズッキーニなのか、区別がつかないのです。

お盆に載せきれません。
ミニバイキングの有様です。
たくさん食べてしあわせになる。
なめこ、美味しかった。

 

オレンジ、スイカ、パイナップル。
色の綺麗な果物が並んでいます。
明治大正期の近代文学を読むと、果物のことを水菓子と呼んでいますね。
あえて使いたいですよね。水菓子。
水菓子、今は、桃とスイカでしょうか。
立秋をすぎ、ブドウが出てくると、秋めいて来ます。

 

今日は涼しい日でした。
涼やかに生きたいですね。涼やかに軽やかに。
かるーく、かるーく、煙(けむ)に巻く感じで。

 

今日は、土用丑の日です。
暦では、土用(どよう)に入っています。
土用というのは、四立(立夏立秋立冬立春)の直前約18日間ずつである。(Wikipedia)
その土用の期間の丑の日という事ですね。
夏の土用の丑の日には、みなさん、うなぎを食べますね。
江戸時代に広まった習慣ですが、こういうものも軽い祭りです。
日常に、軽い祭りを入れ込んでくるわけです。
そして、今日の広報の昼食は、うな重です。

ところで、うなぎが夏に良いとされる風習があったのは、何も江戸時代からではなくて、万葉集にも次の歌が残っています。
石麻呂にわれ物申す夏痩せによしといふものぞむなぎ取り食(め)せ
痩す痩すも生けらば有るらむをはたやはたむなぎを取ると河に流るな
石麻呂さん、食べないと。うなぎ。

 

広報は、そばのなかでは、もりそばが好物ですが、わさびがあるから選んでいる気がします。
むしろ、わさびを食べるために、もりそばを食べるくらいです。
ちなみに、蕎麦屋にある献立に「大もり」とありますが、注文すると、もりそばの大盛りが出て来ます。
「大きなもりそば」という意味です。
他のメニューのビッグザイズというわけではありません。

 

優しい素材が多いので、すんすん食べられます。

 

かき氷のことを昔は、氷水とも呼んでいました。
今日の氷水は、抹茶にあずき、練乳に白玉が添えてあります。
いちごみるくでは、下にバニラアイスが敷いてありましたが、
抹茶にあずきは、抹茶アイスが入っています。
抹茶を甘味に持って来るとというのは、素晴らしいエディティングだと思います。

 

うどんも選べます。
夏場は、冷やしも選べます。
さらに、わさびか生姜を選べます。
まさに、選択の人生です。
中には、冷やしそばで、生姜を選び、冷やしうどんでわさびを選ぶ人もいるそうです。
常識をクロスさせるわけです。

 

今日は、両国の川開きですね。
蒸し暑い時期に、涼を収めたいわけですね。
川開きには、花火を打ち上げることで、盛夏の到来を自覚するわけです。
風に吹かれて、漆黒の夜空に散り開く光の華を眺め、華のはじける音に包まれるうちに、ソリッドからエアゾル状態にならんとしますか。
気分としては。

 

みなさん、楽しんでいただけましたでしょうか。
明日もありますよ。

 

マウスをスクロールしているうちに、何を探しているのかわからなくなる瞬間がありませんか。
今日も蒸し暑うございました。
各地で、海は開き、川も開いています。
みなさんの心も開くのでしょうか。

 

なんと、今日から夏休みに入ってしまいました。
広報は、食堂に依存した食生活をしていましたので、見直さなければなりません。
いっそ、バカンスに行きたいですね。
カリブ海とか。
行ったことはないんですけどね。

そのようなわけでして、数を数えて、24回を数えました、メニュー紹介も、今日は、どうにもなりません。
しかし、食堂には入れました。
夏休みを前に、食堂の方々が片付けに来ていましたね。
というわけで、今日は、食堂の風景を撮影しました。

世界の地図が張ってあります。

征服したくなりますね。

果てなき透明の光と、流れてゆく白が、いつまでも綺麗です。

教室には、文月などと書かれていましたが、 明日から、八月ですね。

 

今の候は、涼風至(すづかぜいたる)と言うそうです。
すずやかな風が吹き始める頃ということですが、ライトノベルの主人公のようです。
さて、食堂が休みなので、スーパーの惣菜などでお昼を済ましている広報です。
おばんざいとか食べたいですね。
がんもとか、長芋とか、茄子とか使った、何かしら、良い塩梅の料理をいただきたいものです。豆腐とか。
今日も、お暑うございました。
今年一番の気温になったようです。
摂氏37度ですか。
数字で計らずとも、陽炎が立つようでした。
写真は、雨になる前の校庭です。
写真の左側に入道雲が立ち上っていました。

 

今朝、起き出してみたら、まだ灰色の雲が次々と流れていました。
こういう日は、どこに行けばいいんでしょうか。
思いつかなかったので、とりあえず、風に吹かれながら仕事場に来ました。
風に吹かれたい時もないことはないのですが、限度というものがあります。

 

写真は、今日、お昼過ぎの屋上校庭からの眺めです。
これほどの高密度の青を見たのは、どれくらい前でしょうか。
果てなき透明の光と、流れてゆく白が、いつまでも綺麗です。

 

初秋の魚で、もてなす時候となりました。
鱧(ハモ)の旬が過ぎれば、鱸(スズキ)ですか。
今からでも遅くはないので、鱧(ハモ)を食べに行きたいものです。
さて、鱸(スズキ)ですが、めでたい魚としても重宝されます。
有名なところでは、平家物語に出てきます。
平清盛熊野権現にお参りする際に、乗っていた舟に鱸(スズキ)が飛び込んで来たところ、これはめでたいと、食べた話ですね。
その後、清盛公が出世したという流れになります。ストーリー的には。
白い生き物が、吉祥の験(しるし)とされるのは、珍しくはないのですが、どうやって食べたのでしょうか。
薄造りですかね。ポン酢がいいですね、薄造りは。
これがお作りとなると、何と言ってもわさびを添えないといけませんが、平安時代には、醤油がありません。
清盛公も、酢でなますにして、食べたのですかね。ひた喰いに。

さて、お魚ということで、今日は、○○部水族館です。
「○○部水族館」という言葉も、広い浮世にはあるわけです。

 

むせぶほどの暑さにうだる八百屋の店先に、今年は、桃が長く出ている気がします。
広報は夏になると、ほぼ毎日桃を食べています。
桃は、何でしょうかね、不思議な味をしていますね。
桃は果物扱いですが、広報にとっては主食扱いです。
桃といえば、桃太郎ですが、桃は、魔除けの力があると信じられて来ました。
イカ太郎やみかん太郎では、鬼退治は無理なのです。
古代の中国では、女の子が生まれると、庭に桃の木を植えたそうです。
古事記でも、イザナギノミコトが黄泉(よみ)の国から逃げ帰ってくるときに、黄泉の者に向かって、桃を投げつけて撃退しています。
「取在其坂本桃子三箇待擊者、悉逃迯也」の箇所です。

 

パイが美味しそうですね。
パイといえば、赤毛のアンに、レモンパイにさくらんぼのパイが出てきました。ホイップクリーム付きです。
オレゴンの人々も、三角屋根のピクニックバスケットに入れて持ち寄ったのでしょうか。
小さなスプーンおばさんや、くまのプーさんなど、美味しそうなものが出てくるお話を今更ながら読み返したくなります。

 

アンといえば、あたししみじみ生きているのがうれしいわ―世界って、とてもおもしろいところですもの。
という村岡花子さんの訳に感銘を受けたことを思い出します。
It just makes me feel glad to be alive—it’s such an interesting world.
の部分の訳ですが、しみじみ生きている、とは、自分がいることを深く感じて生きる喜びを意識していたい、というようなことでしょうか。
日常に埋もれている小さな花でも、心に染み入るような光を投げかけているわけです。

 

朝まだきのそぞろ歩きで、路地の垣根を越えて青いものがいくつもぶら下がっていると思えば、ほおずきの実でした。
子供の頃は、人蔘色になった袋を吹き鳴らして遊んだものでした。
夏のノスタルジーです。

 

どれだけ塗ろうが色の付かなかったキャンバスにも、やがて少しずつ色がついて来る日がくるでしょう。
絵の具がなければ、墨の濃淡で色を表わしたっていいのです。
いよいよ、自分の進路を決める時が近づいていますが、自分の道は、自分でしっかりと確保したいものです。

 

夏休みを一週間取った方は、今日あたりからお仕事でしょうか。
受験生にとっては、勉強したり、寝坊したりの日々が始まるわけですね。
広報は、先日、神楽坂に出向きました。
雨続きから一転して、眩しい日差しが生え茂った街路樹の梢を揺らし、蒼く澄んだ空の一端には、綿雲が盛り上がるような天候でした。
夕方になると、石畳の日ざしに火照るけはいが残りつつも、薄雲が日を遮り、風がそよぎ始めました。
ああ、好い風だと思って、坂をゆるりと歩いて過ごしました。
飯田橋をすぎて、人のいないお堀沿いを歩くと、黄色い総武線が音を残して過ぎ去り、お堀は、鶯(うぐいす)羊羹のように水を湛(たた)えていました。
とても、気持ちの良い時を過ごせました。

 

先日、茗荷谷に行ったら、春日通りを挟んでローソンが向かい合っていました。
夜ということもあり、ミラージュ(mirage)を見ているようでした。
横断歩道もほぼ目の前にあるのですが。
別館的なあれでしょうか。一方は座敷とか。もしくは、コース料理の質が違うとかでしょうか。
ちなみに、ミラージュ(mirage)は、ラテン語の(鏡で)見るという言葉から来ているそうですが、まさにそういう景色でした。茗荷谷駅前のミラージュ。
もしくは、現実が横尾忠則

 

確か、今朝は雨の音で目が覚めたかと思います。
雨音で目覚めた朝は、静かに過ごせそうな気がします。
広報が家を出た頃は、雨はあがっていまして、雨にけぶる森の匂いを鼻に感じながら、ベールのような雲の向こうに思いを馳せました。

 

家を出て、路地を歩けば、道端の草が朝露に濡れている。風のざわめきが聞こえて、夏の間に繁盛した草が波のようにうねっていました。

夏の終わりの草刈りの時期でしょうか。

 

なお、お越しの方には、ごちそうが振舞われるそうです。

本当ですか。祭ですね。
学園祭シーズンが、9月の下旬から11月の上旬あたりということは、収穫祭のテイストがあるはずです。
祭には、春祭夏祭秋祭冬祭とありますが、なかでも秋の祭は収穫祭ですので、盛大に行われます。
ピーヒャラ、ピーヒャラの笛の音もやはり秋祭が似合います。
本格的なものから楽しいものまで、みんなの実りの秋(とき)です。

 

侘び寂びの茶事とは、別の茶味、楽しみですね。

 

途方もなく成長したひまわりを見たのは、八月の記憶でしょうか。
おぼろげに残る夏の景色は、いまだ見ぬものなのかもしれません。

 

さて、今日も今日とて○○の紹介です。

 

おぼつかない光の朝に、今日も仕事に行ける喜びを感じながら目が覚めた広報です。
本当ですよ。
今日は,うす曇の空は低く、校舎の上からから見晴るかす町も鈍い光に、浮き立ったように見えました。

 

ときに、今日は何かというと、彼岸の入りです。
彼岸といえば、彼岸花を連想してしまいます。リコリスとも言われます。

彼岸花は秋に近づくにつれ芽が伸び、彼岸の頃に花を咲かせます。
乱れ立ち上る焔(ほむら)のような形と色、墓地に群れをなして咲く様から、あの世の景色を思わせます。
彼岸は,彼方(かなた)の岸という意味です。
あの世のことです。
対するこの世は,此岸(しがん)と言います。
此方(こなた)の岸です。
三途の川を挟んで、彼岸と此岸があるという思想です。
お彼岸の時期、お墓参りをするのは、此岸の人間が、彼岸に出向くわけで、そこに彼岸花が、雰囲気を高めるわけです。
ちなみに、お盆は,此岸が彼岸になるわけですね。
さて、広報の今日のお昼は,ぼた餅ではなく、秋茄子のボロネーゼです。

 

ときに、どうして「○○」と呼ぶのでしょうか。
通りがかりの人が教えてくれました。

 

昨日は,野分の過ぎた後、澄み渡る青が広がりました。
めぐりゆく自然の中、すっかり秋めくのかと思いきや、広報の家の外では,朝の九時にミンミン蝉が鳴き出しました。
夏の名残りに、しばし聞き入っていましたが、ただ一匹で鳴いていた蝉も、空にみなぎる秋気に呑まれたらしく、昼前には止み、鈴虫やコオロギの音に移り変わっていました。

 

食堂の人に、「これなんですか」と、聞いてみたら、生麩だそうです。
ヨモギ入りの生麩を揚げて、田楽味噌がのせてあります。
広報は、生麩の田楽も、ヨモギ入りの生麩も食べたことがありますが、それが、食堂の小鉢の列に交じっていると、わからなくなるものです。
配置を変える、場所を置き換える。
現代アートの手法に、めくるめくわけです。

 

大人になると、走りたくなるって時、ありませんか。

 

今日は、活発に過ごすとお暑うございましたが、空の青も爽やかな色になってまいりました。

 

みなさんは、「空の輝き」と聞いた時、鋼鉄のように磨かれた青空を思い浮かべますか。降るような星空を思い浮かべますか。
私は、星のまたたく夜の空を思い浮かべました。

 

食堂の壁には、世界の地図が張ってあります。

夏休み前に見た時は世界を征服したくなりましたが、今見ると遠くに行きたくなりました。
夏が過ぎれば、心持ちも移ろうわけです。
遠くに行きたくなるといえば、石川淳の「普賢」という小説に、
汽車に乗ろう汽船に乗ろう汽笛を鳴らして疾走するものに乗ろう
という文があります。
主人公が、状況にうんざりしきった挙句の歎声(たんせい)のような感慨ですが、文体に隙がありません。
石川淳は、昭和10年くらいから戦後まで活躍した作家ですが、文章が上手です。
小説が苦手という人には、「西游日録(せいゆうにちろく)」という、随筆というか、旅行記があります。
横町を曲って行くほどになにやら看板をかかげた小さい店がある。黙示録といふ居酒屋だそうである。素通りするわけがない。
という感じで、当時のソビエトからヨーロッパに遊んだ際の紀行文です。

 

食堂に戻ります。
食堂に張ってある世界の地図は、国名や都市名が英語表記で、パラレルな感覚に浸(ひた)れます。
表記を英語にしただけで、あったかもしれないフィクション性に、めくるめきの感覚が生じるわけです。
くらませたい時ってありますよね。

こちらは、複雑怪奇方面です。

 

季節は、駅の線路脇から鈴虫の音が聞こえる候となりました。
駅のプラットフォームで一人、夜更けに電車を待っていると、侘しさが募(つの)って来て、悪い気はしません。
鈴虫も妙なところで鳴くものです。
電車に乗り、扉が閉まった、しんとした一瞬に鈴をゆらせたかのような音が流れ込んでくるときがあります。
俳句でも読みましょうか。
と、言いながら、今日も今日とて、お昼の紹介です。

 

食べてゆくと、底にバニラアイスが置いてあります。
そこにバニラアイスがあるわけです。

 

昨日の夜に桃を食べたところ、皮が硬く、剥けない。目の前に吊るしてあったピーラーで皮を剥いて食べました。
ピーラーは便利ですね。
誰が発明したのでしょうか。
アメリカ人ですかね。

 

そ・こ・で…、
カフェタイムに行ってきました。

食堂は、おやつの時間に俄然(がぜん)として、カフェになります。
オムライスやバスタなどいわゆる「カフェごはん」的なものに加えて、甘味もあります。
今日は、シォンケーキ・ストロベリーソースがけを頼みました。

くつろぎのカフェタイムです。
フレンチポップとか聞きたいですね。

 

泡が灯の光を七色に映し出してきれいだな、と思いました。
広報はコーヒーは、カフェオレを飲んでいたのですが、ブラックを飲むようになってしまいました。
とどのつまり、コーヒーはブラック、紅茶はストレート、飲み物は水につきます。

 

毛布越しに雨音を聞く夜
昨日は何やら眠られませんでした。
一年のうち、二度くらいある眠られぬ夜は何のざわめきなのでしょうか。
途中から意地になり、眠るまで蒲団にいようとしましたが、8時になったので起きました。
そういうわけで、広報の「疲れていない」は、酔っ払いの「酔っていない」と同じ状態だと思っていただきたいです。

 

昨日、彼岸が明けました。夜が長くなってゆきます。

 

エンディングでは、○○部と○○部のユニットが制服で踊り、詰めかけた全校生徒が七色の光をゆらして声援をおくっていました。
昨日一昨日は,つい、感動の余韻で12時間ずつ眠ってしまいました。
今朝、メールを開いてみたら、20通ほど届いておりまして、夢幻(ゆろめまぼろし)の桃源郷に遊びたくなりました。
たかだか二日間で日常に戻らねばならないのが祭りの醍醐味です。
クライマックスの後に日常が続くのが現実、エンディング曲が流れて、なみだを流したからと言って、さようならとはゆかないのが、食堂メニュー紹介なのです。
今日の広報のお昼は,○○です。セットで○○円です。

 

こういう料理は,何料理なんでしょうか。
美味しいのですけれどね。
やっぱりアメリカ人が作ったんでしょうか。
今日は,デザートに柿がありました。
柿といえば、柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺です。
正岡子規の句ですが、「柿食えば」の「ば」と「法隆寺」の「じ」が、濁点並びですね。
「ば」で区切り、「じ」で決まりをつけるわけですよ。
切れるところを濁点で締めてゆく手法は、何か文学者や言語学者がネーミングをしているのでしょうか。
むしろ、ラッパーに聞いた方がわかりやすいかもしれません。
短歌とか俳句とか、ラップに向いている気がしないでもありません。

 

コーヒーにアイスを浮かせようとしたのは、何人(なにじん)なのでしょうか。
アメリカ人か日本人ですよね。
それはさておき、コーヒーフロートは、いまだにメニューとしてあるんですね。
80年代のメニューかと思っていました。
カップヌードルをフォークで食べていた時代に喫茶店にあった気がします。
コーラフロートともに、いわゆるシティポップが流れる喫茶店で。

 

Macのキーボードに落ちる睫毛を見た
こういうものも自由律俳句と呼べるのでしょうか。
キーボードに睫毛が落ちる前に家路につきたいものです。

 

300円と、100円です。
写真でお分かりの通り、美味しそうであり、そして、美味しかったです。
フランスパンをふわふわに焼き上げて、ホイップクリームとバターがのっています。
コーヒーを添えました。
この間も書いた気がしましたが、フレンチポップが聴きたくなります。
最近、広報は、哀しみのアダージョ(彼と彼女のソネット)T’en va pasなどを聞いていました。
原田知世のカバーバージョンです。
90年代にフジテレビの深夜に『文學ト云フ事』という、近代文学の紹介番組がありまして、毎回見ていました。
原田知世さんの哀しみのアダージョは、その時のエンディング曲でして、素朴であり透き通るような歌声に聞き入っていました。
90年代は、深夜番組ばかり見ていた気がします。
悔いはありません。

 

日々、夜早めに帰ろうとしている広報ですが、その分、早く来なくてはなりません。
一本でも早めの電車に乗るべく、家を出て、駅まで歩く道のりも、インコースインコースを取っています。
どちらかというと、アウトコースアウトコースを取る方が得意なのですが。
慣例の外ということで、例外であり、慣習の隙を突くのが数寄なわけです。

 

禅宗とともに日本に入って来た喫茶の風習ですが、茶をたて、のむという日常の振る舞いが、茶の文化を発展させ、中世以来、人々が集い、寄り合う場としての茶室が成立しました。

礼法においては、所作から覚える嗜(たしな)みと、ハレの空間における非日常の心情を覚えてゆくわけです。

所作の美を感じます。

結構なお点前でした。

『真の茶美は、完全と不完全との何れにも止まるものではない。二相に囚(とらわ)れぬ自由の美を、私は数寄の美と呼ぶのである』と、柳宗悦は言うものの、実際は楽しく礼法の世界に遊んでいる感じでした。

 

秋の空は、雲の見本市ですね。

一箇所だけ楕円に穴が開いてエッジが効いているのは、どのような現象なのでしょうか。
真上は、ウール100パーセントです。

 

今夜は、月に叢雲が撮影できました。
近未来都市みたいですね。○○。

 

澄んだ秋の夜空に、皓々(こうこう)と輝いていました。
皓(こう)は、白く輝く様を表す言葉です。
花といえば桜であり、月といえば、この時期の月指すように、名月といえば、今日、中秋の月を置いて他にありません。
団子はさておき、しばし、名月をながめていました。
月に寄せる風流の情は、今も昔も、貴族も広報も変わりません。
満月だけでは、もったい無いので、「月に叢雲」まで待とうかと、校舎の外階段で待っていたのですが、寒くなったので、戻って来ました。
貴族は風流の為に痩せ我慢もしましょうが、広報はしないのです。

 

Macを前にして天井を仰ぎ見ることが増えてきました。
今日は、食堂でもご飯を噛みながら天井を仰ぎ見ていました。
仰ぎ見ながら食べると、飲み込むのが楽なんですよ。
飲み込んだ後は、顔を戻します。

 

夕方には、○○部の練習する頭上は、秋の気配がみなぎり、眼下の街も茜色に染まっていました。

行きつ戻りつしながら移り変わる季節ですが、明日からは秋になるのでしょうね。

 

10月に入りました。
衣替えですね。
衣替えを指示していません。
自分たちで、頃合の良い時季に冬服を纏(まと)うわけです。
「今日から冬服」と言われても、「今日、夏日やん」ということはあります。
自然は行きつ戻りつを繰り返し、寄せては返し、返す返すわけですから、「今日から冬服」というのは、自然ではありません。
しかし、人間は自然状態でもいられませんから、われわれは今日から冬服になります。
広報もスーツを着ています。
それに対し、「ネクタイとはなんぞ。フラン革命時代のモードやないかい」と反抗してみたところで、勝てるわけがないので、張り巡らされた記号(コード)に対抗するために、別のフィクションをもって、ずらしを行うわけです。文明は。
平たくいうと、楽しくするというフィクションで対抗するということです。この文明社会は。
さて、今日の広報の楽しいお昼は何でしょうか。

 

時に、この「食堂メニュー紹介」ですが、むしろ「広報の昼ごはん」、もっと言えば、「今日の広報」と言っても差し支えがなくなっていることにお気づきでしょうか。
広報は、薄々気づいていました。
タイトルを考えなくてはなりません。

 

10月14日は、ハロウィンも近いということで、ケーキもハロウィン風です。
ハロウィンは、10月31日なのですが、クリスマスと同じように『ハロウィンシーズン』という時季ができあがっています。
ルーツは、ケルト人の祭りだったみたいですね。新年祝いの前夜祭です。
やがてケルト人がキリスト教に改宗する。でも祭りは外せない。しょうがないと言って、キリスト教の聖人の日を持ってくる。いつものパターンですね。しかし、適当な聖人はいない。使い切ってしまった。で、「諸聖人の日」という、お彼岸手的な日を設定したんですが、アメリカに行って、日本に来たら、すっかり祭りの本番が消えて、前夜祭だけが残ったというクリスマス以上のケースですね。

 

ハロウィンは、仮装をしますね。
仮装をするということは,普段の自分が身につけない別のものを纏(まと)うということで、別の存在になる行為です。
自分を隠すというよりも、別の存在になる。
仮面ではなく、仮装ですから、一時的に日常の法則を中断します。カーニバルの原則です。
そうして、祝祭が終わると、再び自分に戻るんですが、その時の自分は昨日までの自分ではありません。
生まれたてです。
ほやほやです。
なんか、祭りとかにけっこう本気で参加した後、ちょっとだるいじゃないですか。
あのだるさ。風呂から上った後のような、海から上がった後のような、ようわからん、だるさ。
あれ、ちょっと生まれ変わっているんですよ。

 

空に走った飛行機雲の、きれぎれに横たわるのを見上げて、おぼつかない光の朝まだき、道端の野菊に舞う蝶の川べりに向かえば、川の流れは秋の気に漲(みなぎ)り、春の小川を鼻歌で、行く水遠く梅にほふ里から月やなお霧りわたる夜に残るらむと、春から秋に季節を変え、今日も来ました広報です。

 

お味噌汁は,具沢山で美味しかった。
小鉢が見当たらないのは,単品にしたからです。
ご飯もセルフ大盛りをしませんでした。
食堂メニュー紹介から解放され、好きに食べられるようになりました。
黙っていましたが、実は、広報は少食なのです。
味噌汁とどんぶり飯。
なんて、解放的なご飯なのでしょう。
食堂では、お花畑が眼前に浮かんでくるようでした。

先ほど通りすがりの人から、

「食事のメニューがどうも繰り返しっぽいので、疲れて頭が働いていないのかな、大丈夫かな」
と、心配されてしまいましたが、好調に転じました。
春から秋に転ずるかのように。

 

実験、実験ですよ。
先生が本番の練習をなさるということでして、実験室に行ってきました。
理科の先生たちが勢揃い、理科担当オールスターズで実験です。
普段ありえない編成です。
ハロウィンも近いですし。

 

今日の空は、朝からずっと雲のベールに覆われていますね。
昨日、食堂でマグロメンチカツをいただきまして、その前もまた、マグロメンチカツをいただきました。
同じ物を続けて食べて、ブログに出す。
これって、ダウトであることに気がつきました。夜に。
昨日は思わず午前二時過ぎまで眠られずに、アメリカ50州の歌を歌っていたくらいです。
と、いうわけでして、48回まで続けた食堂メニュー紹介も、昨日で終了することになりました。
今日から、タイトルを変えなくては済まないので、『今日の食堂もしくは広報』にしました。
食堂と広報が半々くらいですが、「生きることは、また食べること」なので、タイトルもこれで差し支えはありませんよね?
というわけで、改めまして今日の広報のお昼です。
昨日は、抹茶フロート。明日は?

このパターンは続けます。
それにしても、自分の昨日食べたものが、すぐわかるのは何か不思議な体験です。
過ぎ去った過去なのに。

 

今朝は雲の一点もない、さやかな空に、昨日の月が空の端に薄く残るのを見かけました。
梢を揺らす風は秋の風ですが、乾いた暑さになりました。
昨日まで、三連休の方も多かったのではないでしょうか。
お出かけになった方、休んでいた方、森の木陰で休んでいた方、いろいろといらっしゃるのではないでしょうか。
広報は、何をしていたのでしょうか。
昨日は、シェイクスピアの戯曲を読んでいましたが、その前となると、もう、思い出すのに一仕事ですね。

 

昨日、『広報は、今日は早く帰ります。』と書いて、本当に早く帰ったのですが、本郷にある、トーキョーアーツアンドスペース本郷に出かけてきました。

 

三階には、郊外とは名ばかりの、薄まった東京の外れ、文明と自然とが切り結ぶ風景がありました。

 

免疫というものは、自己か、非自己かを認識した上で、非自分を排除させるシステムですが、社会における人間で言えば、社会化ということは、裏を返せば、社会の免疫システムから『非自己ではない』と認識される過程でもあります。
それは、近代化の過程、日本で言えば明治以降、何より学校で行われました。
『全体』に自分は入っているのか、という意識もそのあたりから生まれてきたんじゃないでしょうか。
学問を収めるべき場である学校は、人を自由にするための場でありたいと思いますし、そのためには、ICTを含めたツールをフル活動してでも、成し遂げたいですね。
英語教育も創造性教育も、結局はそこに集約されるように思えますし。

『○○』展は、トーキョーアーツアンドスペース本郷にて、11/26まで開催しています。

何のブログだろうか、これ。

 

昨日は、未だ夜の明けぬ前に野分が通り過ぎました。

風が舞い、野の草を分けて進むので、野分(のわき)と呼びます。
夏目漱石の小説に『野分』があります。
『野分』は、昔読んで、あまり覚えていないのですが、『野分』に続く、『二百十日』という小説もあります。
二百十日』も中篇小説なのですが、青年二人が阿蘇山の麓の宿に泊まり、野分が近付く山へ、何の計画も地図も持たずに出かける話しなのですが、現代の小説に比べたらストーリーらしいストーリーはありません。
地の文も少なく、ほとんど二人の会話で話が進んでゆきます。
荒木又右衛門やうどんの話をしているかと思えば、いきなり『君はディッキンスの両都物語と云う本を読んだ事があるか』ときます。
現実の会話は、このような流れで成り立っているのであり、この広報もこのようなリアリティのある会話を書きたいです。
映画監督・評論家のゴダールもこのようなことを言っています。
私が思うに、映画は以前は、今よりもいくらか現実主義的なやり方でつくられていました。人物たちはコーヒーを飲んだりしながら、平気で、いきなり《神は存在する》などといった言葉を口ばしったものです。
広報は、『二百十日』の面白みのあるしかも悪意のない二人の青年の会話で出来上がっているこの小説は好きです。
結論は、とにかく山へ登れという話で、爽快です。

 

かすれ、にじみの融合がうまくいきました。

古典の方が自由に書けるというのは意外な気もしますが、古典作品は、言葉の連なりなので、その世界で遊べるのだと思います。習字のお題は切り取られた漢字にすぎないですし。

古典作品は、じっくり向かい合えますし、ハネとかゆったりしたところとか、リズムが楽しいですね。
私も、よく手書きで字を書くのですが、ペンですけど。たまに画数の多い漢字を描きたくなるんですよ。亀の旧漢字とか。
あります。あります。

漢字とかなでは、やっぱりかなが好きなんですか。

(少し考えて)両方好きですね。

○○さんは、将来は考えていますか。

書道か、デザインか、考えています。

書道をやっていれば、ロゴタイプのデザインも風味が出そうですね。本日は、ありがとうございました。

(にっこりと微笑む○○さん)

 

賞状を拝見したところ、二松学舎の学長も、広報が存じていた時代とは代わっていました。以前、石川忠久先生がなさっていたのを存じています。石川先生も、現在85歳ですから、当たり前ですね。

広報は、30代の前半、3chで朝の五時からやっていた5分番組の漢詩紀行を2時間のビデオテープに録画し、毎日寝ながら朝まで流し続けていました。

石川忠久先生は、その番組の監修をなさっていました。

同じ杜甫李白の詩でも、石川先生の書き下し文は、リズムがあって、簡潔、また率直な文で好きです。

その漢詩紀行のナレーションをしていた広瀬修子アナウンサーは、広報の以前いた大学の教授をなさっていました。

その時の広報は、情報メディアセンターで仕事をしていまして、広瀬先生は機械類が苦手でしたので、授業ごとにお手伝いした思い出があります。

 

ところで、阿倍仲麻呂、王維と友だちなんですね。

 

GUNMAのキャンペーンポスターなのですが、コピーの下に[このポスターはフィクションです。]とあります。
ポスターなどは、基本フィクションに決まっているのですが、わざわざ書くことで、これは、日常や現実のものではない、非日常のものなんですよ、と伝えてくれるわけです。
ブレヒトの言う異化効果ですね。
そもそも群馬であれ、どこであれ、観光化ということ自体、フィクションですから。
むしろ、「GUNMAは、フィクションです」と書いた方が正確な気がします。
このブログでも、一昨々日(さきおととい)、言葉とフィクションについて書きましたが、言葉をつらねるには、フィクション性が潜まずにはすまないのです。
純化したたとえですが、「マグロを食べた」と言っても、泳いでいるマグロにかじりつくわけではありません。
調理をするわけですが、調理済みのマグロであっても「マグロを食べた」で済ますわけです。
通じるからです。
それはマグロを食べるイコール調理されたマグロを食べるという虚構の中で会話をしていられるからです。
わざわざ「それは違う、寿司ネタのマグロはもはやマグロとは呼べない」、とは言わないわけです。
皆で言葉のフィクションにのるわけですね。
皆でのる、というのは、ホモ・ルーデンス(遊ぶ人間)にも通ずるわけですが、シュメールにおいて体系化された文字が、「何がいくつある」「あれがどこにある」という数勘定を超えて、言語として発達し、やがて文化を支えられるようになるには、フィクション性を含めずにはすまなかったわけです。
虚構にもルールはあります。
言葉ははかないものですが、だからこそ言葉にすがるしかない。
言葉は、虚構を含みます。
しかし、それを承知で思いを言葉に託すのがまた人間の強さでもあるんですよ。

 

今日は新月な気がします。
体の感じからして。
山の奥とか、闇夜ですよ。

 

りんごのコンポートにシナモンパウダーが添えてあります。
広報は、小学生の時、給食に出てくるシナモンパンがかなり苦手でした。
食パンにシナモンが混ぜてあるのですが、それが、かなりの頻度で出てくるんですよ、中野区。
給食のシナモンパンから解放されて幾星霜(いくせいそう)、いつの間にか、シナモンが好きになっていた自分がいました。
大人になったのか、給食のシナモンパンが、シナモン的な何かだったのか、今となってはわかりません。
杏仁豆腐と牛乳寒天くらいの違いはありそうです。
もしかしたら、松茸とかまぼこくらいの懸隔(けんかく)はありそうです。

 

昨日、もっと無主体的に描きたいですね、と書きましたが、少し前に『中動態の世界』という本が話題になりました。
読もうと思いつつ読んでいないのですが、人の話を聞くと、日本語は能動態でも受動態でもなく、中動態と呼ぶべき言葉の使い方をしているということが述べられているようです。
察するに、言葉には、能動態と、それに対する受動態とがありますが、そのどちらでもないような、言葉を発する主体が曖昧で、恰(あたか)も自然に生じた言葉てあるかのように話すのが日本語なのではないのか、言い換えれば、私でも貴方でもない場からおのずと生ずるかのような言葉の用い方を日本語はされてきたのではないか、それが文化全般に染み渡っているのではないのか、ということなのではないのでしょうか。
自分でも相手でもない中間体からおのずと発せられる言葉を意識してみるのも面白そうです。
言霊とは、もともとそういうものだったのかもしれません。
日本には、言霊(ことだま)信仰と呼ばれるものがあります。
言霊信仰は、言祝(ことほ)ぎ、言葉をもって行為を祝うことで、あらかじめ豊かな結果を約束してしまおうというようなものとして用いられていますが、言霊というからには、もともと言葉そのものが主体となり、発生するものとして感じられていたのではないでしょうか。
言葉は私のものでも貴方のものでもない…。
それが言霊だったのではないのでしょうか。
ちなみに、日本のことを『言霊の幸(さきわ)ふ国』とも呼びます。
その謂(いい)は、言霊を呪(しゅ:まじないの意)として用いるものではなく、言霊が咲き賑わうような風景が根にはある気がします。
広報も、単に楽しくさせる、笑わせるのではなく、人を朗(ほが)らかにする喜びを与えたいものです。

 

糠(ぬか)のように残り続けた雨も夕方になって、雲の合間に水色がまだらに見え始めました。
今夜あたりは、雫(しずく)の残る山里の軒にかかる月にも風情を感じられるのではないでしょうか。

 

タイトルからして、もう少し無主体的にしなくてはいけません。
タイトルがそっけないのに、中身がわけがわからないとか、文体が古典体でロックなことを描くとか、フィクションとはそういうものです。
そのズレと人工的な文体が、言葉と言葉のつらなりをフィクションとして機能させるわけです。
積極的な試行錯誤とともに。
ちなみに、フィクションは嘘というわけではありませんよ。
少なくともノンフィクションや統計データが真実ではないというのと同程度には。

 

雨が続きますね。
秋の長雨は、梅雨よりも降ると聞いたことがあります。
秋も深まり、雨ともなれば、冬の装いの方も多く見かけます。
明ければ眩しい夏の待つ梅雨と、雨が上がるごとに夜の深まりを感ずる秋雨と、皆さんの好みはどちらでしょうか。
広報は、年々、夏の気候の方が楽になって来るのですが、秋の夜長を経て、年末に向かう世間の移ろいも捨てがたいものがあります。

 

○○ 夏特有の緑を表現するのが大変でしたが、松の樹皮の質感は、うまく表せたと思います。
広報 三色で表現することで、技術的な向上もあるでしょうが、新たなインスピレーションも得られる道が開けるのではないでしょうか。
○○ 建物は、構図的に要素が多いんですよ。森や林と違って。色を作るのと、精密描写と…。
広報 あ、黒を使えないんですね。
○○ そういうことです。ただ、最近は、水彩のときから黒を使わないので、スムーズだったというのはあります。
広報 絵のキャプションに『草木の自然の色やコンクリートにうつる光を表現するための色を作るのが難しかったです。』とあります。
○○ 光の反射とか、全てが影響し合っているから。この辺(岩のあたり)とか、書き始めた時は,陰になっていたんですが、午後には陰がなくなってしまって。

○○ 特徴をつかんで伸ばしてくれます。公募展の絵を描いている時に全然話しかけなくて、何で話しかけてくれないんだろう、と思っていたら、先生が、『話しかけると分からなくなっちゃうから。考えている時にアドバイスすると、わからなくなっちゃうから話しかけないんだ』って言っていました。
広報 なるほど。甘さではない優しさがあるのでしょう。
(○○さんと広報、最後の部屋に入る。夏の体験入学の展示がある中、説が設えられ、ディスプレイで映像が流れている。二人、腰掛けて話す)
広報 絵は、いきなり描き始めるんですか。
○○ さぐりさぐりあたりをつけてからですね。
広報 徐々に見えてくるんですか。
○○ やりたい気持ちとコントロールしなきゃって気持ちがぶつかって。自分の力のなさで…。ちょっとうまくいっても、次の筆の時にはもう…。
広報 調子よく描いていると、一回ずれると修正が大変じゃないですか。
○○ そういう時は,一回消しちゃいますね。日を置いてから書きます。
広報 消すのは勇気ですよ。

広報 やっぱり、ミューズの女神が降りてくるのを待つタイプというか、急に思いつくんですか。
○○ ある日、題材が決まらなくて座っていたんですよ。
広報 それはどちらで。
○○ 美術部の片隅で。それで、『公募展真面目に考えなくちゃ』って、自分を見つめました。
広報 そうしたら?
○○ まっくろで。
広報 漆黒の闇ですか。
○○ 私は前向きだから、悲しくないのに、悲しい絵にしてしまいそうで。
広報 完成作品は、明るくて、光溢(あふ)れる絵ですよね。
○○ 白は自分の中で革命的でした。前向きなことを伝えようと思いました。
広報 光溢れる明日へ。ですね。絵の全体が柔らかい輝きに満たされています。
○○ あくまでも前向きに自分と向き合う姿を見て欲しいです。
広報 まあ、ネガティブなことを書かないというのは,表現者としての嗜(たしな)みだと思いますよ。
(しばし、二人、映像を眺めている。200号の大きなキャンバスを門から運び入れているシーンが流れる)
○○ あの絵は,落書きから始まったんですよ。
広報 手遊(すさ)びですね。
○○ 女の子は,鉛筆でさっと書いて周りは後からやりました。エアブラシを使ってみたかった。
広報 それが、あの柔らかな光の表現につながっているんですね。
○○ 今回は、余白をうまく残せました。
広報 余白は言語芸術でも肝要なところです。
○○ 前の自分だったら、『書かなきゃ』って、埋めちゃってた。
広報 それは、描くことの目的とか意義とかいうものが見えてきた表れなんじゃないのでしょうか。
○○ これ以上手を加えないという確信を持てた作品でした。
広報 絵画に限らず、直そうと思えば、延々と直せるでしょうから、どこで自分から放すかだと思いますね。シチュエーションとしては、どういったものなんですか。
○○ 自分のことを見つめて描いて…。実は、あんまり覚えていません。
広報 没入していたんでしょうね。
○○ これからも、同じテーマで連作していかないといけない。
広報 自分が何をすれば良いのか、わかっているじゃないですか。本日は、ありがとうございました。
(微笑む○○さん)
広報には、○○さんの絵は、物が光に置き換わったらどう見えるかの実験にも見えました。ご本人は、それは意図してはいないとおっしゃっていましたが。

作者後影

長くなってしまいましたが、○○さんからは、インタビューの進むにつれ、意志の強さを感じました。
広報には、現代アートをやっている年の近い知己がいるのですが、以前、トークをした時にアーティストに必要なのは、意志だけ、センスとか努力は当たり前、と言っていました。
本当に、何より願っているのか。
願いは、意外と叶ってしまいます。

 

昨日、ハロウィンではしゃいだ人もいらっしゃるかと思いますが、Wikipediaのハロウィンの記述に、「これ(トリック・オア・トリート)はあくまでもお菓子をもらうための口実、実行力を伴わない形式的な台詞であり、お菓子をもらえない場合でもがっかりして立ち去るのがほとんどである。」とありました。
可愛らしいですね。
ハロウィンが済むと冬も間近になります。
昨日、二季制ということを書きましたが、夏が終われば次に来るのは冬というのが古代の感覚でした。
室町時代に編まれた歌謡集、『閑吟集』に、春過ぎ夏闌(た)けてまた秋暮れ冬の来(きた)るとも、とありますが、秋とされている九月と十一月の気候が違うように、言葉の上と実際の気候には、違いがあります。
一週間経てば、立冬を迎えます。冬が立つと書いて立冬です。

 

ハロウィンは日本で、もっとも盛んなカーニバルとして定着しました。
ハロウィンは、もともとケルトの新年を迎える前夜祭のようなものだったとされています。
祭りは基本的には、前夜祭です。
クリスマスもそうですね。
また、ケルト人にとっては、今日が夏の終わりで、明日からは冬が始まるとされていました。
秋はどこに。
昔は、四季ならぬ二季制でした。
日本でも変わりません。
記紀(古事記日本書紀のこと)に神武天皇崩御が127歳とあるのは、127年間生きたのではなく、二季制で倍率ドンさらに倍だったというのが定説です。

 

ええと、ハロウィンですね。
今宵、渋谷や六本木は祝祭空間と化しているのでしょう。
ハロウィンは、祭りから祭儀を抜いてカーニバルだけが残った例です。
男装でも女装でもしたらいいですよ。
カーニバルとは、非日常空間なのですから。

 

10月30日、月曜日。晴れ。
今日は、絵日記風の書き出しで始めてみました。
空は全く晴れ晴れ(ハレハレ)ですが、台風一過の吹き返しが吹き巻いています。
風に吹かれるまにまに心を漂わせ、雲のごとく。

などと、呑気なことを言っていられないくらいの風です。
雲など欠けらもありません。

砂漠の空は、これよりも濃いのでしょうか。

 

ディルという、よく魚料理にのっているハーブがのっています。
合うんですね、生ハムと甘夏。生ハムメロンはあまり好みませんが、これは美味しかった。
次もあったら食べたいと思います。
このブログも、唐突に90年代の話を始めたり、民俗学の話を交ぜ込んだりしますが、食堂も小鉢にレストランのオードブルやカフェご飯の付け合わせクラスのものを出してきます。
「雑談的」です。
その「場」において、何を選び、どう繋げるのか、そこに生まれる関係性をどのような感覚であらわにしてゆくのか。
なんと、ここの食堂、置かれたものを選び、繋げ、関係性を見出し、自分と世界を関係付けるきっかけが張り巡らされているんですよ。
そういう場ですから。
その日の状況により、メインメニューを選び、その状態を踏まえ、むしろその状態に制されて、小鉢を三つ選び置く。
これはもう、エディティングに他なりません。
ここって、そういうの、多いんですよね。
われわれがプラットフォームを作り、みんながクリエイターになるということが。
ちなみに、食堂は直営ですので、食堂のスタッフもここの所属です。

 

広報は、義務感を外した広報を心がけているのですが、ここは、当然インタビューを敢行(かんこう)しました。

 

監督 フィジカル、メンタル、両方ですね。必要なのは。フィジカルでは負けるけど、なら、駆け引きで勝つにはどうしたらいいのか、とか。何に対してなら勝てるのか。一人でダメなら、二人で。二人ででダメなら、どうするのか。いくらでも手はあるはずなので。

広報 二の手、三の手を考えるわけですね。

 

野生は、do-do cycleですか。

ところで、PDCAサイクルを繰り返すうちに目的が見えてくることもありますよ。
例えば、サイトのPVを1万PVを超えるというのは目標ですが、その目的は自分たちのしていることを知ってほしいということですよね。
やがて、その目標が達成されるや、今度はそのリソース(資源)や経験が別の目的も見せてくれるというわけです。

 

昨日今日辺りは、鍋を囲んでも差し支えない気候になって来ました。
広報は、昨日鱈を食べました。
一人で鍋と向き合って夜を過ごして、危うく過去を振り返りそうになりましたが、それはそうとしても、鱈はむしろ昔より好きになっている気がしました。
大人になって、年を重ねて、ますます募(つの)ってゆくものがあります。

 

今日は昨日の雨から一転、抜けるような青空が広がりました。

 

暖かいかと思っていたのですが、昼から夜になって想像以上に冷え込んできました。
夜の空に浮かぶ雲が一つもありません。

 

いま時分を霜降(そうこう)と呼び習わします。
冷たい空気により、霜が下りる頃ですね。

 

庭に七輪並べて秋刀魚祭りとかやったら面白いんじゃないですかね。

 

毎度のことですが、ご覧のように、顔も体も丸い人です。
それに加えて、心も丸いという、何もかも丸く出来上がっている人です。

 

お昼を忘れて歩く秋

もろもろの仕事をこなし、6時時過ぎから自分の仕事を始める日もあります。
大学の就職課みたいですね。

 

スーパーなどでいくつか買い物をして、「1000円です」と言われた時の物足りたような物足りなさを感じたことはありませんか。
広報はあります。
さて、今日の広報のお昼は、こちらです。

ブロッコリーサラダです。
ブロッコリーはビタミンCが豊富と聞きます。
鼻血も止まると思います。

 

土曜日からナチュラルに鼻血が続く広報です。
人参と舞茸を食べたら良いでしょうか。
人参は粘膜に、舞茸は免疫力に効果があるとされています。
そういえば、10月30日の東北大学のプレスリリースにこんなものがありました。
世界初:哺乳類における「硫黄呼吸」を発見 – 酸素に依存しないエネルギー代謝のメカニズムを解明 –
https://www.tohoku.ac.jp/japanese/2017/10/press20171025-02.html
哺乳類が硫黄代謝物を利用した「硫黄呼吸」をしていて、エネルギー産生に関与していることを発見したそうです。
酸素や炭水化物のほか、にんにくや甘のりや温泉・火山も関与があるとされます。
お猿さんが温泉に浸かっているのも、「硫黄呼吸」をしているのでしょうか。

この坦々麺には、蒸し野菜や肉味噌のほか、葱やカシューナッツがのっています。
麺は冷麺の麺なのですが、弾力があって、野菜やスープとも相性が良く、広報には好みでした。
今回は、ラーメン胡椒をかけました。
ラーメン胡椒は、にんにく入りです。
硫黄代謝物で、くれなずむ夕日に映える校庭を駆け抜けましょうか。

 

今日の雲と今日の月

今夜は、ぬるい風が雲を月に被せています。

 

今日は、北風がまさにピューピュー吹いていました。
近頃は、焚き火も物語の世界でしか見なくなりました。
校庭では、空色一色の青空のもと、みんなは寒さに負けじと○○をしていました。

 

明日あたりは、この辺でも初霜が見られるかもしれません。

 

さて、今日の広報のお昼は坦々麺です。

食堂でカウンタートークをしていましたので、若干伸びてしまいました。
伸びたら伸びたで、鍋の締め的な何かになるので、それも一興かと思います。

 

裏のブナの樹の下で、掌(てのひら)いっぱいにどんぐりを集めている人がいました。
みんなと一緒にどんぐりのアクセサリーを作るのだそうです。
樹の下に転がるどんぐりに見えるように、まだ去りやらぬ秋を感じはするものの、明け方に残る星の煌めきに冬に染まりゆく季節を感じます。

 

ところで、「今日は二コマ」って、お笑いマンガ道場の富永先生を思い出しました。
はるけき思い出の彼方ですね。

 

仕事でエクセルを使っている人も多いかと思いますが、セルの中で改行したいな、という場合があるでしょう。
Windowsの場合は、
alt + Enterで改行されますが、Macの場合は、
option + command + Enterで改行されます。
仕事とはいいながら、できなかったことができると、ゲームでクリアしたかのような達成感があります。

 

夜の学校、夜の教会、夜の東京タワー
夜とつけるだけで、タイトルに惹かれてしまい添うてず。
夜は、人を引き付け、そして呑み込もうと、誘ってきます。
誘惑に対する抗いがたまりません。
ジェットコースターなどとは比べ物にならないのです。

 

そうでした。11月に夜の学校説明会というタイトルで、説明会を行います。

霜月十七日の夜、黒き夜の月は冴え切って、星のきらめきそむるころ、東京の灯がちらちらと目の下広がってゆく、その夜に「夜の学校説明会」ですよ。

 

先週の土曜日、マスクを外したら鼻血がついていました。
楽しく仕事をしたいと思います。

 

パンプキンサラダは、何の味なのかよくわかりませんか、とても美味しかったです。
アマトリチャーナは、今月からの新メニューです。
注文するとき、「アマトリチャーナ?」と疑問形になってしまいました。
普段言わない言葉です。
ほうれん草とベーコンにトマトソースですね。
山盛りで食べたい味でした。
カリオストロの城で、ルパンと次元が山と盛ったスパゲティを毛糸玉のように丸めて食べていたのを思い出します。

 

今日は、ですます調を使わずに始めてみました。
インターネット上の文章は、「である調」少し強すぎる感じがして、広報は、日々、「ですます調」を試しています。

 

ところで、冒頭の文章を入力しているとき、東京駅を入力しようとして「とうきょえき」と入力してしまって変換したら、「逃去駅」と出てきました。
誰かの心理を表したものなのでしょうか。

 

昨日は、勤労感謝の日で祝日でした。
勤労感謝の日は、戦前まで「新嘗祭(にいなめさい)」という祭日でした。
この日は、天皇がその年に取れた新しい五穀を天神地祇(てんしんちぎ)に奉り、自らも食すというお祭りでした。
戦後になり、この収穫祭は労働を感謝するという祝日に変わりました。
この半年ぐらいの自分の働きぶりを振り返ってみても良いのかもしれません。

 

巷(ちまた)は、クリスマスシーズンに入ったようでして、イルミネーションが盛んです。
飯田橋のサクラテラスも教会とともにライトアップしてありました。

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神楽坂近くに紅茶専門店がありまして、昨日はお昼過ぎから夜に入るまで紅茶を飲み続けていました。

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このお店は、「ティーフリー」というメニューがあり、カップに紅茶がなくなると、お店の人が注ぎに来てくれます。


雑談をゆるゆるとするのに最適です。
雑談は、自分の世俗のペルソナを外してするものです。
気の置けない人と、雑談できる場を持てることはしあわせなことです。
雑談は、もともと(ぞうだん)といい、江戸の商人たちが茶室に集まって、好きに話していたもので、そこから様々な文化も生まれました。
雑談から生まれるものも少なくないのですよ。
昨日は紅茶を飲み続けていましたが、ぐっすりと眠られました。
2017年11月24日 19:21

 

最近何が楽しいと言って、漢詩の朗読が楽しくなってきました広報です。
例えば、李白に『月下独酌』という詩があり、
花間一壼酒
獨酌無相親
舉杯邀明月
對影成三人
花間(かかん) 一壷(いっこ)の酒
独り酌(く)んで相(あい)親しむ無し
杯(さかづき)を挙げて名月を迎へ
影に対して三人と成る
というものですが、李白の詩は、壮大で伸びやかで、心が静かに晴れてゆきます。その状態を名付けて晴朗と呼びます。
書き下し文は、石川忠久先生のものが好みです。
漢詩の朗読は、丸暗記する楽しさみたいなものがあります。
脳に異なる言語を理屈抜きで入れてしまう。
こうして、自分をひと時、忘却するわけですね。

 

小鉢のアボカドサラダです。
アボガドでなくて、アボカドだと知ったのは、何年前のことでしょうか。

 

一昔前に比べて、海外の人と話す機会が増す一方になっています。
語学力も重要なのですが、海外の人は、日本人に日本のことを聞いてきます。
広報も、昔、アメリカ人に大黒様について聞かれたことがありましたし、鎌倉の大仏様が流されたのはいつかと聞かれたことがありました。
受験英語を海外の人に話しても、興味を持ってくれないのです。
外国人に対しても、雑談力を身につけなくてはなりません。

 

「座る時、正座をしていると意識するのではなく、ゆったりと座る感じで」とのアドバイスがありました。
「よそのお家に伺った時、きちんとできると、お家の躾が良いと思われますからね」と、重要なポイントをおっしゃっていました。
ご挨拶は、座布団に座る前にするものです、とのお話がありましたが、慣れていないと、忘れてしまうものです。

 

「この辺が少し寂しいから」と、全体のバランスを見てあげたり、
「これ、せっかく面白いものがあるんだから」と、残していたお花を加えたりしていました。
また、「ど真ん中にどんとあると、動きが止まる」と、動きのある見せ方にも言及していました。
全体的にまずは、自由にやらせているようでした。
その上でその個性をいかしながら整え方を教えているようでした。

結果として、同じお花を使っているのにもかかわらず、同じものが二つとない、個性あふれる作品となりました。

 

所作の美に見とれてしまいました。

 

広報は、昔大学で「祭式行事作法」などという授業を白衣袴姿で受けたり、修行に行ったりしたせいで、膝の毛がなくなるほど鍛えられましたが、今回、20年ぶりくらいに立ち姿から正座になり、正座から立ち姿になりましたが、忘れかけていたよろこびのようなものが浮き上がって来るようでした。
体が覚えている趣味嗜好、空間感覚というものがありそうです。

 

姿形(すがたかたち)というものは、人の内面がにじみ出てきます。
人間、年を経るにつれ、普段考えていることや行為が顔に表れてきたりします。
うら若い人は、逆です。
むしろ姿勢や礼儀作法、言葉使いが内面を形作ってゆきます。
体とともに、脳を作っている最中ですから当たり前ですね。

「姿勢が正しく、元気に話せる人は、相手からも喜ばれます」

「胸より肩が後ろになるように。胸が開く人は心の扉も開きます」

手を上に上げると脇がほぐれるそうです。
脇が固まるとストレスが溜まるんですね。

 

巷(ちまた)では、文庫川柳なるものがあると聞きまして、それは何かと言いますと、文庫本の背表紙のタイトルを繋げて面白い言葉を探ろうではないか、という試みが、若人を中心に行われているのであるそうな。
へえ、面白そうな遊びだね、それって、図書室でもできそうだね、ということで、早速、広報も図書室にあるもので作ってみました。むしろ並べてみました。

土曜の夜に。

• この人を見よ ハイジの国から 夢判断

メルヘンチックな妄想から救います。

• 武蔵野の散歩道 ツァラストラはかく語りき

雑木林を力強く語ります。

チップス先生さようなら 何かが道をやってくる

さっさと帰った方が良いかと思います。

• キッチン とかげ 金閣寺

80年代の漫才ブームのような勢いです。

• 夏の終り 坊ちゃん 風と共に去りぬ

あらすじです。

• 停電の夜に 走れメロス

か、懐中電灯。

• 友がみな我よりえらく見える日は 走れメロス

走って解消する程度の悩みです。

• 郷愁 さびしい王様 前向きになれる50のヒント

本当は、声をかけてもらいたがっています。

• いまを生きる ありふれた生活 ざ・ちぇんじ!

新時代が到来していることに気づかねばなりません。

• 風が強く吹いている 楽園 夜と霧の隅で

たぶん、そこは楽園ではありません。

• クマに会ったらどうするか 走れメロス

本当は、走るのはNGです。

カラマーゾフの兄弟 日本を見なおす 車輪の下

明るいところで見つめ直したほうが良いかと思います。

本も普段隣り合わないもの同士で並んでのでドキドキしたことでしょう。
走れメロスは、万能ですね。さすが太宰です。

やっていて、気づいたのが、同じ作家のタイトルを並べると語呂が良いんですよ。

海辺のカフカ ノルウェイの森 世界の終わりとハードボイルドワンダーランド

• 古都 舞姫 雪国

• それから 坊ちゃん 草枕

漱石のものは、文庫川柳としていけそうです。語呂が抜群です
ところで、草枕って、女の部屋に住む話として考えられます。ラノベ的に見ると。

と、いうわけでして、文庫本以外も混じってしまいましたし、五七五ですらありませんが、作ってみました。
ネット上にすでに似たものがあるかもしれません。
やってみて、2冊の方が3冊よりも簡単でした。

 

寄せては返す言葉の波をどのように切り結んでゆくのか、テキストの編集の可能性を探るのも、一つの言語感覚や編集能力の訓練になります。

 

作った人たちは、「カレーは苦手だけれど、これは辛くなくてマイルドで美味しかった」、「食べた後に少し、ピリッとくるスパイスが良かった」との感想でした。
ただおいしいだけではなく、自分たちのいただいているものがこの世界でどのような位置付けを占めているのか、知った後では、少し味も深まったかもしれません。

次回は、ブッシュドノエルを作るのだそうです。
幻想的ですね。

それこそ、グローバル感覚を学ぶことになります。
食べ物は、生物としての個人の欲求にとどまらず、個性の表現でもあり、それが集団になれば文化となってゆくわけです。
食文化を外した異文化交流はありえません。それは、同一性の象徴なのです。
広報は数年前から、一人で何を食べても美味しくは思わないけれど、誰かと食べたら何を食べてもおいしいと思えるようになってしまいました。
-共に生きる、共に食べる-

 

素敵な句ですね。
視覚的なものではなく、嗅覚も刺激するような句となっています。
触れたい君の髪に触れられないもどかしさと、そばに居られる嬉しさみたいなものを感じます。

俳句や川柳は、気軽にたしなめる分、センスが評価されますね。
10代のときにしかできない作品もあるかと思います。
自分の瑞々しい感覚を大切に。

 

結ぶという字のつくりの「吉」は、白川静によると、「とじこめる」意があり、糸によって、そこにある力をとじこめる意味を持つものだったそうです。
婚姻の折にも、紐を結び合って、愛の情を固いものとするわけですね。

 

広報は、高校の頃、工業デザイナーになりたかったのでした。
ポパイという雑誌が今でもありますが、当時はたまに「デザインオブザイヤー」特集をしていまして、必ず読んでいたものでした。

 

個人的に面白かったのが、こちらの大学生の作品、北上貴和子さんの『逃げ水注意報』です。個人的に面白かったのが、こちらの大学生の作品、北上貴和子さんの『逃げ水注意報』です。子供の頃、辞典から拾った単語を集めていたそうで、その文章を元にインターネットから集めた写真をコラージュして作品としたものです。

• 蚊帳の中で蛍がなぞる世界地図

• 鳥の巣からにこぼれる夜光虫

言葉と写真、ともにエディティングしています。
通常では組み合わされないものを組み合わせることは、はりめぐらされた記号を崩すことにもなりますね。
こういうものに接すると、ノイズが増えていく気がします。
そして、そのノイズを自分のエディティングモデルで編集したくなります。

 

帰りは、藝大の学食に行って来ました。
音楽学部の方です。

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エビフライをいただきました。610円です。

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少し大きめの海老が3尾、しゅうまいにスライス玉ねぎとキャベツが添えてあります。
タルタルソースのほか、黒ごま入りのウスターソースが付いています。
生姜焼きなども美味しそうでした。

 

食べたいと思っていた料理をいざ目の前にすると、なんか違う、ということはありませんか。
広報はあります。
さて、広報の今日のお昼は、シェフの気まぐれカレーです。

今日は食堂の人に勧められて、もう一品、シーフードグラタンを食べました。

• シーフードグラタン 100円

100円ええ、100円です。

ほんまもんのワンコインです。

小さい人でも握りしめられる程度のワンコインです。

タバスコをかけようと思ってグラタン片手にうろうろしましたが、なかったのでそのままいただきました。

広報がグラタンを食べたのは、いつ以来でしょうか。

何年も食べていなかった気がします。

「自分はグラタンが好きだったんだな」と食べた後に気がつきました。

 

bûche de Noëlは、フランス語で「クリスマスの薪(たきぎ)」という意味ですね。
薪をかたどるのは諸説ありますが、キリスト教が広まる以前の樹木信仰が残っているかと思います。
クリスマスはキリストの生誕祭ではありますが、もともと冬至の祭りに重ねたものでして、春に向けて世界が復活するポイントとなっています。
一年でもっとも日が短い日に、太陽は一度消え、再び新たな生命力を得て、世界に活力を与え始める日だったのです。

 

今朝は、遊離したがる魂を仕事に誘うのに時間がかかりました。
そこで、つい、仕事場の前で東京スカイツリーに見入ってしまいました。

80年代にみんなが夢想していた「ネオ東京」は、こんな感じだったのかもしれません。

 

ザーサイ。ザーサイってなんなんですかね。

アブラナ科アブラナ属の越年草。また、それから作られる中国の代表的な漬物のこと。
と、Wikipediaにありますが、ここのものは、浅漬け程度です。
ザーサイがあるのなら、坦々麺にしておけばよかったかと後になって思いました。

 

広報は、20年ほど前に、伊勢神宮で修行をしたことがあります。6泊7日でした。
朝の5時におかげ横丁を白衣袴で駆け抜けて、褌(ふんどし)で五十鈴川で禊(みそぎ)をした思い出があります。
もしくは、内宮の本殿の最奥まで入り、真夏の尋常でない太陽の真下で30分しゃがむ、といった白日の闇に溶け込める貴重な経験をしました。
朝と夕方以外は、なにもかも炎天下でした。天照大御神を実感しそうになりました。
神宮に行って、神の健全な定義は、超自然でよいと思いました。
伊勢神宮は、「なにもない」といえなくもありません。逆にいえば、「空(くう)」があるともいえます。なにもない、見てはいけない、そういうものがそこに「ある」わけです。
行った人たちは、「説明を拒む」ものがこの世界にあることを実感できたでしょうか。


今年は、花持ちが良かったようです。
駅前は、ただの通行路ではなく、共通の生活の場として考えれば、華やかにしたいものです。

 

現在の男性が着ているスーツは、フランス革命の頃のブルジョワ階級の服装が始まりとされています。
今回の劇でも、革命政府側の人物は、スーツのような黒い服を着ていました。
この劇では、正義はイギリス貴族ですから、悪役側は黒い格好をするわけです。
黒は、舞台では悪を象徴する色です。
歌舞伎に出てくる大伴黒主なんていうのは、名前に黒が付いているだけで悪役として扱われています。
史実の大伴黒主は、別に悪者ではないんですが。

舞台のセリフで面白かったのは、主役が仲間とともに奮い立つシーンでの「この世を支えるのは、責任信念勇気」という言葉でした。
フランス革命時のスローガンが「自由平等博愛」ですから、「自由平等博愛」vs「責任信念勇気」という構図になります。
擬人化して、ライトノベルで作れそうですね。

広報が現場に行って面白かったのは、奈落(ならく)が見えたことです。
奈落というのは、舞台の下に作られた空間のことで、舞台上の大道具などをせり上げたり、音楽を奏でる楽団が控えたりする場のことです。
二階の席から見ると、裸電球のような色の光のもとでオーケストラが舞台の進行とピタリと音楽を合わせていました。
その様は、あたかもメルヒェンに出てくる小人のようでロマンチックでした。

 

ストーリーを見せるだけなら映像だけでも十分なのですが、映像では分からない感覚を醸成するには、舞台を見なくてはなりません。
加えて、劇場における立ち居振る舞いを含めた場を見させる為にも、実際の場に赴くのが効果的と言えます。

 

昼間、庭に出て見たら空は晴れ上がっているのに暖かく感じました。

十一月から今頃くらいに、ふと、暖かくなる日があります。
これを俗に名付けて小春と呼びます。

昼間の暖かさは、小春日和と呼ぶにふさわしいものでした。
今時分の優しい日差し、好きです。

 

この時期のスペシャルカレーは、チキンカツにほうれん草がのっています。
陽の光が弱まる時期ですから、ほうれん草を食べて、元気に過ごしたいものです。

 

明日からは、また気温が下がるそうです。
本格的な冬はこれからですが、気持ちから暖かくしていきたいものです。

 

春の来ない冬はない、ねえ。

 

ちはやぶる神代も聞かず竜田川 からくれなゐに水くくるとは
古今集にある在原業平の歌ですか。
流るる水面の上に紅葉が染物のように染め上げているではないか、というような感じでしょうか。

 

日本庭園にも、もみじ葉が散り敷かれています。
今日も外は冷えこんでいますね。
広報は、Tシャツの上、シャツの下に暖かい肌着を3枚ほど重ねて着ています。
ハートの奥がさびしんぼうの場合、物理的に暖かくしなくてはいけません。
広報が、たまにシャツの胸ポケットにホカロンを入れているのは、そういうことです。
みなさんも、年末でお忙しくなる方も多いでしょうが、暖かくして参りましょう。

 

紅くなるのは、楓などの樹木は気温が下がると糖がたまりやすくなるため、その糖の反応で赤い色素が生成されるのだそうです。
その自然の営みを日本文化は、「紅葉狩り」などと称して、楽しもうとしているわけです。

 

今日から12月、師走ですね。
12月はなんとなくロマンがあります。
夏休みを前にした活力のある喜びではなく、澄んだ空が極まってゆくような、果てに向かうような昂揚感があります。
12月を師走と呼びならわしますが、他の呼び方はないかと、Wikipediaを見ると、
おうとう(黄冬)、おとづき(弟月)、おやこづき(親子月)、かぎりのつき(限月)、くれこづき(暮来月)、けんちゅうげつ(建丑月)、ごくげつ(極月)、しわす(師走)、はるまちつき(春待月)、ばんとう(晩冬)、ひょうげつ(氷月)、ぼさい(暮歳)、ろうげつ(臘月)
ななどと羅列してありました。
限月がロマンチックですね。
極月は、訓読みで、きわまりの月 と読めばロマンがありますね。

路地に散り敷く落ち葉にも心を留めるような時候となりました。
見上げる空には、時雨の気配を感じさせる雲が淡墨を流したかのようになっていました。

 

今の所ほぼ毎日続けていますこのブロクも今日で200回目になりました。
100回目の記事を見ると、pvが通算で14,000ビューを超えていたようですが、200回目の今日は、54,000ビューを超えていました。
感謝にたえません。
でも、少しつかれたな、たのしいな、サンタマリア。

 

気がつけば、と言って、気がつくことの多い日常ですが、今日で霜月も晦日(みそか)ですね。
11月は30日まで、12月は31日までありますね。
昔、31日まである月の覚え方というものがありました。
二四六九士(西向くサムライ)です。
2月、4月、6月、9月、11月以外が31日ある月となっています。
11月は、十と一とで武士の士のような字になりますから、サムライな訳です。
今のうら若き人たちもこういう覚え方を習うのでしょうか。

 

広報は、甘いものと辛いものが好きだと思っていたのですが、気づけばどちらもそれほどではなくなっていることに少し前に気がつきました。
なにか、収斂されていっているんですよね。
味覚の好みがノーマルなものへと。

 

今朝は冷え込みました。
おそらく、この冬一番の冷え込みではなかったかと思います。

 

お昼に、鳥が来ていました。
渡ってきたのか、渡ってゆくのかわかりませんが、仲間と一緒にいられるといいですね。

 

昨日広報は、丸の内の丸善に広報の資料を買いに行ったのですが、自動ドアに差し掛かった時、パスケースを出そうとしてしまいました。
脳が似たものとして認識してしまったようです。
境をまたぎ、超えてゆく動きで日常的にしているのが改札口を通るという行為ですから、パターン認識してしまったようです。

と、いうわけでして、丸の内はイルミネーションに彩られていました。

 

丸の内は、明治時代、一丁倫敦(いっちょうろんどん)と呼ばれたレンガ街が形成されました。
現在は、東京駅や三菱の美術館や新しくなった丸ビルなど、同時の面影が復古して、観光や散策にもふさわしいスポットとなっていますね。
ところで、都庁が新宿に移転して、新宿が副都心から新都心と呼ばれるようになって久しいですが、丸の内は今も名称として「都心」が使われているのでしょうか。

 

年の暮れですね。巷(ちまた)では、羽子板市だの達磨市だのが行われています。
楽しいですね、年末。
広報は、時折、年末みたいな気分になりたくなる時があり、そういう時には、物を片づけたり、第九を聴いたり、もう何も起きない夜を静かに過ごしたりしているのですが、今は本当に年末なので、その労がまったくありません。

 

年末は、人の心をして、躍り込ませたくなるんですよ。向こうへ。
さて、広報の今日のお昼はシェフの気まぐれカレーです。

気まぐれカレーには茹で卵が添えてありますが、これはシェフの気まぐれではなく、毎度添えてあります。
添える位置は気まぐれかもしれません。

 

先日、14日に銀座に行ってきました。
アップルストアiMac Proを見に行ったのですが、発売当日のせいか見当たりませんでした。
そこで、松屋銀座に行ったらくまモンがいました。

意外とスリムですね。冬眠とか大丈夫なのでしょうか。

 

「冒険」と名付けているからには、アドベンチャーなわけです。
場所も行動も今までにない経験をするわけです。
未知の場に出向くことで、今日の自分は昨日の自分ではなくなるわけですね。
今年も行ってきました。

 

街を歩いても、空を見上げても冬の景色が広がっています。
この頃、木枯らしが色の褪せた葉を散らせますが、この時期の風を木枯らしと呼ぶのは、あたかもこの時期に吹く風が、葉を散らせ木を枯らすかのように見えるからだそうです。

さて、広報の今日のお昼はとんこつ醤油ラーメンです。

暖まりたいのが優先です。
自分で自分を抱きしめて温(ぬく)もるという伝統的な手法もあるにはあります。

 

コカコーラ提供らしきツリーもありました。
現代宗教学系の研究者は、撮影していることでしょう。

 

ヨーロッパには、かつて『クリスマスおやじ』というようなものがいて、すごく大雑把にいうと、日本の『ナマハゲ』に近いものと言われていますが、それが現在のようなサンタクロースのイメージになったのは、戦後フランスからのことと、聞いたことがあります。

確か、3、4年くらい前のソラマチのツリーに願い事がぶら下がってあったのを見て、なかなかファンキーなことをなさると思ったのですが、あれは幻だったのでしょうか。

 

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地下鉄の連絡口には、思いっきりアメリカンなサンタクロースの広告が出ていました。

 

しかし、イルミネーションは幻想的ですが、青春という感じが湧いてこない気がします。

青春と幻想は相容れないわけでもないとは思うのですが。

 


しかし、イルミネーションは幻想的ですが、青春という感じが湧いてこない気がします。
青春と幻想は相容れないわけでもないとは思うのですが。

 

先日、みんなで赤坂まで出向きまして観劇しました。
観劇して、感激したわけですね。
そのあと、広報は単独行動をとりまして、ミッドタウンまで歩いて行きました。

少し遠かったですし、雨も降って来ました。
何をしに行って来たのかと言いますと、21_21 DESIGN SIGHTに出向きまして、2018年2月4日まで開催中の「野生展:飼いならされない感覚と思考」を見て来ました。
この展覧会は、人類学者の中沢新一さんがディレクターをなさっています。
「私たち人間の内に潜み、『まだ飼いならされていない心の領域』こそが、今まさに大切になってきている『野生』のすみかである」 現代における野生とはなにか。自身の内に潜む野生をどのように見いだすのか。見たことのない物事の意味をどのように理解し、表現するのか。本展では、現代の表現者たちのもつ野生の魅力に着目し、さまざまな作品や資料を通して、その力を発動させるための「野生の発見方法」を紐解いていきます。
〜公式サイトより抜粋〜
間近で見ると、異様な感じを受けます。
丸石神は、古くは、縄文時代より信仰されていたと言われます。現代でも山梨県笛吹川沿いのいたるところに転がっているそうです。
縄文人はびっくりしたでしょうね。
「なんだこれは」って。
岡本太郎が「なんだこれは」って、言っていたのは、縄文人クラスの驚きだったのかもしれません。
真円に近いものを自然界で見ることは異様な感じを与えます。
心がざわつくわけです。
思うに、そこにこそ、現代の言い方で言ってしまえば、インスピレーションの源泉があるかと思います。

その「不思議」をしらけてしまうのではなく、確かなものとして見ようとすれば、自分の奥底の野生が蘇るわけです。
沈んでいたものが再び表れ出ることは、「よみがえり」と言って差し支えはありません。

 

次の大きな部屋に入ると、「かわいいの考古学」と題した展示がありました。
縄文時代この方、自然と人間の通路を作るための手法として「かわいい」を用いてきたのではないか、自然と人間の中間に位置するものを「かわいいもの」にしてしまったのではないかという展示です。

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郷土玩具のほか、木彫りの熊や縄文土器、さらには、ケロちゃんやキティちゃんの展示がありました。

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なぜキティちやんがいるのかというと、自然を人間側の存在として表現し、写し取るに際し、リアルという手法ではなく、今で言うところの「かわいい」という手法をもって、表現してきました。
猫を西洋人が描くと、リアルになりますね。

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ところが、日本人が写し取り、ブラッシュアップすると、キティちゃんにしてしまうわけです。

 

イラストレーター兼グラフィックデザイナーの黒田征太郎さんは、自身の思考や発見をその場にある髪に次々と出してゆくことをしていらっしゃるそうです。

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ホテルの便箋や居酒屋のコースターに描いています。

 

このようなものが壁の端から端まで展示してありました。
思いつきや、思考の突破は、テキストでも絵でも、紙の上に置くことで「物質化」し、走り始めると言うことが少なくないと思います。
しかも、その試行回数が、質に結びついてゆくと言っても差し支えはない気がします。

 

野生といえば、レヴィ=ストロースの『野生の思考』を思い出します。
科学的思考が分析的思考であることに対し、野生的思考が関係づけの思考であるというようなことが書かれて居たかと思います。
「科学的説明とは、複雑さから単純さへの移行ではなく、可知性の低い複雑さを可知性の高い複雑さに置き換えることなのである。」大橋 保夫 訳298ページ
自分で自分の論理や概念を作り上げてしまえば、もはやそこから出ることはありません。
ノイズをノイズとか抱えてゆかなくてはならない場合もあります。
言葉にした途端に方向がずれてしまうこともあるのです。
どこかで分析的理性を飛び越えなくてはなりません。

 

「腹稿」とは、原稿を書き始める前、構想段階のアイデアスケッチのようなものなのですが、紙にびっしりと文字を連ねてゆきます。
熊楠は、原稿を書く前に自分の頭に浮かぶものごとを次々と書き出して居たんだと思います。
それは、かなりのスピードで出されて居たのではないかと思わせる書き方でした。
少し驚いたのが、文字を連ねてゆくほか、関連するものは丸で囲み、さらに線を引っ張って、新たなカテゴリーのアイデアを書き連ね、また丸で囲み、という具合に、あたかも現代のマインドマップのようなことを100年ほど前にすでにやっていたことです。
それこそ『なんだこれは』体験でした。
発見方法を自分で作り出す。見習いたいものです。

 

論理では、表面しか見ようとしませんし、粘菌という不思議な存在を、すでにあるもので分類してしまいそうです。

 

こういう展覧会は面白いですね。
野生が目覚めそうです。
すでに「物事を体系的にとらえる」だけでは済まなくなっている気がします。
考えを単にまとめてほっとするのではなく、高い次元にむしろそのまま上げ、さらに自分や人々のインスピレーションを促し、関係性を深めてゆくような思考を持てる性質が評価される、そういう人と仕事をしたいと思うような時代になっているのではないでしょうか。

 

先日、『でも、少しつかれたな、たのしいな、サンタマリア。』という一文を書きましたが、これは、宮沢賢治の『オツベルと象』のパロデイでした。
お話は、森から出てきた白い象が人間に使役されてしまうのですが、そのくたくたになる過程で、象が『「ああ、つかれたな、うれしいな、サンタマリア」と斯う言った。』というセリフをはきます。

オツベルと象』は、最後の一文も有名ですね。
「ああ、ありがとう。ほんとにぼくは助かったよ。」白象はさびしくわらってそう云った。
 
おや〔一字不明〕、川へはいっちゃいけないったら。
最後の一文が唐突に思えます。
過去や遠くの話から、いきなり目の前の話に持ってくる書き方です。
一字不明なのは、象でしょうか。
川へ入り、川を渡るということは、別の世界に行くことですから、憧れて自分の世界から出てはいけないということかもしれませんが、解釈はいくらでもできそうです。
しかし、広報は宮沢賢治の作品にを思想性を持ち込むのを勿体無いと感じてしまうタイプですので、この唐突とも言える一文そのものに解釈を施(ほどこ)さずに味わうのを好んでしまいます。

 

日本語そのものを味わえる文章を書きたい。
漢字の場合は、むしろ描きたい。

 

今日は鋼鉄のような青空が広がっていました。

すでに冬に入っていますが、明日は、この冬もっとも寒くなりそうです。
鍋ですかね、鍋。
薬膳鍋とか好いですね。

 

たまには縦位置です。
ところで、上の空の写真とラーメンの写真を見比べますと、ラーメンの写真の方が細長く見えますが、縦横の比率は同じなのです。
人間の目の位置は、横についているので、水平方向に比べて、垂直方向の認識が苦手なのだそうですが、目の錯覚って不思議ですね。

 

先日も、お伝えしましたが、現在、パンフレットを作っているといいますか、考えています。
実は、広報は、広報ではなく、エディターですので、広報が作っているのですが、そのような内部事情はさておいて、目を閉じると彷彿として眼前に受信トレイが浮かんでくるので、明日、広報はお休みします。

ここは、やっています。

 

21世紀が月曜日から始まったことを覚えている人はどれくらいいるのでしょうか。
今世紀自体が、始まりにふさわしく作られているのです。

 

そう言えば、皆さんはお正月休みはいかがお過ごしでしたでしょうか。
広報はほぼ毎日12時間眠っていました。
びっくりするくらいに眠られました。
17日間休みがありましたので、少なく見積もっても180時間くらいは眠った勘定になります。
目の覚めている時は考え事をしていました。
童話の王子様は、なにゆえああも個性がないのかと思い、例えば、童話のカップリングを変えてみたらどうだろう、シンデレラの王子がハムレットだったらどうなるだろう、と考えました。
とりあえず、『インドの王子(釈迦)だったら』は、やって見ましたが、企画を考えた時のような高揚感は得られませんでした。
昔、ドリフの大爆笑で『もしも何々が何々だったら』と言うコントがありましたが、あんな感じでやってみたいとは思ってみたのですが、テレビコマーシャルのようなものが表現しやすい気がしました。
後は、桃太郎のお供がブリキ男とかかしとライオンだったらとか、源頼光吉備真備が居酒屋で語り合ったらとか、聖マルコと聖ルカが教会で悪魔に誘惑された話を夜通し語り合ったらどうだろうか、など、そう言う事を考えているうちに昨日になりました。
googleのリマインダー機能が、広報の所属先を教えてくれました。

 

今年はいろいろな人と、おいしいものが大いにあるテーブルを囲み、あまた仕事がしたい。
このように、広報の願いを書いていくことを今、思いつきました。
今年中に108を目指そうかと思います。
自分の煩悩は、本当に108あるのでしょうか。

 

今日は、12月25日、巷(ちまた)では、キリストの降誕祭、christmasをそこかしこで祝っていることでしょう。
食堂でも、ツリーが飾られていました。

一年でもっとも浮かれたくなる日の双璧は大晦日と並び立ちます。
12月25日が誕生日の人は、それなりにいらっしゃるでしょうが、子供の頃、自分の誕生日にむかって街が華やかになってゆくのは楽しいものでしょう。
12月25日は元日まで、ちょうど一週間となります。元旦とクリスマスは曜日が同じですね。
年末に誕生日があるという事、それは、自分の齢(よわい)としての一年と暦としての一年が自然と重ね合わさり、少しセンチメンタルな気分になります。
年末近くにに誕生日があると、自分の過ごしたその年と、自分の年を重ねるまでの一年が重なって、少し籠り気味に精神をしずませます。その一週間の間に。
そうして大晦日にピークをむかえ、世界が生まれ変わる元日になることで再び活力がみなぎってくるのでしょう。

みなさんは、お正月までの年の瀬をどのように過ごすのでしょうか。

 

今日は冬至なので、少し興奮して早起きしました。
冬至の朝は、日差しも柔らかなものになります。

 

暦では、ずれていますが、冬至も大晦日も世界が極まるという点では、似たようなものです。
生命に活力を与えているのは太陽ですから、その太陽が最も弱まる冬至は世界が極まり、一度終わりを迎えます。
そこから持ち直すわけですよ、世界は。そこで、気分も世界の復活にのっていくに如(し)くはないのです。
年を重ね、場数をこなし、仕事で自分を表現している大人も、そこはノリで持ち直していきましょう。

 

気がつけば、日が暮れています。
明後日は冬至、一年で最も日が短くなる日ですね。
時は底に、天は極まってゆきます。

 

広報の今日のお昼は、12月に入ってから師走っぽく簡単なものばかりになっています。
お気づきでしたか。
鼻血を出さないために、仕事場内はお能の如くゆるりと動いている広報ですが、仕事はし続けているんですよ。

 

先日、ミッドタウンでは、イルミネーションが盛んでした。

芝生を宇宙に見立て、太陽や惑星などをイメージているそうです。

東京タワーも近くで彩りを添えています。

クリスマスマーケットも出ていました。

 

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行ったのは、まだ鼻血を出していた11月頃でしたので空いていましたが、この週末は、2時間待ちらしいですね。

パンダクラスですね。

現在、日没がだいたい四時半くらいですから、その辺りには行った方が良いかもしれません。

夜景をもっとも美しく撮影できるのは、日没直後、まだ太陽の光がほんのり残っている時と昔、カメラマンの人に聞いたことがあります。

 

マグロのカマとか、普通、ランチに出てきません。
むしろ、暖簾(のれん)をくぐらないとありつけないものです。

 

 

『近代文化史入門超英文学講義』(講談社学術文庫)  2007のまえがきでは、

ぼくは自分でさがし、自分で組み立てる快楽一杯の「知恵の実」を食べたp.4

今まで何の関係がと思われていたふたつのものがひとつであることがわかる時に生じる変化を、ぼく自身、今や大袈裟でなく、生きていることの究極の快と思う。p.5

などと、読んで嬉しくなった思い出があります。

さて、当日の授業です。

まず、『今日は、気を入れて5,6人の人生を変えるくらいのお話をします』と、始まりました。

先生は、授業のレジュメにA3プリント両面を使うそうです。

いただいたプリントには、図版やテキストがコラージュ作品のように作られて、アート作品のようでした。

広報が高山先生の授業を解説するのは難易度が高すぎますので、最終講義での先生の言葉を並べることにします。

  • 文字で入ってくる情報をどのようにビジュアル化するか
  • 絵の持っている力は文字の4-5倍
  • ビジュアルカルチャーに関する理解が人文にも重要
  • もらった教材を大切にする感覚が大事
  • (文学を)自分の体験したことのないものを自分の体験として咀嚼して蓄積する
  • 『専門 多数』は、大事なこと。
  • ビジュアル表現を教えられる先生が必要 漫画でしか伝えられないメッセージがあるということ
  • アートの目的は驚かせるもの 文化はある段階に来ると動かなくなる アートの中でそれを超えたものがマニエリスム

他にもロマン派や、ピクチャレスクなどのお話も聞けました。

最後に、『みんな、高山宏のライフスタイルになろう』と呼びかけて、大教室は和やかな笑いに満ちていました。

 

今日は、お昼を過ぎた頃から、静かに雨が降り出しました。
冬の雨ですね。
今年に入って初めての雨が、校庭の色を濃くしていました。
こういう夜は、鍋焼きうどんが食べたくなります。
釜揚げうどんやうどんすきもいいのですが、鍋焼きうどんでなければ出せない心情もあります。
かまぼことお麩入りが好みです。
冬は暖かく。

 

今時分はなんでしょうかね。
ひらめとかバイ貝でしょうか。
冬ざれの夕餉(ゆうげ)にいかがでしょうか。
さて、広報の今日のお昼は○○です。

 

ふとした目線の先のカレンダーに2018年と書いてありましたが、なんというか、西暦は、19XXのかっこよさには敵いませんね。
1999年とか、気分が高揚しちゃいます。
2018年とか書いても高揚しないじゃないですか。
いっそ、『AD2018』とか書いたらいかがでしょうか。
一気に近未来マインドになります。

 

広報は、お昼に本を読みながらゆっくり食べるのですが、今日は本を忘れてしまい、食堂の壁にかかった世界地図を見ながらゆっくり食べました。
20分くらいすると、眠気に誘われてきました。
いつの間にやら夢の中にいたらしく、はっと気づいたら口の中に食べ物があったので驚きました。

 

窓越しに見える青空も少し青春。

 

*今年中に願い事を108つあげるコーナー
青春っぽいことがしてみたい。#3
もう少し暖かくなったら。

 

今日は、十日戎(とおかえびす)で、明日は鏡開きですか。
年中行事は、本当に年中あります。

 

昨日の願いは、「あまた仕事がしたい」というところだけ、今日早速叶いました。
早くて驚き。仕事がいっぱいで、ときめき。
スキトキメキトキス

 

昨日は立春、素敵な青空が広がっていましたね。

 

むかし、旧暦では立春を挟んで一か月の間くらいに正月がありました。
つまり、旧暦12月後半から1月前半のどこかに立春は来るわけです。
立春は、春が立つと書きます。
春が立つ。
噂が立つ。
見通しが立つ。
顔が立つ。
筆が立つ。
思い立つ。
と言う具合に、立つとは、何かが具体的に感じられるほど、あらわれるという意味があります。

 

立春は、天文の話で言えば、春分から太陽が黄道を315度移動した地点だそうですが、広報にはなんのこっちゃわかりません。
高校の時なら、なんのこっちゃわかった気がします。

そういうわけでして、暦の上では春になりました。
今年は、もう少し真冬が続きそうですが、温かくして行きましょう。

 

広報は油揚げが好きでして、それはもう狐と張り合えるくらいですよ。
お味噌汁のほか、炙って醤油を垂らしたのも好きですし、おでんの餅巾着も好きです。
今日のお味噌汁も美味しかった。

 

味噌汁椀かと手にして飲んで、味がしないなと思ったら、お茶だったことはありませんか。
広報はあります。
その昔は、デカビタCのつもりで、ベーパーセメントの琥珀色の瓶を手にしたことがあります。
蓋を開けたところで気づきました。

 

今夜は、月が霧の中に浮かんでいました。
月は太陽の光を受けて夜を照らします。
その下で練習です。

 

空気も水も澄んだ頃になっています。
風のあるなしにより、寒さの感じ方も違いますね。
底冷えのするような寒空には、おでんに雑炊に湯豆腐など温かいものは美味しいですね。
昔は、商店街におでん屋さんなどが何軒かありまして、かまぼこやボールを好んで食べていました。
おでん屋さんは、夏になると俄然として氷屋さんに変わったものです。

 

昨日は、掃除と洗濯をした後、ぼんやりと過ごしてしまいました。
毎日起き続ける小さな奇跡と生まれ続ける淡い思いはどこへ向かうのでしょうか。
蒼く澄んだ空は地図もなく、瑠璃色の無干渉な大空を後ろにして。

 

このようなプレゼンは何より、自分が話したいことを話す。
これに尽きると思います。
そのためには、日々、自分の気持ちを丁寧に見てあげることだと思います。

表現するということは、どういうことでしょうか。
自分の考えを伝えるには、頭の中にある言葉をそのまま伝えても伝わりません。
言葉を選び、足らないことは調べ、研究し、まとめ方も工夫した上で伝える。
自分の思いを表現するのが創造性であるわけでして、表現は、自分と他者との境を見据え、やがては自分を解放するということと考えています。

 

マグロのタタキです。
またしても、ランチにあるまじきメニューを持ってきました、料理長。

 

昔、広報は生魚が苦手でしたので、お寿司屋さんに行っても少し炙(あぶ)ってもらっていた思い出があります。

 

雪、解けませんね。
このような夜は、温かいお風呂にゆっくりと浸かりたいものです。
広報は、考え事が片付くまで風呂に浸かり続けている時が少なくないのですが、この時期は使っている最中にぬるくなってくるので、追い炊きをすることもあります。
近頃は、アロマ系のなんとかを湯船に入れてリラックスしたり温まったりしたりするそうですが、昔は、干菜湯などというものもありました。
大根や蕪(かぶ)などの葉を干したものを入れたそうで、温まったそうです。

 

今週は寒波が押し寄せています。
大手町あたりでも氷点下が続いています。
もう少し加減してほしいものです。自然。

 

雪が止み、二日経ちましたか。
月も水も風も雪の残る景色は冴えわたりますが、深雪の景色に枯れ枝に積もった雪を押しのけて芽が膨らんでいる姿は、心を浮き立たせます。
今がまさに真冬ですが、この頃は、寒さは底になりつつあるものの、降り注ぐ陽光も冬至の頃と比べて眩しくなりつつあります。
そう思うと、新暦新暦でうまく作られている気がしますね。
冬至のあくる日を新年とするのでもなく、寒さの底を抜けつつある二月の初めあたりを新年とするのでもなく、一度凍てつくけしきを超えてから春を迎えるわけです。

 

パンフレットを作り始めたのですが、下版(げはん・もう、これで印刷しますよ状態)日を決めた時に我ながら,思わず笑みがこぼれ、カメラマンさんに伝えたら爆笑されました。
実は、撮影もこれからなんですよね。テキストも書いていないんですよ。各所への調整も今しているんですよ。台割り作っただけなんですよ。
やるしかないデース。
ネクタイよりもむしろハチマキを締めないと。
と、いうわけでして、昨日のお昼はアイスとおせんべいで済ましてしまい、このブログもお休みしてしまいました。