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魚増(うおます)

   魚増(うおます)

 

新宿駅頭(えきとう)を西に出て、超高層ビル街を抜け出たところに、かつての景勝地の面影を残す中央公園がある。中の池に落ちる滝は、いまでは人工の滝に見えるが、かつては自然の滝であった。滝のほか、大小の池を擁し、江戸時代から名所として知られ、周辺には、戦前まで花街が賑わいを見せていた。

中央公園の北側は長い坂になっていて、山の手と下町の境をなしている。

下りきったところは、青梅街道と甲州街道に大きく挟まれ、ゆるやかな谷を形作り、先にずっと行けば、神田川が流れる低地に出る。

 

やがて神田川のもっとも低いところに向かう一歩手前に広がるその町は、二十年ほど前までは、入り組んだ路地が二股三股と分かれて、小さな家の軒がひしめき、その間にしもた屋や町工場が納まっていた。銭湯があり、寿司屋が飲み屋を兼ねている。いわゆる下町なのであるが、戦後になってから住宅が増えたために、義理人情にしても家並にしても濃密さや洗練さが比較的薄い。それでいて、山の手のように整然としているわけではなく、郊外のように広い空も望めない。

木造住宅の庇に区切られて、空には超高層ビル群がそびえていながら、二股路の取っ付きには、昼間も薄暗い地蔵堂のなかで、切り絵の人形や幾何学的な連続模様が下がっている。

日常の買い物は、商店街で済ませるが、ちょっとした買い物は、新宿に出る。最高の買い物は伊勢丹で。そのような人々が暮らす街である。

似たような町があるようでないから、新宿から抜け出てきた人には、妙な感じを与えることになるだろう。

近頃は、高層マンションやオフィスビルが立ち並び、拡張した新宿の一部となりつつあるが、往時は、戦後に建てられたそのままの木造の家屋が残り、区役所発行の防災マップでは、常にレッドゾーンに指定されていたような町だった。

律が子供の時分を過ごしたのは、そのような町であり、まだ、ちんどん屋が町内を練り歩いては、商店街の売り出しを告げていた時代であった。

 

 

『新宿副都心経由 新宿駅西口行』

案内が書いてあるバス停の下で、律は一休みした。

ラクダ公園から自転車を引きずってきて、だんだん休む距離が短くなってくる。いまは二十歩ほどで止まってしまった。

十軒ほど先には、商店街の入り口から漏れ出した光が夕暮れのうす闇と混ざり合って、ぼんやりとした空気を作っているのが見える。

律は、『魚増』なる屋号を掲げた魚屋のせがれであった。

魚増は、商店街の新宿に近い端にあって、魚を商っていた。

この商店街は、全体がSの字をぞんざいに書いたように屈曲していて、端には魚増が入っている市場がある。

市場というのは、卸しをする魚河岸や青果市場のことではなく、大きな建物に個人商店が何軒か集まって商いをする場のことである。

スーパーに入っている魚屋や肉屋などが個別に会計をしたならば、市場と呼べるだろう。

商店街を縮小したものとも言えるが、客にとっては、狭い通路の中で、魚を買い、振り向けば肉屋の店先に立て、市場を出るついでに大根を買えるような作りは便利に違いない。

魚増が商いをしていた市場は、魚増の他、肉屋、八百屋、靴屋、天ぷら屋、豆腐屋、菓子屋、おでん屋、サンドイッチが主のパン屋が入っていた。

律が好んでいたのは、パン屋の蒸しパンだった。薄茶色に染まった山型の蒸しパンは手にすればふわふわして、口に含んで噛めば、ほろほろとして甘みが広がった。

魚増の主人は、十五の年に東京に出てきて、先代の主人の下、住み込みで修業を始めた。

その時分はまだ、祝いや記念の席では肉やケーキではなく、刺身の大皿が出されるような時代であったために、商店街の一店舗といえども、店主夫婦のほか、職人や見習いを入れなければ間に合わなかった。

彼は、魚増の天井部屋で酒とたばこを覚えながら、包丁さばきの修行に勤しんだ。

二十六歳の時に、隣町の商店街にある米屋の娘と結婚して、同時に先代から魚商(ぎょしょう)の株を譲り受けることとなった。その翌年に長男の律をもうけた。

律が生まれたのは、西新宿の淀橋浄水場跡地に、京王プラザホテルが超高層ビル街の嚆矢として竣工したその年であった。

魚増の主人となった律の父は、新婚を機に魚増の天井部屋から移り、妻とともに近くのアパートを借りた。当時のことで、風呂はなかったが、六畳一間のアパートでも新婚夫婦のつましい新居として用いられたのである。

律が小学校に上がるまでは、商売は繁盛していた。刺身の注文も多く、寿司屋が出前をするような自転車で、律の父は近所の得意客を回っていたが、すべては先代から受け継いだ客であった。

年末には、田舎から親戚が手伝いに来て、店先に並んだ色とりどりのお節料理を売りさばき、また、吊るされた何十匹もの新巻鮭を、注文に応じて歳の暮れの挨拶用に包んでいた。

律の父は、会社の勤め人よりもよほど懐が暖かく、律が五歳になったころには、貯金が三千万円を超え、家をどこに持とうかという話になっていた。

すでに、市場の中では同世代の肉屋と八百屋の主人が家を持っていたから、対抗する意識もあったのだろう。

しかし、律の父の仕事振りは早さが自慢のところがあって、質を重視した丁寧さに欠けていた。

忙しい時代であれば、客の方も場を賑やかにする量さえあれば満足していたのであるが、昭和も五十年代の半ばに入ると、質と丁寧さ、それもサービスとしての姿勢が求められてくる。

これは、律の父には欠けているものであった。

律の父には、客に喜んでもらうにはどうしたらよいのか、との頭がなかった。客が安い魚を注文すれば、晩酌で、「あいつはアカニシだからな」と軽蔑するように言っていたのだから、その心根がしだいに品物にも表れてきた。

律も小学校に入り、六畳一間のアパートでは立ち行かなくなっていた。思い切って家を買おうという考えもあったが、ひとまずアパートに越すことにした。

それが、市場の二階に据え付けられたようなアパートであった。

アパートは、狭い2DKが二世帯だけ並んでいる。

路地に面した八百屋の脇にある鉄の外階段を上がってゆくと、アパートの外廊下に出る。手前が魚増の主人が借りている部屋である。市場の二階と言っても、ベランダもあるし、三面採光であるから、普通のアパートと変わらない。むしろ、ずっと開放的である。木造の市場ができた後に建て増ししたらしく、外廊下やベランダもコンクリート製で、共用の屋上もある。

市場には二階部分が二カ所ある。商店街に面した側と裏の路地に面した側である。

商店街の通りに面した側には、菓子屋とパン屋が面し、裏側は、八百屋とおでん屋が店を構えていた。

魚増の主人が借りていた部屋は、この八百屋の二階部分にあった。

表側は、市場に接して乾物屋があるが、これは市場の大家である。

この乾物屋と市場の間に通り抜けがある。

むき出しの土に踏み石が並び、魚増の裏がもっとも広くなっていて、幅は二メートルくらいあり、そこだけ空が抜けていた。魚屋の樽や箱やらが置いてあるが、律は、そこの土に死んでしまった金魚を埋めていた。魚屋のせがれが金魚のお墓を作っていたのである。アイスの棒で墓標を作ったのであるが、作るたびに、墓標は捨てられてしまう。

この通り抜けを乾物屋側から入って、真中まで行くと、二階に続く木の室内階段がある。ここの二階には、天ぷら屋の夫婦と若夫婦が同居していた。

律も何度も遊びに行ったが、通気口のような小窓があるだけで、昼間でも裸電球をつけて薄暗く、要するに屋根裏部屋であった。

律が小学校の三年に上がった年に、市場の近くに小さめではあるが、スーパーができた。

影響がありそうだったのは、肉屋と八百屋、それに魚増であった。

肉屋は、飲食店の卸しに力を入れることで乗り切り、八百屋は、表に面していたのと、店員の愛想のよさで売り上げを保った。

客足が鈍ったのは、魚増であった。

魚増は、店に出せばすぐに売れるような時代のやり方で売っていたから、客が少なくなるにつれ、品物も痛みやすくなってしまう。

仕込みが終わって品物を店先に並べてしまえば、律の父は、夕方までやることがなくなるような有様となっていた。

しだいに、昼間から酒屋の店先で量り売りの酒をあおり、その足で夕方までパチンコ屋に籠るという生活が習慣づいた。

その姿は噂として広まるわけであるから、魚増は、律の父が受け継いでから十年ともたずに閑古鳥が鳴きはじめてしまったのである。

律の母は、律に、夕方になるとパチンコ屋から父を連れ戻す役目を与えた。その役目を終えると、律に、その日の小遣い銭を渡したのだった。

夜になって、店を閉めれば、市場の二階のアパートに一家で帰る。晩御飯が済めば、やがて両親の罵り合いが始まり、酒の入った父に向かって、ヒステリックに、「出てけ」と叫ぶ母の声が切り裂くように響くのであった。

夫婦喧嘩は、やがて口だけでなくなり、食器が飛んで割れるようになって、父も拳を振るそぶりを見せはじめた。

律は、父も母も好きではなかったが、男の子だったので、やはり母に情が向き、父にしがみついて、止めるようなことも増えていった。

律は、この二人がどうして結婚したのか、不思議でならなかったから、「結婚しなければよかったのに」と泣きながら言うと、父は、「結婚しなかったらお前は生まれてこなかっただろ」と言った。それには、「別にいいよ」と答えた。

律の物心がついたのは、ようやく小学校三年のころであったから、記憶の始まりから、父の酒とパチンコに入り浸る姿が、母のヒステリーで怒り狂う姿が印象づいた。

律は小学校の六年になって、物心がつくと言う言葉を知った。その言葉を知って、果たして自分に物心というものがついたのは、いつごろであったかを考えた。すると、自分のもっとも古い記憶は、小学校三年の時に急性肺炎で入院した記憶であることを知った。

個室ではなく、子供用のベッドが五台ほど並んでいる部屋を覚えている。男子用の部屋はいっぱいだったために、誰もいなかった女子用の病室をあてがわれていた。

毎日血を抜かれたこと、一週間のあいだ、毎夜訪れるしんとした静けさと奥の見えぬ闇と、最終日の昼に出されたカレーライスのおいしさを覚えていた。

そして、それ以前の記憶がまったくないことを知った。

律は、その事を学校で友だちに話していたら、同じ班の女の子が不思議そうに言った。

「律君は物心ついたのが遅いんだね」

「そうかな」

「普通、もう少し早いよ。律君は幸せだったんだよ」

その言葉の意味は考えたものの、わからなかった。律は、自分はどうして遅かったのか不思議な気持ちになった。他の友だちに聞いたら、三歳くらいの記憶がある人もいた。

「記憶って、嫌なことが始まりって言うよ。私の最初の記憶は、雪が舞っていた」

そう教えた子もいた。

 律は、記憶がない時分の自分を知りたくなった。

 その日の夕方、律は、店先の金盥に入ったナマコや水を吹き出すハマグリを観察していた。母が奥から出てきたので、

「僕は子供の時は、どんな子だったの?」と聞いてみた。

母が笑ったので、怖くなって、「小さい時」と聞き直した。

そうしたら、母は、「可愛くてね。よく女の子に間違えられてたよ」とそれまで律が幾度も繰り返し聞かされたことを言うだけだった。肝心のところで、上面を滑るような、いつものしゃべり方だった。

こういう時に、律は、なにか嫌な気分がした。自分の意図するところをちっとも酌んでくれない鈍くて憎たらしい大人という気がして、それ以上は聞くのを止した。

それに、下手に掘って聞けば、自分が説明をする立場になってしまうのを怖れた。

母は、律が失敗すると、『なにしてんだ』と言った。律は、そう言われるたびに、恥ずかしく思ったので、『なにしてんだ』と言われないように、理由も説明もできるようなこと以外を言わないようにしていた。

律は、まじめで感情的なところがある。少しの失敗や変わったことをしているだけで、いちいち『なにしてんだ』と言われると、からかい半分でも自分が否定される気分になってしまう。

律は、母から聞きだせないのならば、アルバムを見てみようと思って、魚増の裏から出て、外階段から家に入って、部屋に向かった。

アパートの玄関から律の部屋に行くには、台所まで進み、右に曲がって六畳の茶の間に入り、また右を向いて進まないと着けない。

本来の構造としては、玄関を入って、すぐ右の引き戸を開ければ律の部屋なのであるが、玄関側には飾り棚と電話台が、律の部屋には、婚礼用の箪笥が二棹並んで戸を塞いでいるために、一周する形でないと、部屋に入れなかった。

律は、箪笥の上に積んであるアルバムを引っ張り出して見てみた。

まず赤ん坊が写っていた。初節句の写真らしく、まるまるとした赤ん坊が飾り兜の前で無邪気に笑っている。それと同じ場面の写真が何枚かあって、次は着物を着て、神社の社殿の前で笑っている写真だった。

母が、「七五三は明治神宮でやった」と言っていたから、これはその七五三の写真だろうと考えた。

残りの写真は、学校で撮影されたものばかりだった。教室で席についている写真。遠足で公園の芝生に座っている写真。どれも、学校指定の写真屋が撮影して、学校経由で購入したものであった。

これが、自分の記憶のない時のすべてなのだろうか。律は、そう思って、目をつぶってみたが、思い出しはしなかった。

律の四畳半の部屋は、箪笥の他に、外廊下に面した窓を隠すように学習机が二台並び、壁側を本棚とカラーボックスが占めている。

箪笥は、両親の服がほとんどを占めているが、引き出しの三段分に律の普段着が入っていた。他の引き出しは滅多に開けることはないのであるが、たまに男の子特有の探検気分でなんとなく開けてみると、赤い浴衣やグレーのスカートやブラウスが入っている棚があり、それが皆、小さな子供用なのである。母の子供時分の物かとも思ったが、デザインや古さが昭和二十年代の物とは思えなかった。

前々から気にかかっていたことではあったので、その日の夜に、店から上ってきた母に、小さなスカートを出して見せた。

「これ誰の」と聞いたら、母は、「お前のだよ」と言った。

律は、スカートなんてはいたこともなかったから、驚いた。

「お前は、小学校に上がるまで女の子の恰好をしていたんだよ。弱かったからねえ。神様に持って行かれないようにしたんだよ」

母は、冷蔵庫から餃子の皮を出しながら、思いがけぬ打ち明け話をした。

律は、「なんで」と大人に対して聞くことをしない性質に出来上がってしまっていたので、それ以上は言わずに、夕食の支度にとりかかった母から離れた。律は、頭の中で理屈を拵えようとしたけれど、女の子のかっこうと、弱いことと、神様が一つも結びつかなかった。

 

街灯に灯が灯って、律の足下に影ができた。

中野の方から来たバスが停留所に近付いてきたので、律は、自転車のハンドルを持ち上げて前輪を浮かすと、商店街に向かって歩きだした。

昨日までは塾の夏期講習に通っていた。

律の家は魚屋であったが、律本人が学校の成績が良かった半面、少しばかり精神的にも肉体的にも発育不全と言ったところがあっために、律の両親は、律が魚屋を継げるとは思ってもいなかった。

律は、生まれた時から病気にかかりやすく、たびたび自家中毒を発症していた。病弱と同時に虚弱であり、車に乗ればたちまち酔って吐いてしまう。新宿から乗ったバスで、最寄りまで堪えきれずに、中央公園の脇の十二社池の下で降りてしまうことさえあった。小学校に入っても、小児科の医院に行かぬ月はないほどであって、いまでも小児科に通って、ピンク色の変に甘い水薬を服用している。

律本人は、勉強が好きでも嫌いでもなかった。勉強をするのでもしないのでもなかった。宿題が出されても、普通の子供と同じく、嫌々やる方で、たとえば漢字の書き取りの宿題が出されれば、まずは部首ばかり縦にいくつも書いてしまって、次に作りの部分をまとめて書くようなことをしていたから、宿題をこなしたからと言って、律の学力が上がるわけではなかった。

それでも律の成績は良かった。小学校六年生になっても、学年でトップクラスを保ち、それもやがて私立の御三家に合格するような女の子たちと成績を競い合っていたのだから、律の両親も律を教育すればやがて立派な稼ぎをするものと思って、四年生まで通わせていた書道教室と水泳教室を止めて、塾に通わせるようにしたのだった。大人は、子供の世界がわからないものだし、律の頭がその発達過程において、まわりからどのような影響を受けて拵えられつつあるのかなどは頓着しないものである。

前半の夏期講習が終わって、お盆までまだ間がある今日、律は、ラクダ公園に行ってみた。

行ってみたら、同じクラスの健ちゃんたちが野球をしていたからまぜてもらった。

夕方になったので帰ろう、ということになり、律も自転車を止めてあった場所まで行って、ズボンのホケットに手を入れたら、自転車の鍵が見当たらなかった。

みんなに言ったら、「自分が通った場所を探すといいよ」と言って、帰ってしまった。

律は、成績だけは良く、班長を任せられることが多かったが、学級委員ともなると、押し付けられたことしかなく、もともと心身ともにどことなく甘くできていたから、皆をまとめて指示に従わせるような賢さはなく、同年輩の男の子からは軽く見られていた。

律は、遣る瀬無く、一人で残って広場やラクダに擬した滑り台の下やベンチを探してみたものの、見当たらない。

日は陰り、公園全体が灰色に沈んできた。律は、仕方なしに、自転車のハンドルを持ち上げて前輪を浮かす形で引っ張って帰ることにした。

三十メートルも行かないうちに二の腕が痛くなって、立ち止まった。再び持ち上げたら、今度は十メートルくらいで立ち止まってしまった。公園から商店街の入り口までは二百メールくらいある。商店街の入り口から、市場まではさらに五百メートはある。

こうした場合、普通の子供ならば、ひとまず歩いて帰って、親に言うなりするものだろうが、律は助けてもらいたいことがあっても、助けを求められず、むしろ自分の苦しみを隠すような性質になってしまっていた。

途中から、頭の中でアニメの主題歌を歌うようにしたら少しは気がまぎれて、長く引きずれるようになった。

 

自転車のことで言えば、律が小学校四年生の時に、母がひどく叱りつけたことがあった。

その日は、秋の深まる前の暖かな日だった。

日曜日の午後に、公務員住宅の公園で、友だちの谷田君と遊んでいたら、谷田君が、「おばあちゃんの家に行こう」と言いだした。

「どこにあるの」律は聞いた。

「立川」

立川は行ったことがなかった。社会の授業で使った、「みんなの東京都」という教材に書いてあった立川だとしたら、とても遠いはずだった。

「おばあちゃんちに行って、おやつ食べよう」谷田君は言った。

谷田君は、中央公園に行こう、くらいの口調で言うから、律は、その言葉につられて自転車で谷田君のあとについて行った。

ただついて行けば、谷田君のおばあちゃんの家に着くものだと思っていた。

大通りに出て、中央公園を過ぎ、水道局の平べったい藍色の建物の前で曲がり、少年たちが野球をしているグラウンドを見下ろし、新宿駅を抜け、御苑を過ぎたら、もう知らない世界だった。四谷に出て、何度か来たことのある教会が急に見えて、律は驚いた。

それからどのくらい自転車をこいだのだろうか。どうもなにかが違っている気がした。

律は、男の子供の例にもれず、自転車でも歩きでも、好奇心の赴くままに角を曲がって、やがて知らない場所に出てしまうことがよくあった。それでも迷子になったことがなかったのは、とにかく高いところに出て、新宿の超高層ビルを見つければ、方角がわかったから、戻って来られたのである。

しかし、この時は勝手が違った。長い坂を上がり、広い空が見えるところに来たのに、空を区切ってそびえる超高層ビルが見えなくて、不安になった。そのくせ、普段は住友ビルの展望台にでも上がらない限りは見ることのない東京タワーが見えて、しかもそれがあたかも静岡県内で見る富士山のように大きく見えた。

ビルの壁にかかる住所表記の看板を見たら、新宿区でも渋谷区でも中野区でもない違う色をしていて、『港区』と出ていた。

律は、港区の近くに立川があるとは思えなかったので、前を走る谷田君に向かって、「港区だよ」と叫んだ。

谷田君は、振り向きもしなかった。

薄暗くなってから、谷田君が皇居近くの交番で道を尋ねた。立川に行きたいという言葉に、すぐに両親に連絡が行き、律の父が軽トラックで迎えに来た。

律の父は、酔うと気が大きくなり、「律よお、人生死ぬまで生きるんだぞ」とか、「律よお、いちばんにならなきゃならんぞ」などと、酔いに任せて説教じみた繰り言を述べるのであったが、この時は、もちろんしらふであり、谷田君もいた手前、一言二言戒めたくらいだった。しかし、帰ってから母は、凄まじく叱りつけた。律が泣いて赦しを乞うても延々と怒鳴ったが、律は、そこかしこにくさびを打ち込むように繰り返された怒鳴り声以外は覚えておらず、恐ろしさだけが残った。

律は、その怒りを愛情からくるものととらえられる性質ではなかったので、ただ怒られるのは嫌なことだと思った。

今回、ラクダ公園で自転車の鍵をなくしたことでも、やっぱり助けてもらえば、それに付随して怒りを向けられるだろう。律は楽になることよりも、怒られるのが嫌だったから、こうして自転車を引きずってきたのであった。

 

歯医者の入り口に、『お盆休みのお知らせ』と出した張り紙が出ているのが目に留まった。

律は、もうすぐお盆だけれど、今年のお盆はどこかに行くのだろうかと思った。

去年までは、お盆休みになると、二泊三日で、父の田舎に遊びに行っていた。

父の田舎は信州の山間にある。

農家であり、裏山を持ち、目の前には小川が流れ、隣の家まで何分も歩くようなところであった。

毎年、お盆になると、残っていた魚を氷とともに発泡スチロールに詰めて軽トラックで出かけた。

律は、車酔いには毎度どうにも参ってしまったけれども、途中で買い求める峠の釜めしは楽しみだった。また、田舎に着けば、嫌な奴もいないし、夫婦喧嘩も見ずに済むし、心の安定につながった。解放された気分で、いとこたちと、川に入ったり、山にとけこむように遊んだり、また、東京ではやれないような、打ち上げ花火や爆竹花火を楽しんだりした。

しかし、去年のことであった。

律は、夕飯に出された冷やし中華のキュウリを残した。

律がキュウリを食べられずに残すのはいつものことであったので、当人は子供たちの部屋に戻って、お兄さん役のハルくんやナノカと遊んでいたら、律の母が、いきなり律の名を叫んで入ってきた。母の目はつり上がり、唇は波を打って震えていた。

「来い、来て謝れ。まったく癪に障る」

喚き散らしながら手を引く母に、律は怯えるばかりだった。

居間に入ると、そこには叔父が控えていた。

夕飯後の団欒で、律がキュウリを残したことについて、半ば酔った叔父が律の母に説教をしたのであった。その恥と怒りで頭に血が昇った母は、半狂乱のごとき姿で律に謝らせた。

律にとっては、その後の人生で、律の弱い心を形成してゆく何百というトラウマの一つに過ぎなかったのだが、田舎に行くことは、去年限りになってしまった。

 

商店街に入ると、一度に景色は色彩を増す。

明かりに照らされて店先に並ぶ、西瓜や桃。蒲団屋の店先に掛かったキャラクターもののタオルケット。買い物客の装いや、買い物袋。

それに、いまは、商店街に提灯が並んでいる。

お盆明けに催される夜店市の提灯だ。

商店街では、毎年、お盆明けに夜店市を催している。

いつもは七時前後で店を閉めはじめるところがほとんどであるが、夜店市の日は、九時過ぎまで開けて、米屋や豆腐屋の店先で焼きそばやフランクフルトを売る。普段から店先で餃子や焼き鳥を売る店は、単に閉めるのを遅くするだけである。

そのほか、日替わり店舗のようなところには、縁日商人のような者が店を出す。

 

去年、律は、千円ほど手にして夜店市に遊びに行った。

晩御飯を兼ねて母が持たせたものであった。

律は、その千円を手にして、日替わり店舗で包丁を売る店に出た。

上等の包丁が千円と書いてあって、とても安いと感じた。さらに、湯呑もつけると言っている。律は、千円を使って包丁を買った。母が喜ぶと思って、すぐに帰った。

魚増の裏で樽を抱えていた母は、その見るからに薄っぺらな包丁を見ると、

「馬鹿だね、こんなバッタ品買わされて。まったく癪に障る」と腹を立てた。

律の家は魚屋である。店にも家にも魚をおろすための包丁が、それこそ売るほどあった。それなのに律はわざわざ、安物の包丁を買ってきたのである。

母が呆れたのも仕方のないことであったが、律自身にしても、どうして食べ物を買わずに、使いもしない包丁を買ったかわからない。

包丁を買った時のおまけでもらった湯呑は、寿司屋が使うような大ぶりの物であったが、律が使うことにした。

使いはじめたその日の晩、父が、「なんで、お前は俺より大きい物を使ってんだ」と小言じみたことを言ったが、そのまま使い続けた。

 

自転車を引きずりながら、魚屋の前まで来た。

今日は、よくいろいろと思い出す日だ、と律は思った。

そして、思い出すことというものは、たいてい嫌な思い出だ。律にはそれが不思議で仕方がなかった。自分にも楽しい思い出があるだろうに、自然と思いだすのは、嫌な思い出ばかりだ。

自転車を運ぶ道のりは、ようやく半分まで来ていた。

しかし、律の二の腕は感覚が鈍っていたし、ペダルが脛に当たるから、脛も痛む。それなのにまだ半分しか来ていないことに律は悲しくなってきた。

魚屋からは、「いらっしゃい、タコにイカ、カンパチにカジキ、カジキどうよ」と威勢のよい声と、手を叩く声が聞こえてきた。

商店街には、同じ物を扱う店が二店舗から三店舗ある。

肉屋、魚屋、八百屋、菓子屋、パン屋、米屋、豆腐屋御茶屋おもちゃ屋、文房具屋、電気屋、酒屋――。

一軒しかないのは、果物屋に鳥肉屋に写真屋、そしてパチンコ屋くらいである。

市場に入っている店よりも小さい店もあるが、たいていは、市場にある店の方の規模が小さい。

いま、律が店先で一休みした魚屋も魚増の倍くらいはあって、お客さんがあふれている。

職人も見ただけで三人が奥で動いている。ねじり鉢巻きをして、白衣に前掛けをつけて、皆、きっぷがよさそうだ。

売り上げは魚増の何倍あるのだろうか。

 

律の両親の夫婦喧嘩は、今年の春になって、少し落ち着いてきた。

春になって、子猫が来たのであった。

子猫はモグくんと名づけられた。

猫が来るのは、律が小学校四年生の時以来、二度目だった。

はじめの猫は、近所に住む得意客の、すでに結婚していた娘が子供を産むことになって、猫の引き取り手を探していたものだった。

ブルーペルシャと呼ばれる種類のその猫は、血統書つきで、長い毛足をまとって、むすっとした顔をして物憂げにじっとしていることが多かった。

律は、猫が好きだったので、とても喜んだ。毎日学校に行く前に撫でてから行っていたし、ご飯を上げる役目も引き受けた。

一年近くたった冬休みのある日、律の父は、市場が休みのために、家にいた。炬燵で酒を舐めながらテレビを見ていた父に、母が、「ぶっつわっていないで、外行って来んだよ」とその物を言う声にとげを混ぜて言った。

父は、起き上がると、猫のリキくんを散歩に連れて行くと言いだして、首輪に着いた紐を引っ張って出て行った。

帰ってきてから、「こいつ全然動かないんだよ。それでも公園の砂場で少し走らせたけれどな」と言って、満足そうにしていたが、その夜、リキくんはくしゃみをしだした。

翌日になって、リキくんは、熱を出しはじめ、ぐったりとした。

仕込みを終えて、昼過ぎに一度家に戻った律の父は、リキくんの毛を抜けるだけ抜いてしまった。どうしてそんなことをするのか、律は聞かなかったし、考えてもわからなかった。

翌日、リキくんは死んでしまった。肺炎ということだった。

今度来たモグくんは、律が名づけた。

ご飯を上げると、がつがつ食べはじめるのだが、おいしそうに、声を上げながら食べる。

食べながら声を上げるから、変な鳴き声になるのであるが、その声が、「もぐもぐ」と言っているように聞こえるから、モグくんにした。

モグくんは、雑種の雉トラの、しかも子猫だけあって、じっとしていなかった。

モグくんは首輪だけ付けて、つないでおかなかったから、窓から外に出かけていた。

律の部屋は外廊下に面していたが、窓を少し開けてモグくんが通れるようにしていた。

そもそも、律の住んでいたアパートは、家に人がいれば玄関の鍵を掛けなかった。しかも、鍵を忘れたとしても、市場の裏の通り抜けをちょっと入って行った、大家である乾物屋の勝手口の柱に、家の鍵が常にぶら下がっていた。

律の部屋の窓の向こうは、アパートの外廊下であり、廊下の柵を越えると、市場の屋根に降り立つことができた。真下は、魚増の天上部屋である。その向うは再び二階部分があって、天ぷら屋一家の住まいとなっている。

モグくんは、この屋根に降りてから、屋根伝いに行くか、もしくはそのまま市場の裏の地面に降りてから遊びに行っていた。

律も背が伸びてから、廊下の柵を乗り越えて、屋根の上に降り立ってみた。

すると、廊下と屋根の間に子供がもぐりこめる隙間があった。

この場所は、律の秘密の場所になった。拾ってきた石ころやステッキや、また、母には見せられない点数のテスト用紙の隠し場所となった。

モグくんは、いつも明るいうちに帰ってきた。

律がご飯を上げていたから、律にいちばんなついていて、律の後なり先なりつき従い、律が炬燵に入っていれば、やって来て、律の小さい膝からはみ出しながらも、撫でられていた。

律がご飯を食べている時も横にいて、律が食べきれない分をこっそり手からもらっていた。

律とモグくんは狭い家の中で追っかけっこをして遊んだ。

律が走れば、モグくんも走って逃げ、ビクターのステレオセットに立てかけたマットを駆け上がって、鴨居に掛けた額や、クーラーの上にまで上がることも少なくなかった。

六畳の茶の間には、大きなステレオセットと、箪笥が二棹、サイドボードが二台、四畳半の律の部屋には、机が二台と本棚に箪笥が二棹、玄関を上ったところに飾り棚、二畳の台所に、大きな食器棚とダイニングテーブルが詰め込まれていた。三歩としてまっすぐ歩けるスペースがなかった。また律の部屋の入り口は、箪笥の幅に半分塞がれていたために、大人は体を横にして入っていた。律は、壁にもたれかかるという経験をしたことがなかったし、壁に絵の一枚を飾るという経験もなかった。

飾り物は、箪笥やサイドボードの上に置かれ、ガラスケース入りの和洋問わぬ人形に占められていた。

鴨居の上は、額縁や水牛の角で飾られていたが、飾られていたというよりは詰め込まれていたと言った方が近かった。

額縁の中は、むかしのお札や切手や小判、またSLのレリーフなどであった。

これらは、何年も前に、市場の向かいにある日替わり商店の行商人から律の父が購入した物であった。

それが、皆、額縁の中で曲がってしまったり、重なって隙間ができたりしているのは、律の父が、パチンコ代、酒代、たばこ代に変えようと、額縁ごと骨董屋に持ち込んだところ、ことごとく贋物か、値の付かぬガラクタと言われて持ち帰ってきた、その傷跡のようなものである。

 

一軒のしもた屋の前に差し掛かった。足が重くなってきて、ふくらはぎもぴりぴりしているけれど、ここは、小学校は別だが、同い年の悪たれの家だから、止まるわけにはいかない。一度、律が家の近くのおもちゃ屋に、お金を握りしめて行った時に待ち構えていて、「手を広げてみな」と律に言った。

律は、小銭を持った手を開いた。その途端に手を叩かれて、小銭が散らばった。慌てて拾ってみたものの、律の手に残ったのは、半分だけだった。

律は、泣きながら、「返して」と繰り返したが、「とってねえよ」と言われるばかりだった。お店が並ぶ前で起きたことだったが、泣きだした律を見ても誰も助けはしなかった。

その隣の萬屋の息子は、律と同じクラスであったが、一昨年、はじめて開いた律の誕生会に、招待もしていないのにやって来た。しかも、プレゼントも持たずに来て、ただ飲み食いしただけで帰って行ったから、苦手だった。

律は、男の子供の多くが嫌いだった。我儘に暴力が付随していて、要求は押し付けてくるくせに、律のように人間が甘くできている子は、軽く見る。

大人の男は別に苦手ではなかった。

市場では、毎月第三水曜日の夜に寄合が行われていた。

市場の各店主が集まって、懇談するものであったが、律もそこにまじっていた。

魚増と天ぷら屋が挟む通路に発泡スチロールとベニヤでテーブルを作り、折りたたみ椅子やビールケースで席を作る。

テーブルには、一升瓶の他、乾き物が並んだ。お酒などは皆、茶碗でぐいとやる。

律は、家がすぐ上だったので、晩御飯の後に、この集まりに加わっていても、大目に見られたのである。

この寄合で、魚増の主人は、「社長」と呼ばれていた。

すでに商いは傾きかかって、羽振りが良くないのを市場の主人たちも知っていたのであるが、皆、魚増の主人を「社長」と呼んではやし立てた。

魚増の主人は、それに気をよくして、「お前も精を出さにゃいかんぞ」などと、気炎を上げていたが、律の目にも、自分の父親が馬鹿にされて「社長」と呼ばれているのは明らかだった。

ただ、律に対しては、律がむかしから成績が良かったのを知っているせいもあり、また、親が親なのを憐れんでいるせいもあり、邪険に扱うような者はおらず、とくに子のいない菓子屋や豆腐屋の主人などは、「律ちゃん、こっちきな」と言っては、お菓子を与えた。

寄合は、四十前後の中年男の会合なわけだから、話は、きわどい方面に流れてゆくこともあった。

律は、まったくのおぼこ息子であったから、話のほとんどはわからずに、聞くともせず、天ぷら屋の出した七輪で、するめや海苔を焙ったり、湿気た煎餅を煎ったりしていた。

時に、肉屋の主人などが、中年男特有の憎体な笑みを浮かべて、卑猥な話を律にしだしても、律はきょとんとしているだけだった。

「よせよせ、律ちゃんは出世して、いいところの御嬢さんをもらうんだから」と豆腐屋の主人が止める。

そこに、律の父である魚増の主人が、「律のやつ、このあいだの正月なんか、女の子からたくさん年賀状をもらいやがった」

「へえ、律ちゃん、やるなあ。甲斐性がある」と菓子屋の主人。

律は、ほめられたようだったので喜んだ気でいたが、その後に続く、「色気づきやがって」という、人に投げつけるような父の言葉には、冗談で包み込んだ棘を感じて嫌な気分になった。

そういう時、律は寄合を抜けるべく席を立って、奥へ歩きだす。

パン屋のケースは空になっていて、菓子屋には一面に布が掛けられている。天井高く、虫取りのための明かりが灯っている。青く、しみいるようなその光を通り抜けて、シャッターを上げて外に出る。

夜も九時近くになると、商店街は、ひっそりと静まって、造り物の枝垂桜をつけた広告燈が等間隔に明るいところを作っている。

少し先には、夜遅くまで開けている薬屋だけが明かりをつけている。

こういう景色のなかで、店と店に挟まれた夜空に浮かぶ月に対していると、律は気持ちがはるかになってきて、夜空に祈りを捧げてしまうのだった。

 

ふと、焼き鳥の臭いを感じて、立ち止った。

『鳥肉の川瀬』とオレンジに塗ったトタンの看板に、太い勘亭流で描かれた看板が見えた。

魚屋は『魚増』とか、『魚定』とか言うのに、どうして、肉屋は『肉の元木』とか、『鳥肉の川瀬』とか名乗るのだろう。

律は、不思議に思っていたから、父に聞いたことがあった。店先で生きたザリガニの入った発泡スチロールに、『一匹百円』と札を出していた父の答は、「好き好(ず)き」とそっけなかった。

そのザリガニが二十匹ほど売れ残ったので、アパートの二階に持って行った。

前に、金魚を飼っていた水槽に入れたら、出目金の目玉が無くなっていたから、今度はベランダに置いておくことにした。

あくる朝、律は、ベランダに出てザリガニを観察しようとしたら、水だけが残っていて一匹もいなかった。

変に思って、ベランダを見回してみたものの、なにもない。

ふと、ベランダの側から下を覗きこんだら、八百屋の店先で、赤黒いものがいくつもつぶれていた。

その日、律は、わざわざ乾物屋側から出て、学校に行った。

 

鳥肉の川瀬は、商店街にただ一軒ある鳥肉屋で、ここまで来たということは、市場まであと百メートルもなかった。

顔を上げると、市場の菓子屋が見えた。コインゲームの赤い光が目印だ。

元気が出てきたら、お腹が空いてきた。

鳥肉屋のおかみが、白衣のまま、店先で鳥肉を焼きながら、客の注文を受けていた。

つくねを食べたくなったけれど、今日はお小遣いを持ってこなかった。

 

律は魚屋のせがれであるにもかかわらず、生魚が好きではなかった。

刺身はほぼ食べられず、寿司の出前を取る際などは、律のために玉子のにぎりと御新香巻が、別の桶で用意された。

焼き魚にしても、食べられるのは、鱈に鮭、それにカジキを照り焼きにしたもののみで、他はまったく食べなかったから、母もそれ以外は、食べさせようとはしなかった。

「お前は、青魚でもウニでもマグロでも食べさせたら皆吐いてしまったからね」

母は、よく律に言っていた。

魚屋の商う物で律の好物と言えるものは、厚焼き玉子とかまぼこ、それとたらこくらいであった。とくにかまぼこは、つるつるしていて、きれいでおいしかった。

そのほか、律の好きなものは、ロースハムに芋天、蒸しパンにプリンであったが、これはそれぞれ市場にある肉屋、天ぷら屋、パン屋、菓子屋で商っている物で、律は日毎もらう百円のおやつ代で、買い食いしていた。

肉屋のハムについては、グラム単位の量り売りであったが、律が買いに行くと、一枚二十円で売るのだった。

芋天やハムなどは、その場で食べてしまうのだけれども、サンドイッチやカップラーメンなどは、魚屋の天井部屋で食べることが多かった。

魚屋の奥には、板で作られた梯子が掛かっている。昇って行くと、物入れつきの六畳一間がある。かつて、律の父が住み込んでいた部屋である。

律は、日が暮れると遊びから帰ってきて、魚屋の天井部屋に上がった。

壁には小窓があって、顔を出せば、豆腐屋の大豆倉庫の屋根か見える。

律は天上部屋に上がると、まず電燈の鍵をねじって、部屋を明るくした。笠のない裸電球のオレンジ色の光が、暗く部屋を照らす。

冬になればコタツになる机に食べ物や飲み物を置いて、テレビをつける。

室内アンテナだから映像には乱れがあるけれども、律は気にせずにアニメや漫才を見ていた。

律が見るテレビ番組は、アニメと漫才に限られていた。ドラマなどは決して見なかった。

ドラマは、いきなり人と人とが言葉をぶつけ合って、揉めはじめるから怖くて見られなかった。そんなのは、現実だけでたくさんだった。

見る番組がない時は、コマーシャルを見ていた。律はコマーシャルが好きで、チャンネルを変えては、コマーシャルを探していた。

テレビに飽きたら、緑色の籠を引っ張り出す。元はオクラやキュウリの入っていた籠で、中には、京扇子や大黒天の木彫りの葉書差しにまじって、合体ロボットの超合金の玩具や、ウルトラ怪獣の人形が入っている。

律の遊び方は、アニメやウルトラマンの人形を役者として使うものであった。

机の上にロボットや怪獣を二体、もしくは三体配置して、律が考えた物語の役者として動かしていた。超合金の合体ロボットとウルトラ怪獣でコントをさせ、場面場面でクレヨンと画用紙を持ち出して、絵に残していた。

玩具遊びにも飽きたころになると、店もしまう時間になるから、家に戻る。

六年生になったこのごろは、猫もいるし、勉強もあるから、天上部屋に入ることはめっきり少なくなってしまったけれども、その部屋での一人遊びもまた律の性質を形作るものの一つであった。

 

脛が自転車のペダルに当たった。何度目だろう。当たるたびに痛さが増してくるようだ。すりむけて、血がにじんでいるかもしれない。

先に見える薬屋の店先に、サトちゃんの乗り物が見える。一回五十円で馬乗りになって遊ぶものだった。いまは、サトちゃんがゆらぐ電燈の光を受けて、その橙色が赤くちらついている。その陽炎のような光を見つめていた時に、いきなり声をかけられてびっくりした。

「ぼく」

買い物途中のお婆さんが心配そうに目の前に立っていた。

「ぼく、大丈夫かい。どこまで行くの」

呼ばれたから、お婆さんの方を見たけれども、律はまだびっくりしている。

律は、前に、いじめられて泣きながら帰ってきた時、それは昼間のことだったが、商店街の端から端まで歩いた挙句、誰からも声をかけられずにそのまま泣きながら家に着いてしまったことがあった。そういう経験も律を頑なに、また混乱させる経験の一つであった。

律は親切なお婆さんに、「大丈夫です」としか答えられなかった。

お婆さんは、「気をつけてね」と優しい含み声で言って歩いて行った。

親切にされたので、律は少し涙ぐんだ。

 

律には、お婆さんと呼んでいる人が四人いる。二人は、律の本当の祖母であるが、残りの一人は、『コロんちのお婆さん』と呼んでいて、山手通りを渡って、区は別になるけれども、歩いて十分くらいのところで駄菓子屋を営んでいる。

コロんちのお婆さんは、律の母方の祖母の義理の妹である。

コロという犬を飼っていたから、『コロんちのお婆さん』と呼んでいたけれども、律が物心ついたころには、コロはいなくて、お婆さんが一人で駄菓子屋を営んでいた。

もう一人は、『平四郎の家のお婆さん』と呼んでいる。

このお婆さんも、また別の区に住んでいたけれども、律が幼かったころ、毎日、夜になるまで律を預かっていた。そのころは魚増も繁盛していて、母が子守をする暇はなかったのである。

平四郎というのは、やはり、そのお婆さんが飼っていた犬で、こちらはまだ生きている。大きな黒犬である。

律は、その家を、主の名前で呼ばずに、犬の名で呼んでいたわけである。

平四郎の家のお婆さんは、律の乳母とも言えたから、律は母よりなついていて、後に保育園に通うようになり、『平四郎の家』をいわば卒業した後もたびたび遊びに行っていた。

庭や廊下のある家が楽しかったのもあるし、掘り炬燵や足踏みミシン、上がったことのない二階など、男の子にとっては好奇心をくすぐる装置にあふれていた。

律は、六年生になったいまでも、月に一度は遊びに行って、庭に降りる。平四郎が見ている先で、蟻の巣を木の枝でほじってみたり、植え込みの葉の裏についている芋虫などをスケッチしたりして遊ぶ。

そんな律に、お婆さんも、トウモロコシの焼いたのや、よじった揚げパンを出してあげた。

 

薬屋の角まで来た。ここまだ来ればもうすぐだ。いったい、どれくらいかかったのだろう。

律は、大半を商店街で過ごしていたが、今日ほど時間をかけて歩いたことはなかった。

あらためて考えると、商店街というものは、不思議なところだと思った。

お店が並んで、物とにおいにあふれている。『売るほどある』という言い方があるけれど、商店街は、それこそ物が、売るほどあるのだ。

博物館の展示品のように、木枠のガラスケースに入った乾物の数々。大きな水槽に沈む白い豆腐や心太(ところてん)。黄金(こがね)色の天ぷらや、湯気を上げるおでん、ざるに盛った野菜や果物、靴に自転車、積み上げられた蒲団。それぞれが特有の色彩と形を持って、同じ物を商う店同士でさえ、一軒一軒が違うにおいを持っている。

そろばんづくの論理が根本であって、お金を持って行けば、好きなだけ物を買えるけれど、なければ、品物を手にするどころか、見向きもされない。

昼間は、店だけが開いている感じなのに、夕方になると、どっと人がやって来てくれる。皆、自分の日常を続けるためにどこからかやって来る。用が済めば、皆、家庭に戻って行ってしまう。夜が更ければ、人通りは絶え、しらじらと打ち棄てられたように、景色が取り残される。

それが商店街であり、商店街で育つということは、その景色を毎日見続けることである。

薬屋の角を曲がって、路地に入る。ここまで来れば、不思議と疲れも痛みも感じなかった。二軒先の果物屋とスーパーが斜めに向き合う辻を曲がる。もうすぐだ。あと市場までは二軒しかない。米屋を過ぎ、寿司屋を過ぎ、市場のおでん屋に着いた。

一度止まって、呼吸を整えてから、八百屋の前に来た。あと五メートルで、アパートの階段に着く。そう思った時、八百屋から、なかちゃんと律が呼んでいる角刈りの青年が出てきて、「律ちゃん、大丈夫かい。鍵どうかしちゃったかい。よし」と言って、自転車を担ぎ上げて階段の下まで運んだ。

腕も足も急に軽くなった。階段で一度つまずいたけれど、平気だった。

アパートの階段を上がりきると、外廊下で、父がランニングに猿股姿でひっくり返って、いびきをかいて寝ていた。

 

猫が死んだのは、中一の春だった。

ある朝、律が目を覚ますと、蒲団にモグくんがのっかっていた。

これまでなかったことだったから、変に思いながらも、脇に退けて起きた。

モグくんは寝ているのか、ぐったりしていた。なにかを吐いているように見えたが、毎度の遅刻ギリギリだったからそのまま学校へ行った。

学校から帰って来た時には、モグくんは死んでいた。

母の話では、なにか、毒を食べてしまったんだろうということだった。

猫が死んだのと、ほぼ時期を同じくして、律の父は、魚増の株を人に六百万円ほどで譲った。すでに商いが立ち行かなくなっていたのであった。

それから、律の父は、目黒あたりのスーパーに職人として勤めに出たが、しみついた性質がことあるごとに噴き出して、酔った挙句にマグロを蹴とばしたこともあり、半年ほどで辞めさせられた。

その後は、母の親戚が商う居酒屋を手伝い、カウンターの内側で酒を舐めながら刺身をさばいていた。

 

中学に上がった律は、かつて律をいじめていた悪たれと同じクラスになった。そうして、悪たれどもから毎日、尻を蹴られるようないじめにあった。

蹴るたびに、悪たれの一人は、「ケツがたるんでんな。女かよ」と言って笑っていた。

律も、一対一の時に反撃をしてみたものの、体格の差もあって、叩かれ、首を絞められるだけだった。

いじめは半ば公然と行われた。

中二になると、悪たれども以外の男子も律をいじめはじめた。

律が廊下に並んだロッカーを開けていると、スポーツマンで成績も良く、他のクラスメイトや教師には評判のいい男子が、「ふっ」と埃を払うように律の顔に息をかけてくる。

律は嫌だったから、「やめてくれよ」と言った。

そうしたら、「なにもしてないじゃん」と笑って、また息を吹きつけてくる。

やがて我慢しきれなくなった律が、手でその男子の肩を振り払うようなことをしたら、「叩いたな」と言って、律を上から叩くのであった。律は小学校の時から、クラスの背の順でほとんど先頭であったから、叩かれる時は、上から叩かれるのである。

中二の冬休みに、百人一首大会が行われた。

律は、百人一首を半ば覚えていたから、グループごとに分けられた競技で次々と札を取っていったが、途中から、律が札を叩くと、その札を横取りする者があった。

仕方なく、律は札を鷲掴みにして取りはじめたが、それでも手を叩かれ、札は落とされる。

そのグループには、商売人の息子だけでなく、社宅に住む、普通の家の男子も二人まざっていたけれども、ただ笑っているだけだった。

このようなことが卒業まで繰り返された。

中学に入ってからは、なにも得られぬまま、苦しみと恐れで時が過ぎた。

律は、ただ我慢するだけの性質に出来上がっていた。

家に帰れば、夜は夫婦喧嘩を目の当たりにせずには済まなかった。

中学に上がってからの律は、夫婦喧嘩をまともに聞きたくなかったので、それが始まると、終わるまでベランダか屋上に出ていた。

律は、代々木にある塾に週四回通っていたが、授業が終わっても、五反田あたりまで友だちに付き合ってから帰っていたから、家に帰るのは、十時半くらいだった。

帰ってきたら、父は寝ていた。律は、本当は塾など行きたくなかった。なにもしたくなかったが、家にもいたくなかったから、外に出ていた。

中三の二学期が終わると、律は、心身ともにクタクタになっていた。卒業までもうすぐだということしか考えていなかった。

進路先の高校は、塾の先生や母は、進学校である男子校を勧めた。律もそのあたりの偏差値の高校に行くものだと思っていた。

年が明けて、律は、正月に印象的な夢を見た。

教室にいる。

皆は、机の上に箱や模型をのせて、なにかを作っている。

他の人がなにか課題をこなしているのに、律はなにもしていない。

なにをしていいのかわからずにいたけれど、人にも聞かずにいる。

なにか言われるのも嫌だから、律は、ただなにかしている振りをしていた。

目が覚めてからも、その夢を忘れなかった律は、そのころできたばかりの単位制高校に行くことにした。

単位制高校に行くと決めた時、律の心には、淀みがなかった。

父は、興味がなさそうに、「そうか。好き好(ず)き」と言った。

母は、「大学くらい出ないと大変だよ」と言った。母は、定時制と区別がつかなかったのである。

塾の先生も考え直すように律を諭した。

しかし、律は、すでに勉強をする習慣を失っていた。

義務として高校に入ったとしても、中学を無事に過ごせなかったのだから、高校も同じ結果になるだろうと、律は、自分で予想がついた。

律は、考えていた。自分は、あの、アパートの外階段でひっくり返っている父と、二言目には、「癪に障る」と言って腹を立てている母との息子なのであることを。

当たり前のように、あの親を、親の人生を越えられると思って生きてきたけれど、自分は初めからマイナスの位置に置かれている気がした。足掻くほどに沈んでゆくような気がした。

単位制高校に行くことは、最後まで反対された、塾の先生からは、私立の二次募集を受けるように勧められたが、律は曲げなかった。

自分を守るために戦うことのできない人間。

自分の望みが他人に通らない人間。

努力ではなく、我慢しかできない自分。

感覚的なものが通じなくなってくれば、下がる一方になるだろう成績。

これだけ自覚して、律は義務教育を終えた。

 

単位制高校は自由だった。制服もないし、時間割も自分で決められて、まとめれば毎日行く必要もなかった。

入学後に仲良くなった女子がいた。その子はバレエをしていると聞いて、律は芸術に興味が湧いた。叔父からもらったギターを弾いてみたり、美術館に出かけたりした。

入学から一年後に、先生の勧めもあって、律は、絵を描きはじめた。

律は、美大を目指すつもりはなかったけれども、絵を描いていると、いろいろな嫌な思い出や記憶が浮かばずに済んだ。

 

高校卒業後は、デザインの専門学校に進もうと思っていたけれど、美大の二部を受けたら受かってしまったから、日本画を学ぶことにした。

大学の一年生の時に父が亡くなった。酒の飲み過ぎによるものだった。

律は、学資保険に入っていたから、授業料の心配はなかった。

二年後に、コロんちのお婆さんが亡くなった。母は、子のいなかったコロんちのお婆さんの家を引き継いで、律も市場の二階から引っ越した。

律は、大学の四年間、美人画を描きつづけたが、就職先が決まらず、ようやく卒業寸前になって、就職課が紹介してきた小さなゲーム会社に就職した。母は、ほっとしていたが、律は、絵を描きつづけていたので、収入のほとんどを顔料代に使ってしまっていた。

律は、絵を描きつづけないと、ふとした隙に、むかしの嫌な経験を思い出して苦しんでしまうのだった。

そのトラウマの数は、十や二十ではなかった。家庭だけじゃない、学校だけじゃない、同級の者だけじゃない、塾だけじゃない、道だけじゃない、電車だけじゃない、車だけじゃない、自転車だけじゃない、新宿だけじゃない、渋谷だけじゃない、会社だけじゃない――。種類も数もいくつもあった。

絵を描くことは、それを抑えられる唯一、律が知っている手段だった。

そうして、家にはお金を入れずにいたら、母がたびたび、「ああ、一人暮らしがしたい」とか、「他人の方がよっぽどいいよ」などと、律に聞こえるように言うことが多くなった。

そこで、律は横浜の郊外に安アパートを借りて一人暮らしを始めた。

 

 

それから二十年が過ぎ、住まいを北鎌倉に移した律は、今も、絵を描きつづけている。

時折、母を思い出すことがあったが、それは、自分にも母がいたなと、漠然と思うばかりに過ぎないものであった。

現在、市場のあとはマンションが建っている。

律の生まれ育った町は、いまでは高層マンションやオフィスビルが立ち並び、往時の雰囲気は人々の記憶の底に沈みつつある。律は、家を出て以来、一度も訪れたことがなく、ついぞその姿を見ることがなかった。

 

 

                                     了